第30話 こっこ その10
「なんだい? やっと太鼓でも打つ気になったのかい?」
からかい口調の女将さんは、見に来る気は毛頭ないらしい。いつものように料理長の作った賄いをひょいひょいと頬張っている。
「仲居のサービスは劣るけど、料理の出来は『蕉風館』に負けないよ」
料理長は素直に照れていたが、あたしも蟻早さんも面白くない。
あたしは半ばむくれながら、『碧楼閣』を後にする。法被や鉢巻きを渡されたが、辞退した。あたしは『さけ太鼓』のチームではない。あくまでも、『碧楼閣』の仲居としてバチを握りたかった。仲居姿のままやらしてほしいと言えば、すんなり受け入れられた。カメラの前にはあたしと太鼓。カメラの後ろには私服姿のおーちゃんと女の子。その後ろには昨日よりも多い見物客。ネットの評判を聞きつけてきた人たちだろう。自前のスマホをこちらに向けている人もいる。撮っていいとは一言も言ってないぞ。
海の向こうには、真っ黒な雲が空を包んでいる。あれが今からこちらに来るのだ。雨が降るなら早くして欲しい。なんなら今すぐにでも。そう願っても、真上だけはまだ快晴だ。
この街は天気の移り変わりが早い、と女の子はボヤいていた。ずっとこの街で育ってきたあたしは、ここの天気の足が速いのかどうか知らない。ただ、早く降ってほしい。今はそれしか考えられない。
足がすくんでいる。手が震えている。蝉の音がやけに遠く聞こえる。水の中に入ったみたいだ。すべての音が遠い。こんな現象が起きるのは、貧血の時だと相場が決まっている。もしくは、緊張している時。
おーちゃんがキューを出した。カメラが回った合図。人の目が怖い。でもそれより、カメラのレンズが怖い。向こうに映し出されているのは、無邪気に太鼓を叩いていたかつての自分。そして、そんな身の程知らずに呆れている周りの人たち。
会長もセンセーもあたしのことを買いかぶりすぎだったんだ。
太鼓を叩くのは、正真正銘、これが最後。もう二度と、触ることすらないかもしれない。いや、無いと信じたい。そっと太鼓の縁をなぞる。このでこぼこした黒鋲の感覚がなんとも言えなくて、好きだった。
おーちゃんも、女の子も、純粋に太鼓のことが大好きなことが伝わる。演奏で分かる。音で分かる。その魅力を、極限まで引き出したのは、センセーの手腕だろう。
だけど前会長の、前の『さけ太鼓』の太鼓が叩けるのは、あたしだけだ。
力強く、バチを握った。
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