第15話 あーさん その1

【○○容疑者(75)は、強制わいせつ罪の犯行を認めているものの、「合意の上だった」と供述している】

 今朝の朝刊。小さな記事に、蟻早は吐き気を覚えた。今すぐに、新聞をぐしゃぐしゃに丸めて捨ててしまいたい。どうにか抑えて、朝食の支度に取り掛かる。

 長年勤めた会社を退職した夫は、まだ寝室で寝ている。一方の蟻早は、寝苦しく、十分な睡眠がとれないまま起きてしまった。蟻早は夫を起こさないようにそっと布団から抜け出して、階下に行くのだった。

 ここ最近の不眠の原因は、夏の暑さだけではない。太鼓の件に頭を痛めている。バタバタと忙しい日々の渦中で、この記事だ。ため息の一つも吐きたくなる。もう一度、上で寝直そうか、と出来もしないことを考えながら、鍋を火に掛けた。もたもたしていると、仕事の時間が迫ってくる。

春先、退職金の額が記入された通帳を渡しながら、「少なくてすまん」と夫は一言詫びた。蟻早は「いいえ」と首を振った。蟻早も勤めに出て長く経つが、まだ辞める気はなかった。近所の専業主婦が羨ましいとも、妬ましいとも思ったことはなかった。ただ、自分は働いているほうが性にあっている。家の中で閉じこもりきりは、すぐにボケてしまいそうで、怖い。仕事に太鼓に昼夜せかせかと動きまわるのが、蟻早の日常だ。朝昼ご飯の作り置きと簡単な書き置きを残して、家を出る。太鼓の音は聞こえない。

温泉街へと降りれば、目的地はすぐそこだ。

 蟻早の勤務先である『碧楼閣』は百年の歴史があり、由緒正しき旅館ということをウリにしている。しかし、建てられた当時の建物は、既に姿を消している。海がすぐそばにある町だ。思う以上にものの腐敗が早い。一年中色んなものが塩害によってダメになる。自動車には錆止め加工が必須だ。裏のシャッターなんて、毎年鍵を変えなければ開けられない。不便極まりないと思われるだろうが、この町に住むのならば、甘んじて受け入れなければならない。塩と密接な関係があるからこそ、有名な鮭産業とこの温泉街が成り立っている。そんなわけで今の『碧楼閣』は、二代目である。建て直したのは、蟻早がもう「お嬢ちゃん」と呼ばれなくなって久しい時期だったと思う。ぎりぎり「お姉さん」とは呼ばれていたかもしれない。

 初代『碧楼閣』はたいそう立派で、荘厳と呼ぶに相応しい佇まいだった。幼い頃から近所に住んでいた蟻早は、目の前を通り過ぎる度に「あそこには大金持ちが住んでいるご立派な家なのよ」と法螺を吹き込まれた。おかげで幼少期はすっかり信じ込んでいた。温泉に行くにしても、『碧楼閣』のような高級旅館ではなく、隣にある小さな旅館『さざなみ荘』だった。旅館というよりも、民宿をイメージするようなこじんまりとした建物だ。『さざなみ荘』自体、旅館よりも日帰り温泉で儲けていると冗談めかしで口にしているほどだ。

「高級旅館さんとおんなじ泉質の温泉に格安で入れる共同浴場だと思ってもらえれば」

支配人の佐藤さんは、手をひらひらさせながらいつもそう嘯いている。そんなことでいいのか、と常連たちはみな口を揃えて経営状況を心配しているものの、みな年間パスポートを購入し、毎日のように入り浸っている輩だ。「一番の貧乏神は私たちかもしんないさねぇ」悪びれずそんな会話をする。

ここ数年だけでも、目まぐるしく変わったこの温泉街。全盛期の時に比べると、その規模は半分ほどになった。取り壊された旅館の跡地に、住宅が建つこともザラだ。ひどいと取り壊すお金がなく、『売出中』や『テナント募集』の看板が掛けられたままになっている店舗もある。景観が悪いと誰もが思っているに違いないが、誰も他人の手助けができる状況にないのが実情だ。どこもかしこも、不況という文字が頭を過ぎる。

バブルの頃は良かったのになあ、とおない年ぐらいの人たちはそう漏らす。だけど、蟻早はそうは思わない。昔は、市街地に行くまでも立派なお出かけであったし、ましてや大きな隣町に行くなんて、大層なイベントだった。現代では、いつでもどこでも車で行ける良い時代だ。物流も移動も随分豊かになった。いい時代だ。

どの時代でも、過去ばかり顧みているものに、幸せな未来はない。それが蟻早の持論だ。常に、前を向いて生きていくしかない。

かろうじて生き残っている潮目温泉の旅館も、少しずつ変化していった。『碧楼閣』のように、大規模なリニューアルをしたところもあれば、経営が立ち行かなくなって、東京の大手チェーン会社に買収されたところもある。しかし、『さざなみ荘』だけは、蟻早が生まれたときから、その建物の姿形は変わっていない。願うなら、自分が死ぬまでずっと、その姿でいてほしい。

県内ではそこそこ有名な観光地であり、温泉街でもある潮目だが、全国的なネームバリューはまだまだだ。今、温泉協会の間では、それでもいいじゃないか派と、名前を轟かせたい派に二分されていた。『碧楼閣』の女将さんや協会会長は前者、蟻早は後者だった。

「改装してる間って、暇っすよねえ~。まあ、だからこそ、この豪華すぎるロビーで寛げてるのは、僥倖っすけど」

 蟻早の同僚であり、今の温泉街のままでいいじゃん派のこっこちゃんこと、鯉川は、んんっ、と大きく伸びをした。ふかふかのソファに遠慮なく腰掛けるだけでは飽き足らず、目の前の机にどっかと脚を上げている。鯉川は、一回りどころか、二回り以上年下だが、はしたないからやめなさないと注意しなかった。鯉川が反抗的な態度を取る動機が分かっているからだ。

 二代目『碧楼閣』のエントランス。高級ホテルを模したような高い天井には、大きなシャンデリアがいくつもついている。掃除するのが大変なのだと、キーパー泣かせの毛深く赤い絨毯に、手触りの良いベージュのソファ。そして、値段がいくらするのか聞かなかったローテーブルには、鯉川の足が未だに乗っけられている。少し前までは、透明な灰皿も常備してあったが、今ではすべて撤去された。時代である。

「悪趣味だと思いません? 私は昔の『碧楼閣』の方が好きだったな。趣があって、風情があって、威圧感があった」

 まるで見ていたかのように語っているが、建て直しは鯉川が生まれる前の話だ。彼女は初代『碧楼閣』のことが大好きだ。暇さえあれば、飾ってある『碧楼閣』の写真を何度も眺めて過ごしている。ここで働き始めたきっかけも、そんな過去への憧憬があったからだという。今は見る影もないが、それでも同じ土地ということは変わらないからいいのだ、というのが彼女の主張である。

「お風呂を改修するだけなのに、なにも旅館閉めなくてもいいと思いません? 暇だし暇だし暇だし。このエントランスでこうしてゴロゴロするっていう夢が叶ったのは超うれしいですけど。いつもはほとんど立ち寄れないから」

 宿泊客のために、二十四時間いつでも開放している。スタッフがこのエントランスで過ごすことはほぼない。確かに、この場所でゆったり過ごすのは新鮮だ。

改めて、豪華絢爛な設えをぐるっと見回す。急に、居心地が悪くなった。フロントの奥にある狭いスタッフルームの方が落ち着く。豪華さより、庶民ったらしいのが性に合っているのだ。贅沢に時間を使いたいのならば、客として来るしかない。

「その間に新人教育したり、サービス向上に努めたりするのが、私たち仲居の役目でしょ」

 仲居というのは名ばかりで、今では接客係と言ったほうがしっくりくるだろう。予約の受付からキーパーの手伝いまで、厨房に入ったりもする。要するに雑用係だ。最近入ったばかりの新人は、鯉川が指導係に当たっている。今日はその新人が休みなため、蟻早はこうしてエントランスで過ごしている。サボりともいう。まじめも不真面目もないが、サボることに関しては多少の後ろめたさと、わくわく感がある。還暦を迎えても、気持ちはまだ童心でありたい。掃除途中なのだというアピールも込めて、一応雑巾は手にしている。小賢しさは、年を取っても衰えないものである。

「私たちも旅館とまとめてお休みだったかもしれないわよ。それがこうして変わらず働けて、お給料もらえているんだから。女将さんたちには感謝しないと」

「そうそう、感謝してもらわないとね」

 ぬっと、音もなく女将が姿を現した。建物が近代的になっても、女将の着物姿は変わらない。紗の薄い紫の着物は、白い髪を後ろに纏めた髪型とよく合っている。オレンジのフレームが目立つ老眼鏡を今日も掛けている。「最近、特に文字が読みにくくなったのよね」との女将さんの嘆きを聞きつけた鯉川が音頭を取って、仲居のみんなでプレゼントしたものだ。恐怖で肩を震わせている鯉川がその眼鏡に気付いているのかどうかは、知らない。

「堂々とサボりとは、大したもんさねえ。こっこにあーちゃん」

 鯉川のこっこも、蟻早のあーちゃん呼びも、この旅館にすっかり定着してしまっている。この歳にもなって、あーちゃんは恥ずかしいと言っているのだが、広まってしまったものはなかなか回収できるものではない。半ば諦めている。

 えとえとえと……、続く言葉が出てこない鯉川は、慌ててローテーブルから足を降ろした。言葉を紡ぐことよりも、一番にすることだっただろうに。蟻早は、鯉川の行動を冷ややかな目で見ながら、女将に持っていた雑巾を軽く振って見せた。

「掃除してたってことにしといてくださいな」

「おやまあ。真面目なあーちゃんまで。不真面目なこっこに感化されたわね」

 呆れた顔をして、女将は蟻早の雑巾を取った。

「手を洗ってらっしゃい。あーちゃんにお客様よ」

 女将は半身を避けて、入り口を示した。潮目温泉協会会長の襲来だった。

「お元気そうで何より」

 現会長と蟻早は、数日前に会ったばかりだ。お元気そうもなにもない。

被っていた帽子を取り、丁寧にお辞儀をする現会長。その態度は紳士的というよりも、慇懃無礼で、鼻につく態度であった。外は暑かっただろうに、汗を一つもかいていない。淡いベージュのスリーピーススーツ。今日は黄緑色のネクタイを締めている。スーツはなかなかお洒落だが、ネクタイの色がすべてを台無しにしている。

ちなみに、外向けのイベントの時だけ、いかにも『会長らしい』法被を着ている。そんな、いかにも取り繕った態度が、鯉川は気に食わないらしい。だから、現会長の登場に、鯉川は嫌な顔を隠さない。少しは大人な対応を覚えてほしいところだ。蟻早は上品に見える笑みを作った。大人は、常に本音を隠すものである。

「そちらもお元気そうで」

 礼儀正しく四十五度のお辞儀をしてみせた蟻早。女将は、鯉川の耳を掴んで奥へと引っ込んでいった。どうやら、現会長は、蟻早とだけ話をしたいらしい。

「込み入った話なら、外でしましょうか」

 太鼓チームの話だろう。この前、会長には先生の不祥事について話したばかりだ。チームで話し合いの場を持ち、そうしてメンバーの半数は去った。残りのメンバーでチームは継続することを伝え、その了承は得た。それなのに、今日、いきなりの来訪だ。

「いいや、ここで構わん。『碧楼閣』の女将さんもええって言ったんばね」

 どっしりと近くのソファに腰を掛けた。蟻早は敢えて突っ立ったままでいた。

「まあ、座らんばね」

現会長に言われて、やっと腰を落ち着けた。お互い、無言の時間が続く。

 しばらくして、鯉川が冷えた麦茶を持ってきた。置き方が些か乱雑だったのは、気のせいではないだろう。「ごゆっくり」と口だけ告げて、再びフロント奥へ下がった。その姿をしっかり見送ってから、現会長はようやく口を開いた。

「太鼓チームのみなさんもお元気かね」 

「ええ、おかげさまで」

 実際に見学されてはいかがでしょうか? その言葉は、出すだけ無駄だ。これまで、現会長が練習を見にきたことは一度もない。太鼓に対する知識も、チームへの関心もない。

表向きのチーム長の名前は温泉協会会長だが、その責務を果たす気はないらしい。代わりに、すべての矢面に立っていたのは先生だった。この度の不祥事で、蟻早にはその皺寄せがきた。今は、こうして『碧楼閣』の仕事をしているが、家に帰れば家事。そして、会館に行けば、太鼓の件を考えなければならない。

夏の終わりの大会は目前。みな、一様に練習を励んでいる。その合間を縫って、指導をしていた学校へ挨拶周りをしている。

「この度は……。しばらくは……」

最初こそ、心を込めて陳謝していた蟻早だったが、だんだん定型句になっていた。先生への怒りも湧いてこない。ただ、目の前の押し寄せる仕事を淡々とこなすほかない。ステージのことは、チームの柱であるおーちゃんに一任している。

これまで誰よりも太鼓に情熱を燃やし、先生を慕っていたあの子は話し合い以来、練習に顔を見せていない。連絡も取っていない。

「さて、君のチームの話なんだけどね。一生懸命やってもらってんば、悪いんだけど」

 蟻早は目を閉じた。

「祭りの委員長から話がきた。不祥事を起こした団体の公演は不適切ではないのかと」

「不適切」

 思わず口を挟んでしまった。

「先生の状況は、君の口から聞いたとおりだ。もちろん、他からも話は耳に入れている」

 どんな、と言いかけてやめた。

「昨日、祭の運営協議会があった。祭りまで残すところ一か月を切っている。全体の流れと、細かいブースのブラッシュアップだな。その中で、ステージの開設の話になった」

 回りくどい言い方をしているが、つまり、直接的に出演者の話の見直しがあったわけではない。出演するメンバーは、もう半年も前から決まっていた。有志によるキッズダンスと、ご年配のカラオケ大会。そして、『さけ太鼓』であった。

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今回の祭の出演をメンバーに知らせたのは、今から一か月ほど前のことだ。

 すべてのメンバーがステージの上で叩けるわけではない。太鼓の数には限りがある。練習はメンバーにまんべんなく叩かせるが、実際にステージに出られるのは約半分だ。年齢層が低いメンバーなので、あぶれるのは大抵、小さな子供たちだ。お遊びとしてやっているのではない。弱肉強食。現実はシビアな世界であることを、太鼓を通じて子供たちに教えている。ただ上手い人を選出しているのではない。ステージに出るというまでの、人のやる気を見ていた。

 ステージが決まった。そう宣言した後は、みんなで曲決めをする。そこでやっとメンバー選出のための練習が始まる。全員、その時だけは一生懸命になる。

先生も前会長も、その時のやる気といつものやる気が変わらない子たちを本番で使った。

 折角やる気を出した子たちが出られないのは、可哀想だ。ただ、その気持ちがステージ後も続かないのは問題だと、二人の指導者は嘆いていた。太鼓が本当に好きならば、本番前も後も、太鼓に対する態度は変わらないはずだと、当たり前のように言う。

 とんでもない、と思った。ステージに上がる。それは人目に晒されるということだ。何も目標が無い中、ぼんぼんと闇雲に太鼓を叩く練習とはわけが違う。だれもが頑張りたいと、気を張ってしまう。緊張してしまう。そんな普通の人の気持ちを持たず、いつだって飄々としている達人の二人の態度に、蟻早は薄ら寒さを覚えていた。

「ずいぶん前から決まっていたことを、覆すのは嫌だったんだがね。祭の運営側からそう持ち掛けてこられたんだ。それでワタシも改めて考えさせられてね。……やはり、うちの温泉街の代表として出演させるには相応しくない」

 祭には出せない、と言い切られた。『うちの温泉街の代表』だなんて、露にも思っていない癖。よくもまあ、いけしゃあしゃあと口に出せるものだ。蟻早の纏う空気が変わったのを察知して、現会長は殊更に顔の皺を深くしていく。蟻早よりも年齢は幾ばくか若いはずだが、見た目は年上かのように老いている。この温泉街の再興に向けて、気苦労していることは重々承知していた。何度も言うが、蟻早もついでに鯉川も、この地域の再興を目指してはいない。緩やかに衰退しているのは事実であり、この時代で避けては通れない現象だ。盛り返したいと右往左往するのは見当違いに思える。一体、この町はいつが最盛期で、今はどこまで落ちぶれたのか。粛々とこの町で暮らしいている住民に失礼だとは思わないのか。立場は弁えているで、口には出さない。

「さて、それでだね。君にはほかのメンバーさんたちに、そのことを伝えていただきたい」

「決定事項なのですか?」

「いいや、まだ検討段階だ。だが、もう日がない。先に前出ししておけば、太鼓をしている者も納得するだろう」

 本当に祭のスタッフが言い始めたのだろうか? 現会長の進言を受けたからではないかと勘繰ってしまう。とにかく、承知できかねる話だ。まだ不祥事のショックから立ち直っていない子もいれば、前を向いて懸命に練習している子たちもいる。その子たちを前に、やっぱり祭の出演はおじゃんになったと言えばいいのか。出られなくなるとメンバーに伝えてから、メンバーも納得したので辞退します、と祭の運営に言うのが現会長の筋書きだ。

「じゃあ直接、祭りの方と話をします。私は忙しいのでこれで」

 席を立つ蟻早を、現会長はやんわりと引き留めた。

「まあまあ。あなたの講師の評判を知っているでしょう」

「先生は、前会長のように人徳がある人物とは言い難いです。が、子供たちから私のような高齢まで、みんなに等しく教えてくださいました。太鼓に掛ける情熱はみなさんにも伝わっているでしょう」

 太鼓バカ。そう評されるほどに、先生の頭の中は太鼓でいっぱいであった。

「今の評判の話をしているんだよ。教え子に手を出した太鼓教室のエロじじい。事実じゃないんさね? 全く嘆かわしい」

 否定はできなかった。蟻早は目を逸らして、窓に目を向ける。エントランスの一辺は巨大なガラス張りになっている。朝にした打ち水は、とっくに乾ききっていた。ゆらゆらとアスファルトが揺らめかせる陽炎が、外の暑さを物語る。

ここから表通りがよく見えるように、外からも中が丸見えだ。ただ、少しだけ高さがあるこちらからは、近くの海が見える構造だ。上の階へ行けば、お風呂からも、海側に面している個室からも、雄大な日本海が見渡せる。天気が良ければ、おーちゃんの故郷である島まで見える。島はさほど離れていないように感じるが、船で渡るとかなり時間が掛かる。

 旅館の裏には大きな山がある。先生は、その山を切り崩した土地の家に住んでいた。ステージの打ち合わせや指導の擦り合わせのため何度か訪れたが、庭にはいつでも綺麗な花が咲き誇り、温かい空気を纏っていた。奇人変人に分類される先生が、温和な家で暮らせていたのは、奥さんのお陰だろう。いつでも素敵な笑顔で出迎えてくれ、おいしい紅茶をごちそうになった。奥さんと結婚したのは、先生の一目ぼれだと聞いている。昔の時代に珍しい恋愛結婚だった。メンバーの前では自分らしさを崩さない先生だったが、奥さんにぞっこんであることはみんなに伝わっていた。

それだけに、今回の話は、誰しもが自分の耳を疑ったことだろう。気の迷いか、何かの間違いか。広まるなら後者にして欲しい、と蟻早は思っている。

様々な欲求のすべてを太鼓にぶつけていたような人だ。暇さえあれば、太鼓を叩いたり研究したり、指導していたりしていた。そんな人間が、急に教え子へ欲望を向けるとは周囲も考えにくいだろう。誰かに誘惑されて、仕方なく。もしくは何かの罠に嵌り、貶められたのではないか。もしかしたら、教え子たちにも、先生に対して良くない感情を持っていた子がいたかもしれない。そんな風に考えることもできるはずだ。

 あれから先生宅には一度も顔を見せていない。奥さんになんて言えばいいのか分からなかった。大きなショックを受けているに違いない。ご近所さんも蟻早の前では、「奥さんが可哀そう。蟻早さんも大変ね」と繰り返し言うだけで、直接本人について触れることはなかった。家の中やほかの場所でどのように言っているかは知らないが、現会長の指摘通りだろう。もしも、赤の他人なら、ただ単に、色ボケおじいさんが逮捕されたと思うだろう。

「それで、被害者は誰か分かったのかい?」

「知りません。あなたにそれを知る権利があるとも思えません」

 被害者が誰なのか明るみになっても、現会長には教えてあげる筋合いはない。教えてしまえば、先生もあの子もこの町から追い出しかねない。それが強引な現会長のやり方だ。温泉街の再興途中にあった事件を、なかったことにしたいのだろう。逮捕されたからと言って、まだ罪だと確定したわけではない。罪に問われてはいない。ただ、疑いの目が向けられ、警察の手が及んだ時点で、誰もが不信感を持つのは間違いない。そんな不穏分子すら消したい。それは今の協会の方針なのか。現会長個人の考えなのか。

「君にはあるのかい。その権利は?」

「ないです。今後、私たちに口出すことは一切やめていただけませんか。これまで通り、放置してくださるだけでいいのです」

「一応、君のチームの持ち主はワタシということになってるんさね」

「いえ、前会長のものです。故人になった今でも」

「ワタシはあんな太鼓、早くなくせばいいとずっと思っているがね」

 殴りそうになった。ここまで感情が高ぶったのは久々だった。あんまりな発言だ。

 今度こそ、蟻早はこの場を後にした。すべてがどうでもよくなってきた。スタッフルームに帰れば、女将と鯉川が心配そうにこちらを伺っていた。

「すみません。会長に無礼な発言をしました。女将さんや『碧楼閣』の立場が危うくなったらごめんなさい」

「謝るくらいなら大人しくすればいいのに」

「少し、頭に来たもので」

 蟻早の硬い声。

「仕方ないわねえ、上手くやっておくわ」

 見送りするために女将は、蟻早が来た道を辿っていく。女将さんには悪いと思ったが、失礼すぎる発言をしたのは向こうの方だ。もう少し若ければ、本当に殴っていたかもしれない。先生ならば、本当に罪人になったとしても遠慮なく殴っていただろう。太鼓をバカにされた。ただそれだけの理由で。

「あのくそジジイがムカつくのはいつものことさね。ね、もう定時だし、あがらんばね? 一緒に風呂さ行こ」

 年下の子に慰められるとはなんたることか。情けなくて、蟻早はため息をついた。

 本当は、風呂に入りに行く時間なんてないのだが、引き摺られるように、『さざなみ荘』に来てしまった。蟻早も鯉川も、年パスを見せるまでもない。

「どうも~」

鯉川が片手を上げれば、心得たように軽くお辞儀をされた。支配人の佐藤さんは、今日も自ら受付に座っている。人手が足りないわけでない。趣味でやっているのだと、佐藤支配人は可能な限り、受付にいる。禿げ上がった額をつやつやと光らせて、白いタオルを首に掛けている。『さざなみ荘』の名物マスコットだ。

「あーさん、今日は元気ないね」

「さっきクソ会長とドンパチやったんさね」

 鯉川も、大嫌いなクソジジイが会長を務める温泉協会に加入している旅館の従業員だ。『碧楼閣』のスタッフルーム内ならともかく、大声で『碧楼閣』の話を口外しないでいただきたい。蟻早はうんざりしながら鯉川の腕を引っ張った。反対側には貴金属を入れるためのロッカーがあるが、常連は誰も利用しない。

「夏休みなのに、閉めるなんて『碧楼閣』さんも強気だねぇ」

 嫌味には聞こえない朗らかな声色だ。

「おかげで『さざなみ荘』さんは儲けてはるでしょ?」

 鯉川のセリフは完全に嫌味であったが、佐藤支配人はさっぱり流す。

「いいや、さっぱりさね。うちで海が見られるのは、お風呂だけだからなあ。夏の観光客シーズンはみんなおたくか『蕉風館』に行っちまう」

 佐藤支配人は、よそはよそ、うちはうちの精神で割り切っているのだろう。外見も中のにぎやかさも、今から昔までそのままだ。

「じゃあ今年は『蕉風館』の一人勝ちかぁ。おもしろくな」

「こら。人の悪口はそこまでにしなさいよ」

「だって~」

「聞こえなかったことにしておくよ」

佐藤支配人は耳を伏せるジェスチャーをした。

「代わりに一つ聞いていいかい? なんでこのタイミングで改装閉店に踏み切ったんさ」

 佐藤支配人も、好奇心には負けるらしい。猫をも殺すことになるかもしれないのに。

「し~らなぁい~」

 都合が悪くなった鯉川は階段を駆け上がっていった。眺めをよくするために、『さざなみ荘』の浴場は最上階にある。エレベーターを使わない元気な子たちは、ずんずん上がっていく。蟻早も運動不足の解消ついでに階段を使うが、下から上が見えない構造になっている斜面を昇るのは、流石に骨が折れる。だが、その苦労があってこその絶景風呂だ。

「あらあら。逃げられてしまいましたね」

「……実は、『碧楼閣』も客入りがそんなに良くありません。お風呂も、取り立てて早急に工事しなくても良かったんです」

「そうだろうね」

「夏休みを潰してでも、秋の行楽と冬のシーズンに掛けるしかないみたいです。オフシーズンはみんな、海水浴と川流ればっかりでしょう。うちも繁盛しないなら、今のうちに大改装したほうがいいって」

「……会長か」

 佐藤支配人の顔が、憂を帯びた顔に変化した。思うところがあるのだろう。

「私たちは、仲居の身分ですので。経営方針に口出しできません」

「蟻早さん、あれならうちにおいでね」

 ありがたいお言葉だ。蟻早は目を伏せて深くお辞儀をした。

「その時は、私よりも鯉川をお願いします」

「……人徳者だねえ」

 そうではない。『さざなみ荘』に対しては、客であり続けたいだけなのだ。蟻早はもう一度、お辞儀した。

「蟻早さーん」

 上からバカでかい声がする。はいはい、と蟻早は階段をゆっくりと昇りはじめた。

 『さざなみ荘』のお風呂は、階段を登りきった先だ。浴場内にはお風呂が二つ。屋上のドアを開ければ、海の見える露天風呂がある。冬の外気に晒されるながら入るお風呂は、天国と地獄の境目にいるようで楽しい。これは鯉川談だ。蟻早はとにかく寒いのが嫌なので、絶対に外に出ない。建物内のお風呂でゆったりするのが一番である。

 蟻早は暖簾をくぐる前に、奥の談話室を覗く。牛乳をちびちびと飲みながら、新聞を捲る夫の姿があった。

「おう、来たのか」

「そういうアンタは何回目?」

「今日はまだ二回目さね」

 では、まだしばらくここにいるのだろう。最低でも三回は出たり入ったりをする。会社員時代は忙しなく県内を飛び回っていた夫。ずっと家に居続けることになれていないらしい。意味もなく街をうろうろしたり、しょっちゅう『さざなみ荘』に入り浸っている。どっちか早く上がったほうが、夕飯を作るルールだ。この後、蟻早は太鼓の練習に直行する。すでに連絡済みなので、今日のご飯担当は夫だ。

「帰りは遅くなるんさね」

「はい」

 妻の憂鬱そうな顔に、夫はそうか、と再び新聞に目を落とした。

「俺も、そこまで打ち込める趣味があったら良かったのかもな」

 羨ましがられているのか、励ましなのか、よく分からない呟きだった。親の紹介でなし崩しにした結婚だが、こういうピントのズレたところが好きなのかもしれない。蟻早は笑みを浮かべて、今度こそ暖簾をくぐった。

「もう、遅いですよ。先に入ってますからね」

 鯉川は服を脱ぎ終えたらしい。カラカラと扉を開けて、湯煙の中へ消えていく。

「こんばんは」

 夏の日は長い。まだ太陽が沈みきってなくても、ここでのあいさつは『こんばんは』が暗黙のルールだ。

 挨拶してくれたのは、同じく常連のご近所さんだ。この近辺の住民は、当たり前のように『さざなみ荘』の年パスを買っている。自分の家のお風呂に入ることのほうが少ないくらいだ。もしかしたら、『さざなみ荘』は『蕉風館』や『碧楼閣』よりも儲けているのかも。まさかね、と蟻早は考えを打ち消した。潮目温泉協会の協議会には、現会長はもちろん、女将も佐藤支配人も参加している。発言力が高いのは儲けている旅館だと聞いたが、佐藤支配人はどうなのだろうか。余計な詮索をしながら、蟻早は衣服を一枚一枚脱いでいく。お風呂でさっぱりしても、どうせ太鼓を叩いてまた汗を掻くのだ。軽く流すだけにする。

 準備を進めていると、隣で着替えていた人に声を掛けられた。ここでは何度も顔を合わせているが、どこに住んでいるのかは知らないような関係性だ。

「蟻早さんも大変ね」

 何が大変なのかまでは、伝えられなかった。先生の逮捕も、『碧楼閣』の改装も、口に出すたびに、重しのように肩に言葉がのしかかる。

「何があっても、温泉は入りなさいよ。ストレスは美容の敵だから」

「お互い、美容を気にする歳じゃないでしょう」

 軽口を叩くと、あっはっは、と豪快な笑いが返ってきた。そりゃそうだわね。カラカラと開けられる扉。続いて、蟻早も浴場に足を踏み入れる。

 ここの温泉は、無色透明で、すこし粘り気がある湯が特徴だ。泉質は、塩化ミネラル。海に面している地域ならではだ。少し車を走らせれば、琥珀色の温泉や硫黄が売りの温泉へたどり着く。

「蟻早さん! 捕まえましたよ!」

 大声を出した鯉川の隣で、気まずそうにしている女性。久しく練習に姿を見せていなかった、あの子だった。

「……どうも、こんばんは」

「今日はどうする?」

 目を彷徨わせて、行きますとも行きませんとも言わない。口をもごもごさせている。

「いきなよ。私も行くし」

「え?」

 驚く女の子。蟻早だって聞いてない。

「だって、くそじじいに今日なんか言われてたじゃん、蟻早さん。それがなんなのか知りたいんさね。分からんば夜も寝られんと。本当は聞き耳たてようとしたら、女将さんに止められて」

 当たり前だ。接客を生業としている身だとは思えない態度の悪さ。

「ね? ね? いいでしょ?」

 鯉川もかつては太鼓のメンバーだった。今の仕事に就くにあたって、両立はできない、とやめたのだ。まだ、前会長が亡くなる前の話である。だが、律儀にステージを見に来てくれたことがあった。「指導方法が変わると、ここまでチームの色が変わるんさね」と感心していた。ちなみに、今の『さけ太鼓』の方向性は、否定的にも肯定的にも捉えていないという。どこかシビアな鯉川だ。

彼女の太鼓はびっくりするほどトリッキーだ。「面白い音色だから残ってほしかったなあ」前会長は、死ぬ間際までそう言っていた。

 鯉川は辞めた後、一回も練習中に姿を現さなかった。鯉川のことだから、先輩風を吹かしてきそうなものだが、仕事でそれどころではなかったようだ。最近はやっと仕事に慣れてきて、家事まで手が回るようになったと話している。ガサツが代名詞の鯉川の家がどうなっていたのか、考えたくない。

 そんな鯉川がわざわざ話を聞きたいと言っている。それほど蟻早が切羽詰まっているように見えたのか。確かに、チームは今、崖っぷちに立たされている。

「じゃあ、太鼓叩いていってくださいよ。子供たちも喜ぶと思いますよ」

 ざぶんと立ち上がって風呂から出ようとする、その子の手首を鯉川が捕まえる。

「まだ蟻早さんも来たばっかりじゃん。もう少しゆっくりしていきなね」

 あの子も鯉川も、まあまあ年が近い。話せば気が合いそうなものだが、あの子はそんな気分ではなさそうだ。まだ、太鼓を辞めるか続けるかで迷っている。

 蟻早はさっさとシャワーを浴びることにした。隣で体を洗っているご近所さんに同情の言葉を掛けられた。

「蟻早さんは若い子に囲まれて大変ばね」

「全く、困ってますよ」

だけど、振り回されるのには慣れている。そうでなければ、太鼓の指導者は務まらない。

「鯉川さん、太鼓辞めようってすぐに決められました?」

「うん。ああ無理だなって思った。太鼓よりもずっとやってみたかった仕事ができたから」

「……そう、ですか」

 あの子にとって、太鼓はただの趣味ではない。生きがいであり、生きる指針であった。それも、先生イコール太鼓で結ばれていたほどの熱狂ぶり。なのに大尊敬していた先生が目の前から姿を消した。だから、どうしたらいいのかわからなくなり、まだ戸惑っている。

「続けなよ~。あなたみたいな人は、太鼓のチームには必要よ。始めたばっかりなのに、ばりばり上手いんだって?」

「もう四年になるので、始めたってほどでは」

「蟻早さんみたいなベテランクラスに比べたらまだまだひよっこよ。いいから続けてみなさいな。別に、あなたは先生じゃないし、先生はあなたじゃないんだから。あなたは、あなたの太鼓魂ってやつぶつけてやりゃあええってもんよ」

 後ろの会話がうるさい。

「すいませんねえ」

「いやいや、にぎやかでいいじゃない」

蟻早の詫びに笑ったご近所さんは、二人が入っているお風呂へと向かう。残された蟻早も、手早く洗って席を立つ。そろそろ太鼓の時間だ。悠長にはしていられない。お風呂に入らず、そのまま浴場を出た。

「ちょっと待ってくださいよぉ」

後ろで、バシャバシャと水が跳ねる音がした。

 

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