第16話 あーさん その2

 『さざなみ荘』から会館までは、少しだけ歩く。外はまだ明るかった。遠くで、きゃあきゃあと声が聞こえる。海水浴場の客だろう。表通りの車も多い。

蝉もまだ鳴き止む気配はない。うだるような暑さも相まって、蟻早の額に汗がじんわりと吹き出てくる。夏の温泉は、そんなところが良くない。しっかりと体を冷ましてから外に出るのが吉だ。

せっせと歩く蟻早の後ろを、鯉川たち二人が続く。まだ会館の姿は見えていないが、太鼓の音が響いている。大体予想はついている。おーちゃんとうーくんだろう。

 会館の重たい扉を開ける。

「うわ、ひっさびさ」

無邪気な声を上げた鯉川は、靴を脱ぎ散らかして、とっとと中へ上がり込む。

「こんにちは」

 太鼓の音がやんだ。残された蟻早たちは中の様子を伺う。やはり、叩いていたのはおーちゃんとうーくんだった。額に球のような汗を浮かべている。窓を開けていても、会館は蒸し風呂のように暑い。本番は足袋を履くのだが、今は二人とも裸足だった。傍らにスポーツ飲料が置かれているのを見て、蟻早はほっと息を吐く。この時期、一番の大敵は熱中症と脱水症状だ。

 大先輩の来訪に、二人は直立不動で挨拶をしていた。うーくんは去年入ったばかりだが、何度か『碧楼閣』に遊びに来ている。おーちゃんは鯉川と一緒にやっていた時期もあるので、顔を知っている。

「今日はね、リーダーの蟻早さんから重大発表があるそうよ」

 ここで話してしまえば、現会長の言う通り、士気が下がってしまうかもしれない。黙っているつもりだったが、言わざるを得なくなった。もしかしたら、それが狙いで会館に足を踏み入れたのか。鯉川は、現会長との会話をどうしても知りたい様子だった。

「鯉川、さっきの話が太鼓の話じゃないとは思わなかったの?」

「『碧楼閣』の話だったら、決定事項として私たちに話が降りてくるでしょ。蟻早さんとの密談ってことは、二人でまだ検討する余地がある話。つまり、太鼓の話だってなりません? ああ私ったら名推理」

 鋭いのか鈍いのか。決めポーズを取る鯉川に、現メンバーは揃ってスマホを開く。「連絡来てたっけ?」「いいや」「ついさっきの話らしいよ」反応が若い。

「もう少し集まってから言うわ。鯉川の言う通り、まだ決定じゃない。可能性の話だから」

「勿体ぶらずに今教えてよ」

 うーくんは口を尖らせている。純粋に練習している子供たちに、今度の祭に参加できないかもしれない。それどころかチームすらなくなるかもしれない。とはすぐに言い出せなかった。曖昧に笑う蟻早の笑顔に、只事ではないと察したらしいうーくん。

「じゃあさ、さっきおーちゃんと考えてたセトリ聞いてよ」

 おーちゃんは、約束通り、祭で演奏する演目を考えてきてくれたらしい。メモ帳を取り出してくる。持ち時間は二十分。曲数は三曲。妥当な判断だ。

『さけ太鼓のテーマ』

『巴流し』

『狐の踊り子』

 どれも、何回か本番で叩いたことがある曲だ。

メンバーが半減し、太鼓の数の方が余る。つまり、やるならば全員だ。私はいいやと遠慮している場合でない。やるならば、それなりにステージに立つために仕上げなければならない。そのため、比較的簡単な曲をチョイスしているのは、堅実なおーちゃんの性格がよく表れている。一曲目は自己紹介曲、二曲目は大技で見た目が華やか、三曲目は……。

蟻早の視線が止まった。

 一曲目、『さけ太鼓のテーマ』は、前会長作曲だ。『さけ太鼓』が代々続くように、との願いを込めた曲になっている。この『巴流し』は、常に複数人がステージに立ち、舞いながら三つの太鼓を叩くものだ。少しずつ位置をズレらし、回転寿司のように演者が変わっていく。十八番の二曲は納得できる。だが。

「どうして、締めの曲を『狐の踊り子』にしたの?」

 『狐の踊り子』は、初心者向けの曲だ。子供たちがやることが多く、高校生以上はなかなかしない。いつもなら締めの曲は、選りすぐりのメンバーにする。難易度の高い曲もすいすいと叩ける選出メンバーで、この曲をするのか。

「そこに気付いてくださるんですね。流石、蟻早さんです」

 おーちゃんの顔がほころぶ。

「一番うまいメンバーで、一番簡単な曲がどこまでできるか試してみたいんです」

 蟻早に向けられた目は、挑戦的なものだった。

「先生なしでの『巴流し』は怖いけどね」

「いつもの鉄板曲じゃないですか。できますよ。頑張れば」

 中学生で残っているのは、うーくん、えっちゃん。高校生はおーちゃんのみだ。大学生は今のメンバーにいない。社会人で残っているのは蟻早を含めて数人だ。なんとも寂しいメンツだが、技術面では申し分ない。ただし、この話はすべて出演できればの話だ。

「じゃあ小さい子に『さけ太鼓のテーマ』をやらせるのね」

「前会長も、そうすると思って」

 おーちゃんは、前会長の意図を汲んでいる。天国で笑っていることだろう。

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