第17話 あーさん その3
前の会長が亡くなったのは、四年前の秋だ。
この町では夏から秋にかけて三回も祭が開かれる。そのすべてのステージが終わった矢先、前会長は倒れた。もしかしたら、それまで張りつめていたものが一気になくなったせいかもしれない。連絡を受けてすぐ、蟻早は病院へ車を飛ばした。
海の見える、すぐ近所の病院だった。まだ希望があるなら、隣の市の大きな病院に運ばれる。この病院に入院するということは、そういうことだった。
エレベーターを待つのももどかしく、階段で駆けあがっていく。一番奥の個室まで、老いた体に鞭を打って走る。
父親は数年前に他界し、母親は東京の兄家族の元へ身を寄せた。もう一緒に『さざなみ荘』へ行くことはない。まだ、家族の死を多く経験していない蟻早にとって、師匠に迫りくる死は恐怖だった。ふうふうと息を切らしながら通りすぎる蟻早は、一人の男とすれ違った。蟻早は、プレートの名前を確認して、勢いよく扉を開けた。
「あら、蟻早さん。らしくないですね。あなたがそんなに慌てているなんて」
「慌てるに決まっているでしょう!」
まあまあ、と前会長は椅子を勧める。出しっぱなしになっていた椅子に座って、蟻早は一息ついた。体が火照って熱い。
「どうしていきなり……」
「実は、いきなりじゃなかったんさね。ずっと黙ってて悪かった」
悪びれた様子もなく謝られた。随分前に、末期がんを宣告されたらしい。それをずっと隠してきて、この状況だ。
「どうして……」
それ以外の言葉が出てこない。
「協会のことは、既に少しずつ引継ぎをしておいたので問題ないさ。各々の旅館で、各々それぞれ好きにやればいい。団結しているようで、バラバラなのがうちの温泉街のウリだ」
バラバラに見えて団結している、のではなく、団結しているようでバラバラ、と前会長は言った。潮目温泉街の先はないと見ていたのか、仲良くしてほしいという願いを込めていたのか。そんな言葉の裏を考える余裕などなく、前会長の容態で頭がいっぱいだった。
「太鼓は……」
「それも心配ない」
蟻早さんがいるから、と続くわけではなかった。
「助っ人を呼んだ。私が死んだら来るだろう。しばらくは、本職でばたばたしているといっていたが」
思い上がりだった。蟻早は目を伏せる。
「そんな急に、私たちを残して逝かないでください」
「自分のことだから、分かるんだよ。もうすぐだって」
「お願いですから、そんなことを言わないでください」
前会長は黙って、蟻早に微笑みかけた。その笑顔には影があった。いつだって溌剌として見えた前会長。初めて、蟻早に疲れている様子を見せた。どうしてもっと早く気付かなかったのだろう。ただただ悔やむことしかできなかった。
その後、蟻早と前会長が言葉を交わすことはなかった。すぐに、太鼓の教え子たちから温泉仲間まで、見舞い客がひっきりなしにきたからだ。蟻早は早々と病室を後にした。
今では、もう少し長く話せばよかったと後悔している。その夜、前会長は安らかに息を引き取った。
葬儀は、驚くほど速やかに行われた。あらかじめ手配をしていたのではないかと思うほど、早かった。『蕉風館』の大広間を貸し切った大規模な葬儀になった。前会長が経営していた旅館では手狭だから、というのが理由であり、遺言でもあったという。それは、自分の分身とも言える旅館への愛着よりも、残されたものへの配慮に感じられた。
親族は入り口に固まって、来訪者に挨拶を返していた。会場には大人数いたが、静かだった。啜り泣く誰かの嗚咽しか聞こえてこない。当人は、こんなしんみりとした式にしてほしくなかっただろう。棺桶の前で、蟻早は静かに目を閉じた。
たっぷり時間を掛けて、長いお別れを告げた。顔を上げた丁度その時、隣に鴻さんと猪野くんが並ぶ。二人とも制服姿で、鴻さんは既に涙を流していた。猪野くんも泣きそうになりながら寄り添っている。そろそろ退かなければならない。二人の肩にそっと手を置いて、蟻早は出口へと向かう。知っている人、知らない人。如何に前会長の顔が広かったか、思い知らされる。
「ちょっと」
後ろまで来たとき、声を掛けられた。黒いスーツが、恐ろしく似合わない男だった。髪の毛はぼさぼさで、無精髭もそのまま。蟻早の目線に気付いたのか、男はすっと右手で顎を隠した。年齢は、前会長と変わらないぐらいだった。恐ろしく背筋を伸びているところと、纏う空気の鋭さが、前会長を彷彿とさせる。
「蟻早明子さん、だね」
「そうですが」
「時間あります? 外でお話しできませんかね」
怪しさ満点の男だ。突っぱねることもできたが、この場所でこのタイミングで話しかけてくるということは、何かあるに違いなかった。向こうが、蟻早の名前と顔を知っていたこともある。不承不承に頷いた。
会場を出る寸前、前会長の親族たちは、揃って蟻早たちに頭を下げた。同じく頭を下げる蟻早と、「おう、またあとで」と片手を上げる男。驚いた。親族とも顔見知りだった。
旅館を出て、少し歩く。
「どこに行んですか?」
「あんたらの練習場。……鍵は?」
蟻早はそっと鍵を出すと、男は手を出した。意図を汲み取れず、ポカンとしてしまう。
「合鍵を作りたい」
「あの、私はおたく様のこと何一つ知らないのですが」
しまった、という顔をして、男は頭をガシガシと掻いた。
「非常に失礼した。俺は、こういうものでした」
名刺を渡される。名前の横に、『日本太鼓連盟一級公認指導者』の肩書が添えられていた。前会長の言葉にも、目の前の男にも合点がいく。この男が、太鼓チームの継承者なのだ。
「俺はお前らのレベルを知らない。練習環境、道具の揃い具合などな。それらを見てから、あんたらを全国に名を轟かせるようなチームに仕上るための指導を考えたい」
大きく出すぎではないだろうか。『さけ太鼓』には、うまくなりたい、ステージで叩きたいという思いはあっても、大きな大会に出たいとか、知名度を上げたいなどの向上心は一ミリも持ち合わせてなかった。
「早く行くぞ、この後は火葬場に行かにゃいかん」
男は蟻早から鍵を奪い取り、会館の扉を開けた。
ほかの団体も使うことがある公共施設だが、実質的な管理人は前会長だった。前会長の死後、蟻早が引き継いだものはこの会館の管理のみだった。
「ふうん。なかなかいいハコあるんじぇねえか。嘘つきだなあいつは」
亡き前会長とどんな会話をし、何を引き継いだのか。こちらからすれば、得体も知れない人間の元で指導を受けるなんて、想像もできない。
「太鼓はどこだ?」
蟻早は黙って壁に見えるクローゼットの引き戸や、ステージ下の棚を開けて見せた。
「……へえ」
男の顔が明るくなる。黒いネクタイを後ろに流して、太鼓を引っ張りだした。じろじろと太鼓を見分し、ふふんと笑った。愛おしそうに太鼓を擦る。肩書きだけでなく、本当に好きなのだろう。目ざとくバチを見つけて、太鼓をセットしていく。
腕を伸ばして、バチを面に置く。
一瞬目を閉じて。開いた。
腕をゆっくり上げて、重力にしたがって落とす。自然な動きだったのに、蟻早の目には見えなかった。
どん
優しい音だった。猛々しい音が来ると身構えていた蟻早に、男はふっ、と口を歪めた。
どんつくどんつくどんどんつくつく
初心者のように、基本をきっちりと叩いた男は、もう一度だけ、とん。一音出して叩くのをやめた。
「なるほど」
会館をぐるりと見まわして、太鼓を仕舞った。
「次の練習はいつだ?」
「……まだ決まってません」
前会長が死んで、まだ間もない。みんな太鼓どころではない。
「なるべく早く集合を掛けろ。太鼓は、時間を空けると下手になる。集まる日取りが決まれば連絡しろ」
横暴に言って、すたすたと靴を履きに行く男。横暴にもほどがある。
「ちょっと」
「なんだよ」
「会長とは、どういう関係性だったのでしょうか?」
「あ? 名刺やっただろ? 元同僚さ」
「同僚」
「チームメイト、って今風に言えばいいんだろうな。昔は一緒に太鼓を叩いていた。どちらかと言えば、一緒に審査員をしていた方が多かったけどな。……知らなかったのか?」
初耳だった。蟻早が前会長と過ごした数十年間のうち、前会長が叩いていた姿を見たのは数回ほどだ。もしかしたら、その時隣にいたのは、この男だったのかもしれない。
審査員をしていたことも知らなかった。いや、蟻早が知ろうとしなかっただけだ。長く太鼓をやっているくせに、太鼓の大会や連盟などには興味がなかったのだ。
ただ、この町で叩ければそれで良かった。舞台も、どこかのコンサート会場ではなく、祭りの小さなステージで良かった。それで満足だった。潮風を浴びながら、昔からの伝統をなんとなく習慣化して、引き継いで。子供たちに教えながらそれとなくバトンを引き渡す。前会長から、太鼓を教えてもらえればそれで良かった。多くは望まなかった。
「あいつは知り合いの前だとトチりやすいからな。大会に呼ばなかったのは当然だ」
蟻早の表情に暗い影が落ちる。男は慰めるように言葉を続けた。
「俺は、あいつからチームを引き継ぐよう、直々に仰せつかった。だから、その約束を守るためにここへ来た」
「もともとこの町に住んでなかったの?」
「そうだ。最近、浜町というところに家を買った。中古だけどな」
蟻早の家と同じ町内。つまりご近所さんだ。新入りが来たとなれば、すぐにでも噂になりそうだったが、蟻早の耳にはまだ届いていなかった。
「この町で生まれ、育ち、太鼓を叩いたんだな。あいつは」
「そうです」
「俺は全く違う土地から来た。太鼓を叩いて飯を食ってきた者だ」
ぐっと胸を張る姿は、その言葉に説得力を持たせる。ただ、何度見ても似合わない喪服姿は、説得力を越える胡散臭さだ。サラリーマンをやっていなかったことは当たっていた。
「何度も言うが、お前らを最高峰のチームにするためにここへ来た。俺はそのためになんだってする」
「……それも、会長との約束ですか?」
「いや、俺がしたいからそうするだけだ。全国に名を挙げることが最終目標じゃない」
じゃあ、なんなんですか、と蟻早は聞かなかった。
「でも、みんながそれをよしとするとは限りません。上を目指すために太鼓を叩いている人たちばかりじゃない。あなたは、うちのメンバーをまだ見ていないから、なんとでも言えるのかもしれませんが、うちのチームは贔屓目に見ても、技術が高いわけではないです。
みんな、ただ太鼓を叩くのが好きだから集まっているだけです」
男の目がきらりと光った。
「いやいや叩いてる子はいないってことか」
いない。そう断言してしまうと嘘になる。中には、親の言いなりで渋々バチを振るう子供たちもいる。それが不幸とは言い切れない。蟻早だって鴻だって、幼い頃から叩き始めたのは、親に言われたからだ。だが、今もなお叩き続けているのは、自分の意志である。惰性でも、続けていればその気持ちは変わる。太鼓の音が他人へ伝えられる上手さは歴の長さではなく、演者の気持ちの大きさ。これが蟻早の持論である。
黙ったままの蟻早。男はどのように受け取ったのか、ふぅんと鼻を鳴らした。
二人は施錠をして会館を出る。
「次会った時に鍵は返す」
前会長から唯一受け継いだ、会館の鍵。それすらも、あっという間に見知らぬ男に取られてしまった。
立ち尽くす蟻早を置いて、男は葬式会場へと戻っていく。
秋の寒さが身に染みた。
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