第27話 こっこ その7

 次の日、長期休暇が終わり、久々に『碧楼閣』の仕事に精を出していた。今日は二人でも大丈夫、とのことだったので、不安ながら任せてきた。

「まだ続けてるの?」

 蟻早さんは座布団を干しながら、声を掛ける。新人ちゃんはいなくなって、またあたしが一番下っ端だ。そっちのほうが気楽でいいや。あたしは蟻早さんの倍の速度で座布団を置いていく。パンパンと叩き終わったら、次は大量のシーツが待っている。

 もうすぐ『碧楼閣』のリニューアルオープンだ。予約票を盗み見たが、なかなかの客入りだ。それが長く続いてほしいけれど、そうするとこのまま煌びやかの経営方針でいくことになる。それは勘弁願いたい。複雑な気持ちだ。

「そういえば制服も刷新するみたいよ。女将さんがアイデア募集中だって」

「へえ」

 今はオレンジ色のセパレート着物に紺色のエプロンだ。

「昔みたいに、全部着物ってのは、どうすかね」

「動きにくいってことでこんな形になったのに?」

「原点回帰って大事だと思いません? 今じゃ、潮目温泉で女将から仲居までみんな着物着ているところってないじゃないですか」

「そうね」

「従業員がビシッと着物だったら、カッコよくないですか? 冬はぬくいし、袖さえ気を付ければ結構動けますよ」

「自分が着られるから着たいだけでしょ」

 バレたか、とあたしはペロッと舌を出した。

「そういうところが、鯉川らしいわよね」

 こっこ、遠くから女将さんの声がした。厨房の味見の時間だ。シーツを放り出してうきうきと向かいかけるあたしに、現金なヤツね、と蟻早さんは吐き捨てた。妙にあたしに厳しい。でもそういうところが蟻早さんだ。

「あんたも叩けばいいのに、太鼓。おーちゃんやあの子みたいに」

「いやぁ、あたしはへたっぴですから」

あたしたちの活動に否定的な蟻早さんが、どうしてそんなことを言うのか。

「人生観変わるかもよ」

「もう変わってますよ。あたしは」

 あの患者さんに出会って、あたしは自分の気持ちを思い出した。昔の『碧楼閣』への憧れ。あの時の『碧楼閣』に戻したい。欲を言うならば、『蕉風館』を越えたい。この温泉街の中で、『碧楼閣』を一番にしたい。一番の旅館の仲居として、働きたい。あたしの夢だ。

 こっこ! 怒鳴りつけるような声になってきた。これ以上遅れると、食べられる品数が減ってしまう。あたしは急いで階段を駆け下りた。

 厨房は一回の奥にある。わくわくと暖簾を潜れば、そこには料理長と女将さんがいた。備え付けのクーラーはない。窓を全開にして、扇風機を回している。風が出るとよくないので、調理中は閉めているらしい。完全に蒸し風呂状態だ。あまり考えたくない。

「遅い」

 女将さんの叱責に肩を竦めながら、あたしは流し台の上いっぱいに置かれている料理に目を向ける。どれもこれも、改装リニューアルのための新作だ。遠慮なく、端から順番に、箸で摘まんでは口へ放り込んでおく。

「おいしい、おいしい」

それしか言わないあたしに、女将さんは呆れている。

「もっとないんさね」

「ない! うまい! それだけっす」

 黄色のゼリーは口直し用のものだろう。一口食べてみる。柚子の爽やかな風味がさっぱりとしている。デザートにしてもいいくらいだ。もう一口、と大きく口を開けた時、

ドンドンドンドン……

太鼓の音だ。スプーンからゼリーと取りこぼしそうになった。おっとっとと態勢を立て直して口に入れる。

「コースのメインは何ですか?」

「和牛のステーキか、鮭鍋だな」

「おおー」

「締めははらこ丼だな」

 はらこ丼。この辺では名物だ。専門のお店は、この温泉街にも市街地の方にも数軒ある。

「こっこ、何か意見はないかい? 最近の若者じゃ、写真映えするのが人気なんだろう?」

 今日はよく意見を求められる日だ。

「そりゃ、見た目は大事です。思い出に残るし。でも、だからって必要以上に、はらこ乗っけたり、凝ったりしなくてもいいと思うんですよね。いままで通り、真心込めたおもてなしすれば、それだけで」

「なに当たり前のこと言ってんだい」

 女将さんは口を曲げて、あたしと同じようにゼリーを摘まむ。うん、美味しいわね。その言葉に、料理長は低頭する。

 ドンドンドンドン……

さっきから太鼓の音が気になる。折角、目の前においしい料理があると言うのに、あの二人の太鼓が気になって仕方ない。

 太鼓じゃない。あたしのすべきことは、『碧楼閣』の仕事だ。

「今日はいいのかい?」

「い、いいです。これ以上、仕事に穴開けてられないんで」

「別に困ることはないけどね」

 バッサリ言われてしまった。がっくりと肩を落として、はらこ丼に手を付ける。大きな粒が、口の中でぶちぶちと弾ける。醤油だれがいい塩梅だ。幸せである。

「一番おいしかった時のご飯って、なかなか忘れられないもんじゃないですか。その時のご飯が、『碧楼閣』のご飯だったらいいなあって思うんすよね。ご飯自体がおいしいのは勿論なんですけど、たぶんきっと、誰と食べてたとか、どこで食べてたとか、どんな雰囲気だったかとか。それらが合わさって、美味しいごはんって思い出が残るんすよ。きっとそれは、写真よりも色鮮やかに残るっす」

「あんたの一番の御馳走はなんだったのかい」

「決まってるじゃないですか。子供の時に食べた『碧楼閣』のご飯です」

「ああ、そう」

 自分の旅館が褒められたのに、女将さんは表情を崩さない。

「じゃあ一番楽しかった時は」

 一番楽しかった時。

「今っすね」

 専門は、実習がつらいしか頭になかった。ふらふらしている時も、まあまあ楽しかったが、かつての同級生が病院で働き始めたと聞くたびに、焦りを感じていた。それらに比べれば、今、一番働きたかったところで働くことができている。蟻早さんや女将さんはあたしに辛辣だし、新人ちゃんにも逃げられたけど、料理はおいしいし、初代『碧楼閣』の写真をいつでも見ることができる。幸せだ。

「太鼓じゃないの?」

 予期せぬ言葉に、口元から、はらはらとはらこが落ちていく。

「……ちがいますよお」

 手をひらひらとさせようかと思ったが、右手には箸、左手にはお茶碗と持っていた。仕方ないので、首をブンブンと振って見せる。女将さんはそうさね、と鼻を鳴らした。

 太鼓の音はもう止まっている。あたしの心臓はまだドキドキとしていた。

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