第6話 うーくん その4
海老名は太鼓を始めてまだ一年弱である。姉御肌だが、決して優等生ではない海老名は、ある日、初めて学校を無断欠席した。呆れかえる話なのだが、なんと、海老名は俺の後をつけていたのだ。それに全く気付かなかった俺自身にも呆れかえる。
その時ちょうど、俺と先生はそれぞれのバチを握りしめて、一つの太鼓を叩いていた。先生の奥さんは、せっせとスイカを剥いていた。
「ごめんくださーい」
聞き覚えのある声に、俺は身を固くした。先生は、そんな俺をちらりと見て言った。
「声を掛けられたごときで、動きを止めるんじゃない。お前が舞台に立った瞬間から、演目は止まらないんだ。もし、叩く側にトラブルが起きても、観客には悟られないように動く。それが演者ってもんだ」
先生は知らぬふりをして手を止めない。相変わらず、どんっ、どんっといい音が鳴る。太鼓歴一年未満の俺も力任せにバチを叩いた。どぉん。なんとも間の抜けた音が出た。
「まるで腑抜けたうーくんそのものを表している音だな」
先生の言葉には、美しい薔薇以上の棘があった。
返す言葉もない俺。引き続き、どぉん、どぉんと鳴らす。俺も先生も表へ出る気がないと悟った奥さんは、「はあい」と朗らかな声を上げた。
「私、南中学校の海老名と申します。こちらに、牛沢君来てませんかね?」
「あらあら、小さなお客さんだこと」
学校はどうしたのか? と聞かないところが流石である。俺は、逃げるように縁側から畳の部屋へ駆け戻ろうとした。が、一拍遅かった。襟元を掴まえられて、持ち上げられた。まるで、泥棒を働いた猫のような恰好だ。片手一本で俺を持ち上げられる先生の腕力に、なにもかも勝てないと悟った。
「おうい、ここにいるぞ」
さらにひどい仕打ちだ。「もう逃げねえから」と弁解する俺の声も聞こえないふり。先生はそのまま海老名に俺を突き出した。
「やっとお迎えか。この子の親ですら来やしなかったのにな。君はこいつをどうしたいんだ?」
「決まってる。行くよ。学校に」
海老名は制服姿のままだった。対する俺は、Tシャツに短パン。ただの私服だ。こんな服装で学校に行けなんて。俺が文句を言う前に、海老名はあっけらかんと言った。
「別にどんな格好だろうが何時だろうがいいじゃない。ともかく、学校に行かないから行けなくなったのよ。放浪してるとは聞いてたけど、まさかひとんちで太鼓なんか叩いてるなんてね」
「……太鼓なんか、じゃねえ……」
反論できたのは、その一言だけだった。このやりこめられている感。非常に居心地が悪い。先生に連れられて会館に入った時もそうだった。自分の意見だけ主張して、相手のことなんかお構いなし。俺は、そんな自己中心的な奴らのペースに流されっぱなしだ。自由奔放に生きたくて、学校通いをやめたのに、これではなにも変わらない。そんな気がした。
「外は暑いでしょう。スイカでもいかが?」
奥さんの鶴の一声で、俺は泥棒猫状態から解放された。咳きこむ俺に、海老名と先生はニマニマと笑っている。気が合いそうな二人だった。
結局、海老名は俺を学校に連行しなかった。先生にバチを握らせてもらい、自由に太鼓を打たせて貰っていた。
どどーん、どどどーん
「結構手が痛くなりますね」
「反動がすごいからな。本気でやるなら、体全体を鍛えねばならん」
海老名のスカートが楽しげに揺れる。場所を奪われた俺は、縁側で大人しくスイカをかじっていた。
「ちゃんと学校には伝えておいたから、安心して」
隣で奥さんが微笑む。俺はそんな心配をしていない。
「海老名ちゃんは、きっと、牛沢くんのことが好きなのねぇ」
のんびりとした口調で言われたせいで、何を言っているのかよく分からなかった。は? と間抜けな声が出た。
「だって、そうじゃない。海老名ちゃんは、どうしても牛沢くんに学校へ行ってほしいんでしょう? きっと、寂しいのよ」
「そう思うのは向こうの勝手だ。俺が学校に行かないのは、俺の勝手だ」
「そうね。でも私は、牛沢くんには学校に行ってほしいと思っているわ。人との対話を諦めるには、まだ幼すぎる」
「諦めたわけじゃない。ただ、疲れただけだ」
学校に行かない時間、ゲームにもネットにも手が出なかった。あのフィールドで活躍していたあいつの顔を連想してしまう。本当に友達がいなくなった。だけど、今こうして人と対話できている。太鼓を通して、気持ちを発信できるし、受け取れることも知った。
「海老名も、太鼓気に入りそうだな」
「気に入るに決まっているじゃない。うちの旦那があれだけ惚れた楽器なんだから。素晴らしさに気付くのは当然よ」
奥さんの笑顔は、この世の全てを包みこんでしまいそうなほど、優しい笑顔だった。
先生のことが大好きだった奥さん。今、どうしているのだろうか。
海老名は、げしげしと足で俺のケツをつっつく。
「最近、先生のところに行かなくなったと思ったら。会館にずっと入り浸っていたのね」
海老名は俺のことが好きらしいが、その割には、俺に対する情報に疎い。先生の家を離れて、会館で過ごすようになったのは、ちょっと前のことだし、あーさんはもちろん、おばさんだって知っている情報だった。多分、海老名は俺に興味があるわけでなないのだ。ただ、不登校児のクラスメイトを救う正義のヒーローを演じているのだ。だから、太鼓の音もしょぼい。見え透いた張りぼての気持ちが、音色にそのままのっている。
「誰よ。このバカうーくんにカギを渡したバカは」
「……先生だよ」
少し考えれば、分かることだろう。先生以外に、誰がこの俺を自由にさせるというのか。海老名は自分の言葉に、顔を青ざめさせて、真っ赤にさせて、そのあと、八つ当たりなのか、俺の髪をぐしゃぐしゃにかき回した。いつもに増して、癖が強い髪になっていることだろう。セルフ特大ブーメランを食らった海老名は、深い深い息を吐いて、なんとか気を取り直すことに成功した。手元に持っていたコンビニ袋をがさりと揺らす。
「で、あーさん。先生がどうしたんですか? ご病気かと思って、お見舞い品を買ってきたんだけど」
そういうところが、苦手なのだ。悪気があってやっているわけじゃない。だけど、その無自覚で傲慢な偽善者っぷりが、ますます俺の人間嫌いに拍車を掛ける。
海老名の行動に、あーさんも思わず苦笑いをしていた。この後伝えなければいけない言葉を思うと、先が思いやられる。「ちげーよ」俺は否定して、海老名の袋をひったくった。中には、ミックスフルーツゼリーが数個。俺は一つ取り出した。どうせ無用の産物だ。ぺりぺりと蓋を剥がして、安っぽいスプーンですくう。いつものようにてらてらと光るゼリーの味は、いつもと違うような気がした。しばらく、ゼリーとスイカは食べたくない。
「全員が集まったら話すから。それまで課題でもしてなさい」
面白くない大人の模範的な答えに、中学生の俺らは渋い顔をしつつ、従うしかなかった。
床にノートを広げて、寝転がって課題をこなす海老名。だからテストの点が悪いんじゃね? とからかえば、消しゴムが飛んできた。おお、こわ。そんな俺は、机の中で無法地帯となっていたらしいプリント類を整理していく。行くかどうか分からない修学旅行の積み立て金のお知らせ、すでに終わっている体育祭のプログラム、この先にある文化祭の担当割……。とどのつまり、ほとんどすべてがゴミだった。
「わかんない! うーくん教えて!」
学校に行っている奴が、言ってない俺に聞くなよ。そう返そうとしたら、リズミカルな足音が響いた。ぎぎっと、さび付いたドアを無理やり開けたのは、いー兄だった。いつも明るいいー兄も、この時ばかりは深刻な顔をしていた。それでも、きちんと脱いだ靴を揃えるのは流石だ。
「話は聞いた、先生が逮捕されたんだって?」
狭い町だ。何か事件が起こった日には、あっという間に話が広まる。それこそ、新聞よりも町内放送よりも早い。
「やっぱり、広まっちゃうわよねえ」
あーさんは、嘆息した。
「え? なんで?」
状況が飲みこめていないのは、海老名ただ一人。やっぱり情報に遅れているのだった。
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