第18話 あーさん その4
『会長のお別れ会をやりましょう』
太鼓のメンバーにそう呼びかけた。蟻早が男と出会って三日後のことだった。
自分で言っておきながら、なんて薄情なのだろうかと思った。薄ら寒いほど、血の通っていないセリフ。前を向いて行こうと言うよりも、亡き会長のことは忘れてしまおう。そう捉えられそうだった。
ちなみに、この文章は蟻早の意志で打った訳ではない。男の指示だった。
男の家はすぐに分かった。葬儀の翌日から、どんどんどんどん太鼓の音が響いて鳴りやまなかったからだ。家の中にいても聞こえてくる。
昨日一昨日に続いて、今日も太鼓は響いている。
午前七時半。丁度、仕事の為に家を出る時間だった。顔を顰める夫に、蟻早は些か恐縮しながら外に出た。職場に行く前に、音の在処を確かめておこうと耳を澄ませた。
鳴りどころは、蟻早の自宅の上の方だった。もしかしたら、と大きな音を響かせる家の庭をひょいと覗いて見た。もしかしなくても、その家は、例の男の家だった。
「おお、蟻早さんじゃねえか」
男は太鼓の手を止めて、ヒョイと蟻早の前に踊り出た。今日は、すっかり色落ちした作務衣と、ジーパンという出で立ち。お洒落な格好とは言えないが、不思議と似合っていた。昔からこのスタイルを好んでいるのだろう。捲り上げた袖の下から、筋肉が付いた二の腕が見えた。太鼓人は、腕と下半身に筋肉が付く。さらに良い音を出そうと腹筋を鍛える者もいる。半裸でパフォーマンスする男性陣にとって、筋肉をつけることは見栄なのかもしれない。蟻早はそこまでしないが、姿勢だけは普段から気を付けている。音を出す第一条件は、バチの振り方と姿勢の良さだ。
「ちょっと待ってろ」
言うが早いか、男は家の中へとすっ飛んでしまった。
「ごめんなさいね。朝からうるさかったでしょう」
男と入れ替わりに出てきたのは、前掛けを付けた老女だった。きっと男の奥さんなのだろう。それにしても、性格が違いすぎる。男は頭の螺子が飛んでいそうな芸術肌の変人に対して、目の前の女性は明らかに優しげで、おっとりとしている。
「はじめまして、蟻早と申します。突然お邪魔いたしまして……」
「いえいえこちらこそ。お引越しの挨拶もまだでして。騒々しい男の妻でございます」
歯に衣着せぬ言葉を吐き出す。見かけとは裏腹に、強かな性格なのかもしれない。蟻早は奥さんへの認識を改めた。
「お茶でもいかがですか?」
もうすぐ仕事の時間だ。蟻早は丁寧に断った。遅れてもなんの問題もないが、新人でひよっこの鯉川に示しが付かない。当時、鯉川は憧れの『碧楼閣』にやっと就職でき、その指導係として蟻早が付いていた。これまでふらふらとしていた鯉川がなぜ、格式高い『碧楼閣』に入れたのか。それはひとえに、蟻早の口利きによるものだった。
鯉川は、仕事を覚え始めたばかり、失敗ばかりだ。この前は、絨毯をデッキブラシで擦ろうとしていたので慌てて止めた。どこでどう考えたらそんな発想になるのだろうか。ため息だらけの毎日だが、『碧楼閣』の堅い雰囲気は和らいだ。客側から見ても、従業員側から見ても、それはいい影響をもたらすはずだ。仕事は、時間を掛ければ覚えていける。ただ、鯉川の飄々とした雰囲気は才能だ。鯉川が奏でる太鼓も才能だった。チームの中で一番天才だったとも言える。仕事と天秤にかけて、あっさりやめてしまったが。
「それではまたの機会にでも」
奥さんはにっこりと微笑む。おうい、と野太い男の声が聞こえた。手には、蟻早が持っていた鍵が握られている。まさか、もう合鍵を調達したのか。
「次会った時に返すって約束だったもんな」
貸してあげたつもりもないし、約束をしたつもりもない。微妙な顔をして受け取った蟻早に、男はにっかりと笑った。あまりきれいでない歯並びだった。
「太鼓のチームは、一斉メールとかして連絡しているのか」
今の時代、一斉メールなど使わない。メッセージアプリを使えばもっと早いと教えてあげる。偉そうに言っているが、実は、蟻早も最近覚えた技術である。鯉川と鴻、そして猪野に何度も聞いてようやく覚えた。
男はふぅんと画面をしげしげと眺めていた。すぐに、自分には理解できないと判断し、興味が失せたと口を歪めた。
「招集を掛けろ」
「でも、まだみんなショックを受けている最中です。なんて連絡すればいいのやら……」
「とっておきの言葉がある。『お別れ会』だ。さぁ、さっさと連絡してくれ。俺は早く太鼓を打ちたい」
目を爛々とさせて急かす男。奥さんは「あらあらまた始まったわね」と眉を下げて、奥へと引っ込んでいった。助けてくれなかった。
臍を噛む蟻早に、さぁさぁと迫る男。動こうとしない蟻早に、男は蟻早の耳元で囁く。
「俺の本気を見てみたくないか?」
以前見せてもらったのは、あくまでも基礎的なものだった。それでも分かる。目の前の男は、太鼓に膨大な情熱と時間を掛け、それを技術へと昇華させている。
天才は一音で分かる。
チームメンバーの主力も、なかなかのうまさであることは違いない。
鴻は幼い時から叩いていただけあって、上手い。ただ、気持ちがから回っている。気持ちを太鼓に乗せることができれば、化ける。前会長をも凌ぐ表現力を見せるだろう。
その次に上手いのは鯉川だ。彼女が太鼓を始めたのは、気まぐれだった。高校を出たあと、看護の専門学校に通っていた鯉川は、看護の世界に見切りをつけ、早々に退学した。そのまま定職に就かず、ふらふらとしていた。そして、本当にやりたかったことを目指すために、鯉川は蟻早にすり寄ってきた。小さい時には、よく面倒を見ていたよしみもある。蟻早は鯉川の下心を知った上で、太鼓に誘った。当時、メンバーが大所帯になりすぎて、統率が取りにくい状態だった。裏方でいいから手伝ってほしい。蟻早の頼みを、鯉川は安易に引き受けた。
しばらくは会場を抑えたり、事務仕事に勤しんでいたり鯉川に、前会長はバチを持たせた。鯉川の太鼓は、聞く人すべての心を乱す音色だった。
残念ながら、鯉川の演奏はチームに向いていない。その独特な音色は、観客だけでなく、一緒に叩いている人間のリズム感を狂わす。最後には、曲の原型は見る影もなく、鯉川の太鼓に粉々にされる。それでも楽しそうに叩く鯉川を見て、会長は満足げに頷いていた。
ソロ演奏にはもってこいだった。見るものすべての心を奪う。歴の浅さを感じさせない、見事な演奏だ。薄く微笑む鯉川の姿は、あまりにも魅惑的で、隣で叩いている人間も心を持っていかれそうになる。
猪野は、よくも悪くも規則正しいリズムを刻む。堅い音しか出ないのがたまに傷だが、三つ打ちをやらせるにはもってこいだ。いつもは、蟻早が締太鼓を受け持っているが、そろそろ猪野にもやらせてみようかと考えている。一番地味ではあるが、細いバチで締太鼓を叩く快感は癖になるものだ。
本人は自分を一歩引かせて太鼓を叩いている節がある。その冷静さはこれからのチームに必要だ。蟻早も同じタイプなので、自然と彼に期待を寄せてしまう。表面上は、贔屓していないつもりだが。
まだあどけなさを残しているメンバーの顔を思い浮かべながら、蟻早は考えた。この男なら、既存のメンバーの良し悪しをすぐに見抜く。その上で、適正な編成を組むはずだ。
男の本気を見てみたい。ご自慢の音も、指導も。
そう思ってしまった蟻早は、男の言いなりとなって、先の文章を送信したのであった。
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