第19話 あーさん その5

 練習は、次の金曜日の夜に決まった。そう伝えると、男はニタニタと笑った。

集合時間の三十分前。太鼓の準備に会館に訪れた蟻早は、窓から漏れる灯りを見て、先客がいることを知った。ほかでもない、例の男だ。フロアを舞台に見立てて、太鼓を並べていた。中央に一番大きな大太鼓。その前には長胴太鼓を四つ。下手には三つの締太鼓と、平釣太鼓。微妙に置く位置を調整して、音を確かめている。

「手伝います」

 傍に行きかけた蟻早を手で制して、男は「いい」と短く言った。仕方ないので、蟻早は入り口に佇むことにした。

男は耳を面に近づけて、トントントン……と小さく音を鳴らしている。チューニングだ。

「言うことを聞け……そうか、そうだな」

 小声でぶつぶつと何か言っている。薄気味悪いが、よくよく聞けば、それは太鼓への言葉だった。人間が太鼓と対話している。その光景はどこか常識外れで、蟻早は早く人が来てほしいと切に願った。そして、そういう日に限って、集まりが悪いのであった。

「よし、こんなもんか」

 てっきり「扱いが悪い」だの「手入れが雑」だの、文句を付けるのかと蟻早は身構えていたが、男は何も言わなかった。

 まだメンバーは誰も来ていない。こんなに人を待ちわびたことはなかった。

 これ以上の気まずい沈黙には耐えられそうにない。蟻早は男に会話を振った。

「太鼓は、昔から続けているんですか?」

 相当な手練れに違いないことは、既に分かっている。

「そうでもない」

 男の返答に、蟻早は少しだけ目を見開いた。

「子供の時から叩いてたわけじゃねえ。ちっせえ時から太鼓に憧れてはいたが、やるのはもう少し物事を分かってからでも遅くないと思っていたからな。

 早くから慣れ親しむという点では、幼少期から始めるに越したことはない。楽器だってそうだろ? ピアノやバイオリンなんかは、早くから習っておかないとなかなか身につかない。だからといって、周囲の大人が強制してやらせるものでもない。嫌になるからな。教育的によろしくない。

 好きにやるのが一番。だから、俺も好きなタイミングで始めただけだ」

 男の太鼓論はこざっぱりとしていた。

 男は傍らに置いていたバチを手に取った。いよいよ叩くのかと思ったが、予想が外れた。バチは蟻早の前に差し出された。

「お手並み拝見といこうじゃないか。太鼓の音は、全てが分かる。叩く者の人となりがな」

 ニタニタと歯茎を見せて笑う男。蟻早は憮然とした顔でバチを受けとった。さっきまで目の前の男が握っていたバチ。そう思うといつも使っているバチが、急に得体の知れない恐ろしいものに思えてきた。

 それでも、受け取ってしまったからにはやらなくてはならない。蟻早は、いつも使っている締太鼓の前に立とうとして、男に止められた。

「何してんだ。叩くと言えば、大太鼓か長胴太鼓だろ」

 蟻早がメインの太鼓を叩くことは滅多とない。基本的に、人に教えるときにしか触れない。舞台の端で、みんなをコントロールするのが蟻早の役目だった。

「これでやってくれ」

男ご指名の太鼓は、古くからある大太鼓。蟻早は前に立ち、小さく息を吸った。

ハッ!

 鋭い掛け声とともに、トンツクトンツクトントントンと、リズムを刻む。普段、本番でも緊張しない蟻早。だが、この時ばかりは、手汗が滲んだ。実力を測られている。不快だ。

元々、自分の太鼓は下手の横好きであり、決して褒められたものではないと、蟻早は分かっていた。それでもいつだって、叩く時は全力だ。子供たちに示しが付かない。

「ようし、分かった」

 パンパンと手を叩き、男は蟻早の太鼓を止めた。

「お前は人を見るタイプだな」

 ふふんと鼻で笑って、入り口の方へ目を向けた。

「そろそろ立ち聞きなんて行儀の悪いことはよして、入ってこい。太鼓魂が穢れるぞ」

 太鼓魂。寒い言葉に、蟻早は目を細めた。笑ったわけではない。

 細く扉が開いたかと思うと、子供たちがなだれ込んだ。一番前で見ていたらしい鴻と猪野が「重い重い重い!」と喚く。上に圧し掛かる小学生たちを必死に退けようとしていた。

「……集まっていたなら、さっさと入ってきなさいよ」

「だって、『蟻早さんのあいびきを邪魔しちゃダメだって』。ねえ、あいびきってなに?」

「こら! しーっ!」

 猪野が必死に、小学生の口を塞ごうと藻掻いている。

「またくだらないこと考えて……」

 頭が痛くなってきた。確かに、蟻早と男の年は近いが、二人とも人前ではしたない真似をする歳ではない。憤るのは馬鹿らしいが、水に流せない。

「私もこの方も既婚者よ」

「えええええ」

 大袈裟に驚く子供たちの大合唱。隣の男は「元気よしだな」と感心している。せめて逢引の件について、否定くらいはしてほしかった。そんな蟻早を置いて、男は子供たちに歩み寄っていく。「俺はこういうものでな」いる者全員に名刺を配っている。

「さて」

 落ち着く間もなく、会長はぐるりと子供たちの顔を見回した。

「お前ら、太鼓は好きか?」

 大体の子たちは鷹揚に頷く。そうか、と男は満足げに頷いて、バチを渡した。

「お前らの師匠に頼まれてここへ来た。指導をするために、まずお前らの実力を測りたい」

 先程の蟻早と同じことをさせるらしい。

男の言葉を聞いて、鴻と猪野は挑むように前へ進んだ。それでこそ、会長の意志を継ぐものだ。蟻早は二人一緒に抱きしめたい気持ちになった。

「それでは」

 見知らぬ人が来て、はしゃいでいる小学生たちと、微妙な距離を保つ蟻早と、男に見守られながら、二人は目も合わせず同時に面を叩いた。

 ドン

 ドンツクドントンツクドコドンドン

 一見反りが合わない二人だが、太鼓の間合いは絶妙だ。二人とも真顔で必死に叩いている。男の口が、言葉を出さずに動いた。

「笑えよ」

蟻早にはそう見えた。

 二人は終わるのも同時だった。

 ドン

 大きな一音で締めた。「すっげー。流石ねーちゃんたちだ」小学生たちは、鴻と猪野のことを「ねーちゃん、にーちゃん」と本物の兄弟のように慕っていた。

 男はずっと顎に手を当てていた。

「名前は?」

「鴻です」

「猪野です」

「じゃあ、おーちゃんといっくんだな」

「え?」

「は?」

呆気に取られている二人。妙なあだ名をつけられている。可哀そうだ。

「二人とも実力は分かった。そこらへんの学校の部活動より、よっぽどいい腕をしている」

 褒められているのか、貶されているのか。二人は何とも言えない顔をして、男の言葉に耳を傾ける。

「もっと笑え。無理に笑うだけでも、音は変わる。楽しく叩け。

 じゃ、次はチビどもバチを持て。めちゃくちゃでいい。全力で叩いてみろ」

 男の号令で、小学生たちは一斉に音を鳴らす。轟音。耳が破けそうだが、衝撃はない。所詮、体の小さな子たちが出す音だ。これが大の大人になると話が変わる。心臓の音まで届く。冗談ではなく、本気で寿命が縮む。

「もっともっともっと! 笑え笑え笑え!」

 男は容赦なく煽る。

「顔が堅い! わ~ら~え~!」

 それに答えようと子供たちは顔を真っ赤にさせて腕を振るう。

音がピークになったところで、男はパンパンと手を鳴らして止めた。

「はい、そこまで。じゃあみんな、そっちに三角座りしてろ」

 手伝え、と目顔で指示された蟻早は、子供たちを会館の入り口側へと誘導する。そして、子供たちの隣で大人しく腰を下ろした。

 パンパン。男は作務衣の裾を叩く。何かの儀式に見えた。

「正直、お前らの師匠みたいに俺はうまく教えられない。あいつは教えるのが専門で、俺は叩くのが専門だった」

 カンカン。次にバチを鳴らす。これから一体何が始めるのか。みんな、男の一挙手一投足を追う。視線は縫い留められたまま動かせない。男は、窮屈そうに、履いていた足袋を脱いだ。それで、準備は完了らしい。

「初めまして。『どうぞよろしくお願いします』を込めて自己紹介だ」

 男は優雅に一礼。バチを構えた。

 一瞬だった。

 ドカドンドカドンドカドンドカドン

 雷雨が来た。

 風神雷神も越えそうだ。男は雲に乗って嵐をもたらした。

 心臓どころか、骨にまで響く。体がばらばらになりそうだ。

 小学生たちは思わず耳を抑えている。おどけてやっているわけではない。こうでもしないと本気で鼓膜が破れると信じている防御反応だ。中学生の二人組は口を半開きにして微動だにしない。みんなの様相を確認して、蟻早はまたステージに目を向けた。大きなコンサート会場の最前列に座って聞いているような気分だ。太鼓の振動は、脳の髄までも揺すぶる。眩暈がしている。錯覚なのか、本当に起こっているのか。頭の処理が追い付かない。

 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ

 一音一音が鋭い棘となって、胸を刺していく。男は、いつもと同じへらへらとした締まりのない顔をしていた。それが妙に癪に障る。俺はまだまだこんなものじゃない。この程度でお前らは圧倒されるのか。馬鹿にされている気がした。

 これまで一切無駄が無い動きをしていた男は、唐突にターンした。見事な一回転に理解が追い付かないまま、男は隣の太鼓へ太い腕を伸ばす。右腕と左腕を交差させ、長胴太鼓二つを縦横無尽に叩いていく。太鼓と太鼓の真ん中で、男は踊り子のように舞う。ひらりひらり、音の鋭さとは対照的に、天女のような柔らかさで体をしなやかに動かしている。

 右手を鞭のように振るい、左右の太鼓を叩いていく。左手はくるくるとバチを回している。観客はそこに視線が吸い寄せられた瞬間、男は跳躍した。後ろへの大太鼓へと移動を終える。あっと思った時は、再び轟音が鳴り響く。

 男は一瞬、動きを止めた。さっきまでやかましく響いていた耳が、急に痛いほどの静寂の海へと沈められた。蹂躙されている。思うがまま、聴いている者の聴覚を操っている。

 その静けさは、永遠かのように思えた。

 誰も呼吸ができない。息を吸うことも、吐くことも赦されない。

空気がない世界から解放された合図も、やはり男の音だった。

 気のせいかと思っていた小さな小さな音。火種になって、大きな炎がめらめらと揺らめきだす。音が一気に大きくなった。うるさいはずなのに、その音を待ち望んでいた。

 ドコドコドコドコドドドドドド

 ドドン

 閉幕も一瞬だった。最後の二音で、緞帳が降りる。

 誰しもがその迫力に飲まれていた。先ほどの嵐から、心も体も返ってこない。我に返った鴻が、いつまでも呆けている猪野の肩を揺さぶる。

「いの! ねえ、帰ってきて」

 鴻の呼びかけに応じない。業を煮やした鴻は、猪野の頬を思いっきりひっぱたいた。

 パン

 その音は、先ほどの衝撃からみんなを呼び戻した。

「ビンタすることねえだろ」

 猪野と鴻が喧嘩を始めた。いつものことである。

そんなやりとりに目もくれず、小学生たちは、男の周りを取り囲む。すげー、すげー。驚嘆の声が上がる。

 これが太鼓なのか。太鼓魂。それがどのようなものか、体で思い知らされた。蟻早は未だに立ち上がることができない。腰が砕けてしまった。

 鴻と言い合いをしていた猪野は、ぼそりと言った。

「ひょっとしたら、会長よりも上手いのかも……」

 鴻が、形容しがたい顔をした。つい先日に死んだ、それもさんざんお世話になった故人のことを悪く言えない気持ちと、猪野の言葉に頷きたい気持ちがせめぎ合っているのかもしれない。

 まとわりつかれている小学生を引っぺがしながら、男はこちらへと向かってくる。

「おーちゃん、いっくん。それからあーちゃん」

「あーちゃん?」

 この歳でなんてあだ名をつけるのか。開いた口が塞がらない蟻早を無視し、男は続ける。

「これで、俺が次の指導者って認めてくれるか?」

 奇妙なことに、男は少しだけ自信が無さそうに聞いてきた。あんなに凄い演奏を見せられて、首を振るなんてできない。頷きかけた蟻早と猪野。対照的に、鴻は首を振った。

「もったいないです。私たちは、そこまで高いレベルのチームではありません。

 本当に、本気でやりたければ、もっと違うところで練習します」

 小学生から学んでいた鴻。幼い頃から太鼓に慣れ親しんできた者として、真っ先に男のことを認めると思っていた。もしかしたら、亡き会長とのチームを消したくない、反骨精神なのか。

「いいのかそれで?」

 全体的に薄汚れている男。その目だけはまっすぐとした意思を持つ、澄んだ目をしていた。その目が、鴻を断罪するかのように射貫く。

「おーちゃんはそれで満足なのか? 見たところ、ここの中で一番お前が叩けるみたいだが。お前は一体、何人の前で太鼓を叩いたことがある?」

「……多分、百人ほどです」

「じゃあ、一万人の前でやろう。見える世界が変わる」

「そんな無茶な」

「無茶か? そうでもないだろう」

 男は冗談で言っている雰囲気ではなかった。目が、本気だ。

「折角、こうして太鼓に出会えて叩けているんだ。どうせなら、太鼓で人生を変えろ。大きく変えろとは言ってねえ。大なり小なり、気付くものがあるはずだ。それは、お前らの生き方を変える」

 鴻も、猪野も、後ろの小学生たちまで、黙って男の話を聞いている。ずっと男のペースに飲まれている。これではチームとしての話し合いができない。そう思っていても、蟻早でさえ、男の話に割り込むことができなかった。

「一万足す一万、って誰か答えられるか?」

「はい! 二万!」

 小学生の一人が元気よく答える。鴨川だ。この子は、熱心に太鼓を叩く。いつもみんなのリーダー格を担っていた。

「正解だ」

 男は満足げに頷いた。鴨川の頭を乱雑に撫でている。

「二万個の目に見られながら、太鼓をするぞ」

 異を唱えるものは、もう現れなかった。もしかしたら、本当にできるのではないか。そんな期待が、みんなの胸に炎を灯した。希望というよりも、野望だ。チームの心に、この男は火をつけた。

「それじゃ、いつも通りの練習日に集まろう。練習は数も大事だが、何よりも大切なのは質だ。今日は太鼓を叩く、という気持ちで来い。なくても来い。俺がその気持ちにさせてやる」

 子供たちはこっくりと頷いた。

「じゃあお前ら、まずは背筋を伸ばせ。何事も基本は姿勢だ。いつだって『太鼓を叩く者』としてシャンと伸ばせ。難しければ、へそを出すようにしろ。見た目がぐんとよくなる。自信があるように見える。これまでいじめられていたことがあるやつは、これからいじめられなくなる。いじめられてないが周りで見ていたやつも、これからは助けられるようになる。助けられる人間になれ」

 急に、みんなの身長が伸びた。男の言葉に従った結果だ。

 いつだって背筋を伸ばしている蟻早も、男の話になるほどなと思えた。根拠なんてない。しかし、こういえば、子供たちは背筋を伸ばして歩くようになる。前会長に言われても、なかなか正しい姿勢を保てない子もいた。毎日の習慣にすれば、太鼓の音も変わる。

「それじゃあ、今日の本題に行こうか。時間が無いやつは帰ってもらっても構わない。残ったヤツは、太鼓、叩くぞ。天国で見ているであろうお前らの師匠へ鎮魂歌だ。……このチームで一番練習してきた曲は?」

 蟻早の顔を向いて問う。その答えは、会長作曲の『さけ太鼓のテーマ』だ。

「じゃあそれにしよう。バチを持て。余ってるやつはこれ使え」

 男が用意していたのは、新聞紙を丸めた棒だった。蟻早は呆れる。

「大事なのは音じゃない、叩く心だぞ」

大真面目に言って、蟻早にも渡してくる。嫌々、受け取った。

「いっくん。お前は締太鼓叩け」

「え? おれ……、僕がですか?」

「お前は次からそっち側だ。才能がある」

 ストレートに褒められて、もごもごと口を動かす猪野。

「でも俺、やったことないっす」

 ちらりと蟻早の方を見る。蟻早には既に、新聞紙のお手製バチを渡されている。そういうことなのだろう。やりな、と蟻早は目で合図した。締太鼓のリズムはずっと同じなので、難しいことはない。猪野は些か顔を強張らせながら下手の方へ向かう。

 よぉ~~~~

 パン

 男の手の合図で、各々は精一杯、面を強かに叩いた。

 外は肌寒いぐらいの気温だが、会館の中は熱気に包まれている。みな、汗ばんでいる。

 その日の太鼓の音は、天高く響いていった。太鼓チームの『お別れ会』の演奏は、数日間ずっと、蟻早の耳に響いていた。

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