第22話 こっこ その2

 『碧楼閣』は、昔からあたしの憧れだった。初めて行ったのは五歳の頃だった。

「近所に住んでるのにわざわざ泊まらなくていいじゃない」

「人が少ないからどうしてもって。たまにはいいじゃないか」

不満げなかーさんと、なだめるとーさん。当時から、この地域で有名な旅館と言えば、『碧楼閣』や『蕉風館』だった。『碧楼閣』は、ゲームに出てきそうな大きな建物がぼこぼこと織りなすように建っている。通り掛かるたびに、恐怖心を抱いていた。

 そんな気持ちは、中に入った瞬間消え失せた。煌びやかな内装に、着物姿の人たちが、みんな揃えて頭を下げてくれる。

 見慣れた温泉街の景色の一部なのに、一歩入れば、まるで違う世界だった。入場ゲートをくぐった直後の遊園地に似ている。ここは現実世界ではない。絵本の世界の一部だった。ワンダーランド。その日、あたしは一日中はしゃいでいた。大きな階段に、立派な部屋。窓の外に、いつも見ているのと同じ海が映っていることが、不思議で仕方なかった。 

 二階の広々としたお座敷で、山のようにご馳走を食べた。刺身に天ぷら、鍋などを鱈腹食べた後、最後の締めとしてごはんが出てきた。あたしはすでにお腹がいっぱいで、口直しのアイス以外、入る余地はなかった。かーさんもとーさんも、お前が来るには早すぎたなと笑っていた。だけど、早すぎることなんてなかった。むしろもっと早く来たかったぐらいだ。こんな建物の中で暮らしたい。そう思っていた。

 帰り際、受付の上に飾られている写真が気になった。白黒で、どこかピントがあっていない俯瞰写真。映っているのは、本家の家を百倍ほど大きくしたような、立派なお屋敷。

「その写真が気になるの?」

 あたしの様子を気にして、話しかけてくれたのは当時の若女将。今の女将さんだ。頷いたあたしに、若女将は丁寧に教えてくれた。

「今のこの建物は二代目でね。これが前の『碧楼閣』なの。古くなっちゃって、どうしようもなかったのよね」

「どうして、おんなじように建てなかったの?」

 若女将は鼻白んだ。純粋な疑問だったのだが、若女将の興が削がれたらしい。

「……この建物はお気に召さない?」

「私はこっちのほうが好き」

 我ながら、嫌な客だったと思う。怒らなかったのは、若女将がまだ、瞬間チャッカマンでなく、沸点が高かったからだ。今じゃ「出てけ!」と箒を振り回されるはずだ。

今でも、本心は今でも変わらない。昔の形を取り戻せたらいいね。『碧楼閣』にそう問いかけながら、あたしはいつも部屋の掃除に勤しむ。

 改装を指示したのは、今の旦那さまのお母さんらしい。女将は「別にそれで良かった」と言っている。建物にこだわりがないのだ。

 高校卒業後、親に言われるがまま看護専門学校の道に進んだ。人と話すことは得意だったし楽しかった。だけど、病気や死と向き合う患者さんを毎日看る生活は、続かなかった。

実習で患者さんと話す度に、「あんたは看護師に向いてないよ」と笑われた。その通りだと思った。不真面目にやっていたつもりはなかったが、気持ちは表に出ていたらしい。

 病院実習が終わりを迎えてきた頃、ある一人のおじいちゃんが亡くなった。そのおじいちゃんは、昔の『碧楼閣』に泊まったことがあるという。昔の『碧楼閣』! あたしは実習の合間を縫って、個人的にそのおじいちゃんから話を聞きにいっていた。

「温泉街と同じ空気が、受付にも流れていた」

「客間は広々としていて、二人で泊まるのは勿体ないくらいだった」

「料理は豪勢なものではなかった。ただ、地元で採れた食材を、どう調理して、どう飾り付ければ一番おいしくなるか。その術を一番知っていたのは、『碧楼閣』の板前だ」

「大階段を上るのは、一苦労だった。仲居さんはわしらの重い荷物を持って、ふうふうと息を荒げていた。わしは手伝おうか? と申し出たが、仕事ですから。と断られた。完璧になるのがサービスだとは思わない。ただ、一生懸命もてなそうとしてくれているその姿は、客側からすれば温かい気持ちにさせてくれるものだ。人によるがな」

 おじいさんの言葉は、全て私の心に突き刺さった。

「『碧楼閣』は、いいところだぞ」

 最後の会話のやり取りは、そんなものだった。

いつものように実習に行くと、おじいさんは息を引き取った後だった。病院は、いつだってベッドの空きを待っている。おじいさんのご遺体が運ばれた後、あたしは粛々と、病室の片づけ方をした。専門を辞めようと決意したのは、その時だった。

「折角だから、卒業までいなさいよ」「資格を取っておいて損はないって」同級生の忠告も聞かず、あたしは専門を辞めた。

 今の『碧楼閣』で働いて分かったこと。残念ながら今の『碧楼閣』は、昔おじいちゃんが泊まった『碧楼閣』と大違い。天国で見ていたなら、きっと悲しむレベルだ。今の会長率いる、温泉協会の悪行のせいである。ここ数年で雰囲気がガラリと変わってしまった。温泉街の見た目こそ大きく変わらないものの、旅館の内装が変わっていないのなんて、『さざなみ荘』ぐらいだ。蟻早さんはそこがいいのだと、『さざなみ荘』をずっと好いている。あたしが、『碧楼閣』にぞっこんなように。

 どこもかしこも、タイミングをずらして改装改装。写真映えがするように、若い子が喜ぶように。昔からご贔屓にしてもらっている常連さんを寄せ付けないスタンスだ。固定客を無くしてどうするの! あたしはいつも反発しているが、女将さんたちは聞く耳を持ってくれない。百回のリピーターよりも、百人のご新規さん、らしい。納得がいかないあたしは、蟻早さんに愚痴るが、その反応は至ってクールなものだった。

「うちの温泉がその方針を取っているのなら、それでいいんじゃないの」

「えええ。それはないっすよ。蟻早さんだって、今の温泉街は嫌でしょ?」

「……いいや」

 一瞬目が右を向いて、それから左を向いた。意外と分かりやすい。

 これで新規客が増えれば成功なのだろが、結果は芳しくないらしい。そのせいで会長は焦っている。次から次へとゴミみたいな企画を考えては、集客を狙っている。

 四年前、前の会長が亡くなった冬、雪は全く降らなかった。異常気象だ。積もるはずの雪がない。いつもはひどい寒さに耐え忍びつつ、スキーにきた観光客を迎え入れる。だが、その年は降雪の少なさから、スキー場も閉鎖。観光客の見込みはなかった。さあ困った。こんな時、魔法のように何か案を出してくれた会長はもういない。就任したばかりの会長、つまりくそじじいは、バスの手配に忙しかった。スキー客が見込めないなら、温泉で勝負するしかない。東京などの大都市からの客を呼び込むために、『蕉風館』は、割引キャンペーンを始めていた。本来なら荒れ狂う日本海と雪景色を売りしている温泉街だ。雪景色が無い分、客足は遠のく。くそじじいの作戦がどれほどうまく行くか誰にも分からなかった。

 そんな中で声を上げたのが、この街の新参者、センセーだった。

「いつもやってる雪かきもないんだ。どうせならみんな酒でも飲もうや」

センセーの家からはいつも太鼓の音が聞こえていた。『碧楼閣』までは届かないが、少し歩けば、山の中腹からドンドコと音が聞こえてくる。太鼓と言えば、夏のイメージが強い。太鼓イコールお祭りイコール夏の構図だ。冬に聞く太鼓は、暖かな炎に感じる。

「この地域じゃ、雪がわんさか降るから、外で叩けねえって聞いた。あいつは嘘つきだな」

 センセーは、時折『碧楼閣』に遊びに来ていた。泊まるわけでもなく、ただ、ソファーに座って、蟻早さんと太鼓の打ち合わせをしたり、あたしをスカウトしたりした。

 女将さんは、小汚いおじいさんをエントランスに入れるのを内心嫌がっていたが、前会長のご友人であり、蟻早さんの知り合いでもある男だ。邪険には扱わなかった。まだ引っ越して半年も経っていないのに、センセーはびっくりするくらいこの町に馴染んでいた。表通りを数歩歩けば、「やあ先生」と声を掛けられている。すっかり色落ちしてしまった水色の作務衣と、ジーンズ姿は、よく目立つ。そんな格好では肌寒いだろうに、センセーは上着も着ずにバチを握っているのが常だった。

「ここの夏の祭は、県内三大祭りの一つなんだろう? そりゃもう、派手などんちゃん騒ぎだと聞く。話によると、半年分の日本酒が消費されるんだって?」

「誇張です」

 蟻早さんはにべもなく吐き捨てた。ローテーブルに広げられている楽譜をチェックしていた。センセーはアテが外れたような顔をした。日本酒が好きなのかもしれない。

「酒屋さんがめちゃめちゃ儲かるのは本当ですよ。一番おっきなお祭りが行われるのは市街地の方なんで、うちはその観光客のおこぼれ貰うって形ですが」

「鯉川」

 言い方を咎められた。あたしはペロッと舌を出して詫びた。

「でもでも、うちの斜め前にある前田さんちなんて、祭りのたびにうはうはらしいっすよ。ある分だけ持っていけば、すぐになくなるって」

「こっこちゃんはよく知ってるな。うちのチームに戻ってこないか」

「お断りします。……ふらふらしてた時に、前田さんちでお手伝いしていたんすよ」

「得意げに言うもんじゃありません」

あたしの言葉は、蟻早さんの鋭い刀で一刀両断された。あたしは再び、ペロッと舌を出してみせた。そろそろミルキーのCMオファーがくるかもしれない。

「じゃあ、この冬も祭をしよう。酒屋は、冬場に店を閉めるわけじゃないんだろう?」

 突然の成り行きだった。蟻早さんもびっくりして、目を白黒させている。

「そんな簡単に……」

「ここの街独自でも、祭をやるんだろ。それとおんなじ塩梅でやれば、開設なんてすぐだ」

「お祭りって、いろんな申請が必要って知ってますか?」

「これから申請して、最速で準備すりゃええやろ」

 センセーはよっこいせ、と立ち上がった。じじくさかった。

「そこで、新『さけ太鼓』のお披露目と行こうじゃないか。ステージを作って、演奏する。無理ならば、会館の前でも駐車場でもいい。

 太鼓を叩くぞ。目指せ一万人だ」

「無理です」

「だから、無理じゃねえって」

 センセーは得意げに携帯電話を振って見せた。その画面には、祭を運営している町内会長の連絡先が開かれている。

「あくまでも、俺らの目的は太鼓を叩くことだ。そのついでに、祭を開いてもらう」

 センセーは笑った。子供のような、無邪気に、という表現はとても似合わない。悪魔のように、これが正解だ。あたしの背中に一筋の汗が流れた。この人は、化け物だ。きっと、太鼓を叩けるならば、どんな手段も惜しまない。そんな気がした。

 翌日、祭が開かれることが決まった。あんまりにも、あっさりとしたものだった。

 魔法のように物事を進めていく。その手腕は、前会長を彷彿とさせた。

「末恐ろしいわね。あのセンセー」

「そうよ。そして、私たちはあの人に魂を売っちゃったの」

 滅多に聞かない蟻早さんの冗談だ。あたしは襖の桟を拭く手を止めた。

「一万人の前で太鼓を叩け、ですってよ。この町に、そんな大きな箱なんてないのにね」

 蟻早さんは自虐的に言う。でも、チームのみんなはそんな舞台を夢見て、真剣に太鼓の前に立っている。私が居たときとは、雰囲気がガラリと変わっていそうだ。

「いいじゃないんすか。あたしも見に行きますよ」

 冬のお祭り、というには少し遅い。もうすぐ春が訪れようかという時期に開催されたお祭りは、喚いている酔っ払いと、偶然通りかかったであろう観光客と、鳴りやまない太鼓の音でにぎやかだった。ステージには、センセーの姿もあり、一際目立っていた。寒さに震えながら叩く小学生たちがメインでしょうに、と思っていたが、センセーたちは、ガチらしい。厳選されたメンバーで、『巴流し』を舞っている。

 ちょっとだけ覗くつもりだったのに、気付いたら見入っていた。

一生懸命、締太鼓を叩く猪野くん。多少リズムがズレた時は、隣の蟻早さんがすかさずフォローに回る。いい連携だった。

メインの太鼓を叩いているのは、センセーと鴻ちゃんだ。「最近、みんなにまで『おーちゃん』って言われているんです」憤るように言っていたが、そのあだ名は大分浸透しているようだった。蟻早さんもこの前、『おーちゃん』とうっかり口にしていた。定着するのも時間の問題だろう。

正直、二人の息は全く合っていない。それどころか、敢えてバラバラにしているんじゃないか、というくらいにそれぞれで自己主張している。それでも、音の鳴り方はおんなじだから不思議だ。前列に並べられた六個の長胴太鼓。そのすべてを使いながら、二人は右へ左へ舞っている。この曲の本来のスタイルとは違う。最低限の人数で自由に動き回るのが目的らしい。体をひねりながら、時には回りながら。二人の動きは魚だった。川の流れに逆らって、故郷へ戻っていく鮭のような。

「すごい……」

 隣であたしと同じように足を縫い留められている女性。のちにこの街に居着き、チームに加入する女の子だ。笑えるほど着ぶくれしていた姿が、印象に残っていた。目をキラキラさせて、一心にセンセーを見つめている。

 あたしは自分の演奏を思い出した。リズムに合わせて、好きなように叩いていた。それがよくなかった。一度、かーさんがステージを見に来てくれたことがあった。かーさんは録画したスマホを渡しながら、渋い顔をしていた。

「あんた、太鼓に向いてないわね」

 映像を見て、衝撃を受けた。驚くべきほど、みんなと音が合っていない。いっそギャグなのかと、笑えてきそうだった。笑顔で叩いている数時間前の自分が、憎たらしい。恥ずかしすぎて、途中で止めてしまった。流石に、最後まで見る勇気はなかった。

 毎週楽しく太鼓を叩いていたのが、急にあほらしく思えてきた。次に浮かんだ気持ちは、チームのみんなへの申し訳なさだ。ずっと、みんなやりづらさを辛抱してくれていたのか。気付かないあたしはあほ過ぎる。そして、すっぱり太鼓を辞めたのでした。ちゃんちゃん。

 センセーは、前の会長からあたしの腕前を聞いていたのだろう。ど下手くそのくせに、気持ちよく叩いていた勘違い女。そう伝わっているはずだ。あたしの演奏を聴いたことがないくせに、センセーはめげずに何度もあたしを誘った。

 どうしてなのだろう。これほどまでに上手い人が、へたっぴを入れる理由が見つからない。まさか、引き入れて嘲笑うつもりではないだろう。そういう人ではないと分かっているものの、ほかに理由が見つからない。見ている人の目を引き付けられる演奏ができたなら。太鼓も楽しく続けられたかもしれない。

 あたしは無理矢理目を逸らして、ステージに背を向けた。これ以上見れば、自尊心がさらにすり減りそうで嫌だった。

 なんでもかんでも、やることはすべて向いてないと言われ続けて、逃げていた。

 看護師も、太鼓も。だからこそ、『碧楼閣』の仕事だけは、向いてないと言われようが、続けねばなるまい。あたしはその日から、『碧楼閣』のことだけを考えることにした。太鼓は金輪際触れないのだ、と。

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