第2話 私

 師匠が逮捕された。

 寝耳に水と言うべきか、青天の霹靂と言うべきか。とにかく、私は今日、たった今、師匠を失ったのである。

 吐き気がした。悪い夢でも見ているのではないかと思った。その気持ちは絶望と呼んでもいいものなのか。判断できない。昨日まで楽しくバチを握っていたその手を、開いたり閉じたりしてみる。やけに血色の悪い手の甲だった。

 私は師匠を失った。

 太鼓の師であり、人生の師でもあった、その人を失くしたのだった。

          


『話し合うべきことがあります。本日、いつもの時間に集合してください』

 号令を掛けたのは、副リーダーのあーさんこと、蟻早さんだった。この世界ではかなりのベテランだ。私はまだうまくないので、いつも蟻早さんに太鼓の調整を頼んでいる。丁寧に音を聞いて、置くべき場所に太鼓をセットする。

とんとんとん……

静かに打ち、調律する。場所によって、微妙に音が違う、ということはわかるのだが、その先の、どう置けばいいのか、がさっぱり分からないのだ。この調律は、高校生のいっくんこと、猪野くんもできる。なんだか、負けた気がして仕方がない。そもそも、やっている年季が違うのだ。張り合うほうがおかしい。でも、悔しいので負けじと張り合ってバチを握っていた。

『なにかあったんですか?』

 すぐに、蟻早さんへメッセージを送った。

『夕刊』

 帰ってきたのは、それだけだった。私はそっと自分の机から離れて、職場に届いたばかりの夕刊を広げた。いつもはさらっと目を通すだけの地域欄を探す。

【強制わいせつの容疑で塩北市潮目温泉×丁目に住む七十五歳の男を逮捕】

 その住所は、まさしく、うちの師匠宅だった。

 師匠の家は、大きな一軒家だ。何度もお邪魔したことがある。広い畳の部屋で、ゴロゴロしたり、バチを握ったりしていたものだ。庭には、師匠の奥さんが育てた、たくさんの花で溢れかえっていた。花の知識に明るくない私に、これはミズヒキ、これはシュウカイドウ、と根気強く教えてくれた。だけど、ちっとも身につかなかった。単に、興味が無かったからである。とっても惜しいことをした、と今更思う。今更だ。

【男は太鼓家であり、被害者は太鼓の教え子と見られる。】

 太鼓家って何?

 記事を三回読んだが、頭に入ってくる文章は同じだった。真っ先に覚えたのは、激しい怒り。許さない。許されない。私は師匠を許しておけない。殺気にも近い空気を纏って顔を上げた。周囲にいた人間が、驚き、仰け反る。それほどまでに、私は恐ろしい顔をしていたのだろう。殺す。師匠をこの手で、殺す。

「すみません。体調が優れないので、早退させてください」

 上司からの許可が出る前に、私は荷物をまとめてオフィスを飛び出した。

 そのあとの記憶があいまいだ。よくもまあ、事故せず会館にたどり着けたことだ。猛スピードで車を飛ばしていたことは、間違いない。もし、人を轢いていても罪の意識はなかっただろう。師匠と同じタイミングで留置場に入ることができるのなら、本望だった。

 そんな危険思想を抱いたまま、私は会館のドアを開けた。がらんと広い空間に、茶色いフローリングが見える。収納棚を開ければ、イベント用のパイプ椅子や、私たちの相棒である太鼓などが、姿を見せる。今は、フロアには何も出ていなかった。

 ただ一人、寝転がっている男の子がいた。中学生のうーくんこと、牛沢くんだ。「どうにもこうにも学校に行きたくない。なおかつ人にも会いたくない。そんな気分の時は、うちにいらっしゃい」師匠は、頻繁にうーくんを、自宅に招いていた。それでも、足が遠のきかけた時期があり、師匠は特別にこの会館の鍵を渡してあげた。それからというもの、うーくんは、学校で過ごす時間よりも、この会館で過ごす時間の方が増えた。

「うっかり海に呼ばれるなんてことになったら、大変だからね」

 うーくんがいない時、師匠はポツリと口にした。海辺でふらふらされるより、建物の中にいてくれるほうがいいと判断したのだろう。だからって公共の場所を、いち中学生に貸すのはどうなのか。苦言を呈したメンバーもいたが、師匠は温和な笑みを浮かべるだけ。

 そんな、師匠だったのだ。

「あれ、おばさん。もう仕事終わったの?」

 うーくんは、上半身だけ起こして、私を捉えた。おばさんじゃないわよ、と言い返してやりたいところだ。が、いちゃもんを付ければ、余計におばさんっぽく見えるだろう。そう思って黙っていれば。

「おばさんがおばさんって言われて否定しないのは、立派なおばさんになったって証拠だってさ」

 殴ってやろうかこのクソガキ。思わず口に出そうだったが、寸でのところで飲み込んだ。きっとうーくんの前で百面相をしていたのだろう。「やっぱりおばさんと話すのが一番おもしれーや」とケタケタ笑う。……ウケを取れたのなら、良いとしよう。

「うーくんは、またサボり? だめだよ。義務教育ぐらいはきちんと学んでおかないと」

「それは大人側の言い分でしょ? 大人には、子供に教育を受けさせる義務がある。だけど俺たち子どもにあるのは教育を受ける権利だ。権利を放棄することは、なんら問題じゃないだろ?」

 うーくんの減らず口は、今日も天下一品だ。私は大きなため息を吐いた。

 うーくんは、決していじめられて不登校になったわけではない。同級生でクラスメイトのえっちゃんこと、海老名はそう言う。なんか、徐々に来なくなった。何かきっかけがあったわけじゃない、と。だけど、私は違うと思っている。きっと、この少年牛沢には、人生を揺るがす、何かの瞬間があったのだ。学校を行かないでもいいや。そう思うようになった、きっかけが。

 私も師匠と出会い、運命が変わった。そう思っていた。そう信じていた。でも今、それはとんだ思い上がりだった。

 じっと黙りこんだ私に、「困らせて悪かったよ」うーくんは素直に謝った。再び、寝転がる。私もパンプスを放り投げて、同じように寝転がった。

「練習の時間はまだでしょ? 仕事は?」

「大人には勤労の義務があるけど、職業を選ぶ権利もあるのよ」

「おばさんのはただの職務放棄だろ。俺と違って」

「こら」

 口が悪い少年を、ストッキングをまとった足で軽く突いた。いつの間にか伝線している。もう寿命だ。

少年はくすくす笑った。そうやって、もっと年相応に笑ってほしい。この子は、いつもどこか儚げだ。ここじゃない自分の居場所を求めて、彷徨っている。まだ、この町から簡単に出られない年だから、余計に辛そうだ。もう少し大人になって、いろんな街に行って。いろんな地域を見て。いろんな国を回って。そうすれば、もっと息がしやすくなることを、この少年はまだ知らない。教えてあげてもいいけど、師匠も、私も、看過している。まだ切羽詰まっているわけじゃない。その息苦しさも、立派な成長の糧となる。結局、まとめてしまえば、甘酸っぱい思春期真っ盛りなのだ。うーくんは。

「いいなあ大人は。自由で」

「うーくんは、いつだって自由にしてるじゃない」

 ミーンミンミンミン……

 遠くで、蝉の鳴き声が聞こえる。急に夏らしさを覚え、くらくらと眩暈がした。

「でさ、ほんとに。なんで来たの?」

 なんて答えればいいのだろう。再び黙りこんでしまう。言葉を慎重に選んでいると、コツコツと小刻みなリズムの良い音が響いた。間違いない、あーさんだ。

 足音の主が分かったのと、建物の扉が開けられたのは、同時だった。オレンジ色のセパレート着物に、紺色の前掛け。『碧楼閣』の制服だ。私と同じように、勤務先から直接来たようだ。寝転がっている私たちを見るなり、険しい顔から一転、呆れ果てた顔へ変化した。

「うっす。あーさんも早いね」

 うーくんは、よっこいせ、と体を起こした。一応の礼儀はあるらしい。私の行動はもっと早かった。颯爽と蟻早さんの肩を掴み、揺らした。

「ねえ、どういうことなんですか? ねえ!」

「どうゆうことって……何の話?」

 うーくんは、私と蟻早さんの顔を交互に見る。答えてあげたいけど、それどころではない。真相追及に忙しい。蟻早さんは「子供の前でする話ではないでしょ」と冷静に言い捨てた。仕方なしに、私は腕を降ろす。

「……子供たちの前でも、言うべきでしょう」

 うちのチームは、小学生から大学生、そして社会人とさまざまなメンバーがいる。変わり者の集まりだが、この街からはあたたかく見守られていた。先生も、太鼓連盟からも信頼されていた。それだけの地位にいたのに、なのに。

 思わず涙を浮かべてしまった。弟子としても、女性としても、師匠のしたことが許せなかった。そんな私を前にしても、あーさんは、鉄壁の表情を崩さない。これぞ、副リーダーたる所以だ。私は、そこまでの冷静さを持ち合わせていないし、私自身には必要ない。まだ、若気の至り、の表現でなんでも許されると思っている、甘ったれた子供に過ぎない。

「全員が揃ったら、話しましょう。おーちゃんは来られないみたいだけど、仕方ないわね」

おーちゃんこと、鴻さん。唯一、島出身の高校生だ。高校は本州にしかないため、寮住まいだ。しかし、ちょうど一昨日から、身内の不幸で島に戻っている。タイミングがいいのか悪いのかわからない。おまけに、今日は高潮で船が出ていないと聞いていた。

太鼓に一生懸命な子である。いつだって表情はクール。だけど、分厚い黒ぶち眼鏡の奥の瞳を爛々と輝かせて、太鼓を叩くのだ。その情熱は、メンバー随一だ。もちろん、私の次にだけど。

「なんで揃うまで待つんだよ。教えろよ」

 あーさんから無理やり訊くことは出来ないと判断したらしいうーくんは、ターゲットを私に絞った。

「なんなんだよ? なあ?」

あまりにもしつこいので、私はとうとう白状した。

「先生が、逮捕された」

「は?」

 私はうーくんの真正面に立ち、もう一度告げた。

「先生が、逮捕された。もうこのチームはダメかもしれない」

 チーム『さけ太鼓』は、今、最大のピンチを迎えていた。


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