第5話 うーくん その3

 どうしてもあの一音を出したくて。

 学校が続かなった俺が、唯一続けられたのが太鼓だった。

 その太鼓を教えてくれた先生は、今、警察にいる。逮捕されたのだと。おばさんのいうことは信じられなくて、「俺は耳鼻科に行ったほうがいいのか?」と真顔で言ってしまった。大人たちは、笑わなかった。

「集まったら話すつもりだったのに。なんで先に言うのよ」

 あーさんは、怒った顔をしていた。おばさんは、拗ねた顔をしていた。

「うーくんにとっても、先生は特別だったでしょ。私も同じ、だから」

 同じ特別でも、おばさんと先生、俺と先生の関係性は違う。俺にとって先生は、先生である。だけどおばさんは、先生に陶酔していた。馬鹿みたいに師匠師匠と崇め、ついて回り、教えを乞うていた。全然違う。

「先に伝えておいても、問題ないコでしょ。うーくんは、聡明だし」

「俺はバカだから学校に行かないんだけど」

「いいや。違うね。賢いから行かないんだ。君は学校の価値を分かっている。教育なんざ、師匠から受けていたからいいでしょ」

「それ、大人としてあるまじき発言よ。慎みなさい。太鼓を打つものとして、きちんとした言動をとりなさい」

 おばさんの表情が、急に強張った。毒でも食らったかのような顔だ。いきなり、しゃがみこんだ。と思ったら、唐突に泣き出した。本当に、いきなりだった。ぼろぼろと大粒の涙を流し、「ちくしょう、ゆるせねえ」と、この場にいない先生を罵った。思いがけないおばさんの行動に、俺もあーさんもびっくりである。

「ゆるせねえ、ゆるせねえ。ゆるせねえ」

「まだ、本当かどうかわからないのよ。先生がそんなことするはずないじゃない」

 あーさんの諭した声に、おばさんは、大きく目を見開いた。真っ赤だった顔が、みるみるうちに青くなる。俺が声を掛けようとした瞬間、おばさんはぐっと立ち上がって、投げ捨てたばかりのジャケットを引っ掴んだ。

「気持ち悪い。帰ります」

「ええ、ちょっと⁉」

 おばさんはびっくりするくらい、静かに帰っていった。

「なによ、もう」

 あーさんは、憤慨していた。そりゃいきなりすぎて、意味が分からないだろう。だけど、俺は勘付いた。おばさんは、さっき、自分に絶望したのだ。愛してやまない師匠を、疑いもせず、報道の文面だけ飲み込んで、怒っていた。先生はそんなことするはずない。そんな発想に至らなかった自分に、失望したのだ。

「あーさん。うちのチーム、どうなるの?」

「それを、これから話し合うのよ」

 あーさんは、はあと大きなため息をついた。これから話し合う、と言った割に、この先の未来はもう分かってるような口ぶりだった。

 あーさんも、太鼓がうまい。めちゃめちゃうまいのに、大きな目立つ太鼓は叩かない。いつも、端にある小さな太鼓で音頭を取るリズム隊長だ。それは、ガキの多い小学生の演奏には、重要なポジションだ。ごまかしが効かない太鼓で、テンポを取るのはかなり難しい。気が付けば先走ってしまうのは、俺もみんなもいつものことである。それを音で制するのがあーさんだ。太鼓だけでなく、こうやってチームの取りまとめまでこなしている。「仕事をしながらここまでできるなんて、まじでスーパーウーマンだわ」とおばさんもよく口にしている。

 そんなあーさんに、ずっと聞きたいことがあった。二人きりになれることなんて滅多にない。思いきって聞いてみた。

「おっきな太鼓、叩きたくなんないの?」

「叩いてるじゃない?」

 曲の中には、順番に同じ太鼓を流れるように叩く演目もある。あーさんはそのことを言っているのだろう。でも、俺が言いたいのはそういうことじゃない、と首を振った。次に目を合わせたとき、あーさんは、ひどくオトナな目つきをしていた。はぐらかされた、と気づいた時、瞬時に気付けなかった自分のガキさを痛感した。あーさんはふふふと笑った。

「若いコが大きな太鼓を打つのが一番よ。情熱がある分、迫力がある」

「でも下手じゃん。みんな」

 俺の言葉に、あーさんはぷっと吹き出した。

「うーくん辛辣ねぇ……。やる気がないのに、よく見てること」

「事実だろ?」

 あーさんは、否定しなかった。自分がうまければうまいほど、苛立つものじゃないのだろうか? 事実、俺は苛立っている。自分の出す音に。こんなんじゃない、もっとちゃんとした音が出したい。イライラする。下手なくせに楽しげにぽんぽこ叩く、小学生やおばさんのことが嫌いだった。おばさんの方が、俺よりも太鼓歴が長いので、人のことを言えないのだが。

「うまいもへたも関係ないのがうちのチームよ。それがわからないのならまだまだね」

 あーさんは茶目っけに笑った。でも、次の瞬間、ふっと瞼を閉じた。

「でも、もう続けられないかもしれないわね。この影響は大きいわよ」

「……あーさんは、太鼓続ける?」

 あーさんは、もともと潮目温泉協会の前の会長に習っていたと聞いた。現会長は太鼓を叩く人ではない。俺らの太鼓メンバーと折り合いが悪いのも知っているし、先生とあーさんに『さけ太鼓』の全てを投げていたのも知っている。

「続けるさね。先生がいてもいなくても、太鼓は叩ける」

 さすがはあーさんだ。

「でもあの子や、小学生たちは違う。先生がいたから太鼓をやっていた。うーくんもでしょ? 違う?」

「違わない。俺は先生をきっかけに太鼓を始めた。でも、先生がいなくなっても太鼓を続ける、と思う。先生がいてもいなくても、ね」

 俺の引用に、あーさんは薄く笑った。ゆっくりと日が傾いている。空がオレンジ色に染まるのも時間の問題だろう。学校も終わる時間だ。みんなが集まってくるかもしれない。俺は早めにこの話題を切ることにした。

「理想は先生の音色だけど、俺が出したいのは俺の芯の音だから」

「へえ。うーくんて、本当に大人ねえ。もしかしたら、高校生たちより、太鼓のこと分かってるんじゃないの?」

「へへへ」

 テキトーに笑ってごまかしたら、どたどたと騒がしい音がした。靴の音色的に、女物のローファー。つまり、選択肢は二人に絞られた。と、ここで、緑色のチェックスカートが見えた。来たのはハズレの方だった。

「あーーーーーーーーーーー! またここにいた!」

 キンキンと響く声で海老名が乗り込んできた。腰に手を当てて、俺へ罵声を浴びせる。

「信じらんない! 明日から期末テストあるの分かってる? このまま試験を受けずに、追試も受けずに、ってきたら、中学生なのに留年するかもしれないわよ⁉ いいの? よくないでしょ⁉ なんでこんなところで一日中油売ってるの!」

「お前には油が必要ないわな。顔、テカテカだし」

「うっさい!」

 海老名の必殺脳天チョップ。俺の脳髄に大ダメージが入った。床に転げて、ぐらぐらと揺れる頭を押さえる。助けを求めるためにあーさんの方を向いてみたが、そっぽを向かれた。今のは俺が悪いらしい。そうなのか。

「私はあんたのために心配してあげてんの。このままだったらロクな大人にならないわよ」

「ロクじゃない大人って、お前分かるのかよ」

 海老名の顔がぐっと怯んだ。俺がいじめっこになったようで気分が悪い。気まずくて視線を下げる。うっかりスカートの中が見えてしまった。あ、ピンク。思った瞬間、鳩尾に激痛が走った。

「いってえええ」

俺の目線に気付いた海老名が、すかさず俺の脇腹にかかと落としをした。そう気づいたのは、しばらく転げまわった後だった。今度こそあーさんに助けを求めたかったが、さっきと同じようにそっぽを向かれたままだった。確かに、今のは俺が悪かった。股間でなくて良かった。当たっていたら、再起不能だったに違いない。

海老名は、何かと俺の世話を焼きたがる。小学校の時は、常におどおどとしていた印象だったが、いつの頃からか随分たくましく、いや、たくましすぎるレディへと成長していた。この前は、小学校と同じノリのまま中学に上がってしまったガキ大将を泣かしてしまったらしい。「何言ったんだよ?」と聞いたが、海老名は優しく微笑んだだけで、何も答えてくれなかった。それがなおのこと怖さを助長させる。

小中が同じだったとは言え、俺と海老名が話すことはあんまりなかった。遊んでいたグループがまず違ったし、絡むような似たタイプではなかった。大人しい海老名と、活発な俺。それが今では逆転している。海老名はどんな人にも気を配るような姉御肌になっていき、一方の俺は一匹狼を気取りすぎて一人きりだ。今では、メンバーがいるから一人ではないのだが。

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