第14話 啄木鳥くん その4

 補習も、夏休み丸々全てを使うわけではない。最初の一週間と最後の一週間が潰されるくらいだ。それでも、休みが短いことには変わりない。

 補習前半戦の最終日。教室に、おーちゃんの姿はなかった。そのまま、形だけのホームルームが始まった。その時だった。

よぉうぉ~~~!

 ドドン

 大きな掛け声と、もっと大きな太鼓の音が聞こえた。中庭からだ。なんだなんだと、クラスメイトたちは窓の方へと駆け寄る。

どどん、どどん

大きくなったり、小さくなったり。音の波が届いてくる。誰が叩いているか、すぐに見当がついた。人壁の後ろの方から、ぴょんぴょんと飛んで確認する。

やっぱり、おーちゃんだった。

大急ぎで階段を駆け下りていく。ほかに動いている人はいなかった。クラスメイトも、先輩も、下級生から先生まで、みんな彼女に釘付けだった。僕は中庭の入り口で足を止めた。

おーちゃんは制服姿だった。だが、足は素足だ。照り返しが厳しいアスファルトに、武骨なコンクリートの校舎。大勢の非難と興味の目にさらされながら、たった一人で、真っ白なバチを振るう。いつもは下ろしているヘアスタイルも、今日は低めのポニーテールで結ばれていた。激しく動くたびに、髪も波打つ。反響する太鼓の音が耳に刺さる。

止まることを知らない彼女の動きは、激しさを増していく。嵐だった。ドンドン、と表現するには少し違う。ダンダンダンダンという方が、もう少しだけ正確だった。

『めっちゃ好きな人がいたとしてさ』

 おーちゃんの音を聴きながら、頭に響くのは、いっくんとの会話だった。

『そいつに裏切られたら、どんな気持ちになる?』

 スッと、今までの激しさが嘘のように、太鼓の音が鳴りを潜める。

タンタンカッカッ、タンタンッカ。

その音は、どこか不気味さを覚える。今は台風の目にいるのだ。ここで初めて、大きく息を吸うことができた気がする。ただ、安心はできない。この静けさは、今だけなのだ。じっとしていなければ。もうじきくる。すぐにくる。

 カッ

 来た。来てしまった。

 カタカタカタカタドンドンドンカタカタカタカッ

 奇妙なリズムが始まった。曲の終盤に差し掛かったのだ。

 ダンダンダンダンダンダンダン

 大きく頭を振り回しながら、バチの動きを大きくしていく。誰かが、手拍子を始めた。ぱん、ぱん、ぱん、ぱん、乾いた音が、大きな波を作っていく。だけど、オーディエンスの波を壊すかのように、リズムを取らない太鼓の音は続く。不協和音。

 怒りだ。この感情は、おーちゃんの怒りだ。おーちゃんも、めっちゃ好きな人に裏切られたのだ。きっと。それがすごく伝わってくる。周囲の人の反応をそっと伺ったが、みんなそこまで感じ取れているのかは分からなかった。人の頭の中の思考まで覗けない。

いっくんが『裏切られた』人と、おーちゃんが『裏切られた』人は、誰なのか。

 ドン

最後のたった一音。その音とおーちゃんの目の鋭さは、一緒だった。いつも飄々としている会長らしくない。会長ではなく、おーちゃんだった。

動きを止めたおーちゃんは、直立不動の形をとった。

「八月末の祭で、私たち『さけ太鼓』はステージに出ます。興味がある方は是非いらしてください。あ、生徒会執行部も募集中です」

 鴻ッ! 生徒指導の先生の声が響く。おーちゃんは大急ぎで太鼓を背負う。左手にはバチ、右手には太鼓を置いていた台座を持っている。どれくらいの重さがあるのだろう。相当な重量だろうに、おーちゃんは颯爽と駆け出す。

 僕も駆け出す。

 隣で、もう一つの足音が聞こえた。いっくんも駆け出していた。僕たちは打ち合わせなく、生徒会室に立てこもった。念のため鍵を掛けて、息を潜める。三人とも肩で息をしていた。ふぅふぅと必死に酸素を吸い込むおーちゃんと僕。比較的早く回復したのは、いっくんだった。ふう、と息を吐いて、窓を開けて下へと飛び降りていった。

「何しにどこ行ったの? あいつ?」

 さぁ、と短い返事もまだできなかった。

「やべ~。うち、なんか言われるかな?」

 おーちゃんは汗まみれだった。おでこにぱっつんの前髪がぺたりと張り付いている。思わず目を逸らした。危うく、欲情しそうだった。そんな僕の心境を見透かしたのか。薄く微笑んで、おーちゃんはこちらの方へ近付いてきた。どぎまぎしてしまう。化粧っけのないおーちゃんの肌。黒縁眼鏡の下には、薄っすらとそばかすが見えている。息を止めている僕に、おーちゃんは小さく口づけをしてくれた。

 唇に。柔らかな感触だった。

 一緒に帰る三分間のデートしか、まだ、恋人らしいことをしていなかった僕たちである。

 いよいよ口に出す言葉が無くなった僕は、人差し指でそっと唇を触れた。

「啄木鳥くん、案外、乙女なんさね」

 初めてだったのだ。初心だの乙女だの言われても仕方がない。

 おーちゃんは何事もなかったかのように、さっと身を離した。そのまま片付けをはじめた。大きなカバンの中に、丁寧に太鼓を詰める。その手つきはずっと繊細で、さっきまで粗々しく太鼓を打っていた人と同じ手だとは思えない。太鼓を叩いていた時のおーちゃんは、ずっと大柄に見えた。だが、今見れば、その手はずっと小さい。指が細くて長くて、真っ白な手。だけど、その手は豆だらけだ。

 トントン、と控えめなノック。身を固くした僕たちだったが、「俺だよ」の聞き覚えのある声に、そっと息を吐いた。僕は扉の鍵を外して、小さく開けた。隙間から身を滑らせたのは、思った通りいっくんだった。その手には、紅茶とスポーツドリンクが握られている。

「いきなり飛び出したけど、手持ちがなかった」

 だから二本だけなのか。生徒会室から自販機は少しばかり遠い。先生に見つからず往復できただけでも運がいい。

机にスポーツドリンクを置いて、いっくんは僕に紅茶を差し出した。本当は、スポーツドリンクの方がよかったけど、文句は言えない。ありがたく頂戴する。人工的な甘味が、体に染み渡る。

いっくんは、スポーツドリンクを開けた。おーちゃんに渡すのかな、と見ていたら、自分でごくごくとうまそうに飲みだした。おーちゃんも自分用だと思っていたらしい。

「なんでくれないのよ」

拗ねながらも、しっかり奪い取っていた。間接キスだ……と思う気持ちが半分。残りの半分は、きちんと水分を取ってくれてうれしい気持ちだ。

「お前、なんであんなことしたんだよ。ただでさえ、太鼓チームの評判がよくねえってのに、生徒会の貴重な人員まで減らす気か?」

「どう? 太鼓、復活する気になった?」

 おーちゃんは、眼鏡の奥の瞳を光らせて言った。その目は、いっくんのことしか見ていない。僕のことなんてこの場にいないかのようだった。

ついさっき、かわいいキスをくれたばかりだというのに。

あの行為に深い意味などない。きっと、気まぐれだったんだろう。僕にとっては大事なことも、おーちゃんにとっては些細なこと。その違いが、僕の気持ちを寂しくさせた。

 おーちゃんからドリンクを奪い返したいっくんは、上を向いて、ぐびぐびと最後の一滴まで飲み干した。その首筋にはうっすらと汗が滲んでいる。目の前のおーちゃんは、その様子をじっと見つめている。クーラーの稼働音がやけに大きく響く。そのくらい、僕ら三人は無言だった。

 しばらく経った。

「いいや」

 いっくんの言葉はそれだけだった。太鼓チームには戻らない。それは彼の中で揺るぎない決定事項のようだった。

我慢できなくて、僕は口を挟んでしまう。

「とってもカッコよかったよ。おーちゃん」

「ありがと」

 そこでやっと、おーちゃんの目に僕が映った。仮にも彼氏なのだが、これでいいのか。

 おーちゃんが太鼓を叩く姿を初めて見た。感情に任せて勢いよく叩く。情熱と、高い技術を持った演奏だった。素人でも、おーちゃんが長年太鼓と向き合っていたことは分かる。だから、同志であったいっくんに戻ってきて欲しいのだろう。気持ちはとても、よく分かる。だけど、いっくんには残念ながら伝わっていない。

「俺は戻らねえ」

 きっぱりと言って、いっくんは口をつぐんだ。そこまでされたら、流石のおーちゃんももうどうしようもない。諦めて口元を曲げていた。

 ゴンゴンゴン!

 けたたましいノックの音がしたかと思うと、いきなりドアがガタガタと揺れ動いた。

「鴻ぃ! いるんだろう。出てきなさい。それから、校内で鍵を閉めるのは禁止だ。生徒会長がそんなことでいいのか⁉」

「やべ」

 言葉とは裏腹に、おーちゃんはクールな顔のままだった。じゃあね、と言って鍵を開けた。勢いよく開く扉。おーちゃんが室内で立てこもっていることは知っていても、僕といっくんがいることまで予測できていなかったのだろう。先生は、間の抜けた顔をしていた。僕たちを隠すように、おーちゃんは先生の前へ立ちはだかる。

「お前、なにやったか分かってんのか」

「はい。太鼓を叩いてました。うち、太鼓が好きなもので」

「受験勉強で頭がおかしくなったのか?」

 保護者の耳に入ったら、大ごとになりそうなセリフを吐いている。教師としてどうなのか。僕は聞かなかったことにする。だけど、次のおーちゃんの吐いた言葉は、誰も聞かなかったことにはできなかった。

「大学には行きません」

 え?

「なので、受験勉強はしていません。授業に必要な勉強はしますけど」

 初耳だった。

「じゃあどうするつもりだ?」

「島に帰ります」

「……その件についても、じっくり話をしようか」

 おーちゃんと先生は連れ立って外へ出ていく。残されたのは、いっくんと僕のみ。

いっくんはきつく唇を噛んでいた。血が出そうだ。どうして。薄く開かれた口は、そんな動きをしていた。

「いっくん」

 僕の声に、俯いていたいっくんは、弾かれたかのように顔を上げた。激しく髪を掻きむしりながら叫ぶ。

「どうして! どうしてだよ! おーちゃんはいつもそうだ! 生徒会だって、太鼓だって! いつだってあいつは未来がない選択肢を選ぼうとする。すぐに沈む、泥船だって決まってんのに!」

「おーちゃんの人生はおーちゃんの人生だよ」

「俺はずっと見てきたんだ! あいつのことは誰よりも知ってる。お前よりも」

 いっくんは、僕の胸ぐらを掴む。顔と顔の距離が近い。

 仮にもおーちゃんの彼氏である僕の前で、そんな風は発言ができるのは、古くから付き合いがあるいっくんだけだろう。それでも言いようのない切なさを覚える。

 僕は、おーちゃんのことを何一つ知らない。今日初めて、どんな表情で太鼓を叩くのかを知った。今日、初めて、唇の味を知った。今日、初めて、おーちゃんが受験せず、島に帰ることを知った。なにもかも新事実だった。

 僕を締め付けるいっくんの力は強い。だけど、その表情は弱々しいものだった。泣くのを我慢していそうな、そんな顔だ。視界の奥に、おーちゃんが置いていった太鼓が見えた。おーちゃん個人で持っているものなのか、誰かからの借りものなのか。そんなことはどうだっていいのだ。今、僕は目の前と向き合わなければならない。彼を落ち着かせるために、僕は優しく声を呼んだ。

「いっくん」

 いっくんの手の甲に触れる。いっくんは力を抜いて、そっと手を降ろした。だらりと、重力のままに落ちていく。

「やめろ。そう呼ぶな」

「いっくん」

「それも、おーちゃんが無理矢理言われたから言ってんだろ!」

「じゃあ、猪野くんに戻すよ」

「いっくんって呼べよ!」

「どっちなんさ」

「俺は!」

 いっくんはまた怒鳴った。僕はもう怯えない。

「俺は……。『いっくんって呼んでくれ』って、俺の口から言いたかったんだ」

 それは、どういう意味なのだろう。理解しかねた。いっくんは次の言葉を紡ぐことを、躊躇していた。どうせならさっさと言って、すっきりさせてしまえばいいのに。苛立ちを覚え始めた僕は、静かにいっくんの言葉を促した。

「言ってよ」

「俺、実はお前のことがずっと好きだったんさ。それなのに、おーちゃんはそんな俺の気持ちを知ってて、啄木鳥くんと付き合った。啄木鳥くんの気持ちも、俺の気持ちも弄ぶために」

 いっくんの言葉のすべてを、一瞬で理解した。気が遠くなりそうだった。眩暈がする。世界の根底が、足元から全部覆ってしまった。

 僕はおーちゃんが好き。

 おーちゃんはいっくんが好き。

 そして、いっくんは僕のことが好きだった。

 なんてひどい三角関係だ。これを全部見透かしていて、おーちゃんは僕だけが幸せになる選択肢を選んだ。いっくんが、太鼓チームを抜けた仕打ちだろう。でもそれは、おーちゃんが一番つらかったはずだ。好きな男が好きな男と、好きでもないのに付き合ったのだ。

 浮かれていたのは僕だけだった。本当に何も知らないのは、僕だけだったのだ。想いを寄せていた魔女に遊ばれていた。

 それから、おーちゃんが学校に来ているのを見たことがない。寮にいるのかどうかすら、分からなくなっていた。最後の一週間の補習にも顔を出さなかった。先生の前で宣言したから、開き直ってサボっているのか。それとも、本番前の太鼓の練習で忙しいのか。どちらが正解なのか、僕は知らないままでいた。

 おーちゃんと僕の関係は、自然消滅となった。

 代わりに、僕はいっくんと付き合うことにした。

 いっくんは、常にペットボトルの紅茶をおごってくれた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る