邏
53の3(ゴミノミ)
第1話 その日
まだ何も知らなかったのだ。
綺麗な星が見える、いい夜空だった。車を一時間ほど走らせれば、ダムの近くに天文台がある。そこに行けば、もっと綺麗に見えるのかもしれない。この街に来てもう三年半が過ぎた。あっという間だ。学生時代は、まさかこんな見知らぬ土地に住むなんて、考えてもみなかった。ふぅと息を吐いて、私はいつも通り定時に職場を出た。
ただの会社の事務員。このご時世に、フルタイムの事務仕事に就けたのはラッキーだった。彼氏を追いかけ、思いきってこの地に来てみたが、案外心地よくて気に入っている。雪国の名に相応しく、冬にはどかどかと雪が降る。生まれて社会に出るまで、ずっと雪が全く降らない地元にいた私。積もる雪を見るたびに、きゃあきゃあと駆けまわった。「まるで童話の犬だな」と苦笑していた彼氏は、もう隣にいない。彼氏と人生を歩むためにこの地に来たのに、すんなりと別れてしまった。原因はこの私にある。彼氏をおざなりにしてまで、優先するものができたからだ。
車にエンジンを掛ける。温泉街へと出発だ。街の中心地から車で十五分。車がないとこの街はやっていけない。
県内最北端。塩北市。有名なものは鮭と酒。そして見渡せる日本海。
その市街地近郊に、その温泉街がある。潮目温泉だ。塩化物泉で、すこしぬるりとした泉質が特徴だ。透明に近い色で、熱めのお湯。何回か体を冷やしながら、ゆっくり浸かるのがおすすめだ。
歴史的な街並みを残す『観光地区』を横切り、スーパーや病院などの地区もスルーする。だだっぴろく拓けた田んぼを抜ければ、目的地はもうそこだ。『いらっしゃいませ 潮目温泉』とアーケードの手前や奥には、もくもくと白い湯煙が上がっている。冬になれば、流雪溝からも湯気が上がる。温泉街の街並み特有の景色だ。
お気に入りの真っ赤なマイカーで、ゆるゆると坂道を上がり、下っていく。目的地の『せせらぎ荘』は、温泉街の中心地からやや外れた大通り沿いにある。潮目温泉の最も有名な旅館の一つに挙げられる『碧楼閣』のご立派な建物の陰に隠れるように、『せせらぎ荘』はひっそりと佇んでいる。
日帰り入浴の料金は大人五百円子供三百円。その格安さに、市内各地から入りにくる人は少なくない。ちなみに、年パスは一万円。常連の私のお風呂セットは、ずっと車に積まれてある。
潮目温泉の中心部には、観光客用の駐車場と、大きな広場、そして観光案内所が設置されている。その向かいには足湯がある。案内所で売っている温泉卵用玉子も好評だと言う。マーケティングの勝利だ。
そしてその足湯の後ろにそびえ立つのは、古い洋館である。壁が煤けており、一見すると廃墟のようだが、中はリフォームされておりピカピカだ。通称『会館』。私たちの本拠地だ。後で寄ることとなるが、一先ずお風呂だ。駐車場には、かなりの数の車が停まっている。今日も大盛況だ。きょろきょろと辺りを見回すが、常連中の常連、あーさんの車は見つからなかった。
建物の後ろには、『さざなみ荘』の湯本がある鉄塔がそびえ立つ。山の中腹にあるため、その姿は『碧楼閣』よりも高く見える。オレンジ色の光に照らされた『さざなみ荘』の看板。古くからその姿を変えない、潮目温泉の中でもおじいちゃん的存在だ。
いつものように受付を済ませて、長い階段を上っていく。エレベーターもあるが、二十代半ばなんだから、と自分を叱咤する。えっちらおっちら昇れば、その途中で「あ」と声を掛けられた。ブレザーをだらしなく着こなしている、いっくんだ。風呂上がりで、髪は若干水気を帯びている。
「おばさんじゃん。これから風呂?」
まだ二十代なのに、おばさんとは心外である。いつも訂正しているが、中高校生から見れば社会人の私は、立派なおばさんに間違いない。悔しいけど。
「見れば分かるでしょ?」
「この後は? 自主トレ?」
今日は木曜日。太鼓の練習はない。そんな日でも、太鼓と向き合う。触っていないと落ち着かない。昨日触ったばかりだが、寝て起きれば、もうそわそわとしてしまう。太鼓を打ちたくて仕方がない。
「相変わらず、キチガイじみてんね。先生とどっこいだよ」
「いっくんに負けたくないからね」
そう言うと、いっくんの目の色が変わった。いっくんは、我らがチーム『さけ太鼓』の要である。どこまでも正確な三つ打ちは、太鼓歴数十年のベテランあーさんと引けを取らない。昔から習っていると言うが、そのリズム感は、才能だ。
「じゃ、先に打ってようかな~」
頭の後ろで手を組んで、いっくんはスタスタと降りていく。やばい。早く打たなきゃ、焦りが募るが、仕事帰りで汗臭いままは嫌だった。ちなみに、太鼓を叩いてもまた汗を掻くので、『さざなみ荘』のお風呂に二度入ることもある。
「今日生徒会はないの?」
いっくんは、めんどくさそうに振り返る。
「ない!」
距離が開いているので、自然と会話の声が大きくなる。
チャラさを前面に出しているいっくんだが、こう見えても真面目くんだ。生徒会にも入っているし、学校の勉強も頑張っているらしい。東京の大学に行くのだと言っていた。
「会長がいねーから無しになった」
もう一人のメンツも、会長がいないとやる気ださねーんだ。肩を竦めて、今度こそいっくんは下へと降りて行った。私も再び前を向く。赤い絨毯に敷かれた階段はまだ半分だ。私は急いで駆け出した。
階段の一番上は、三手に分かれている。左が女湯、右が男湯、まっすぐ行ったつきあたりが談話室だ。談話室には、主のように同じおじいさんが毎日居座っている。あーさんの旦那さんだ。夕方には連れ立って帰るのが日課である。
「あ、ごめんください」
「ごめんください」
おじいさんは礼儀正しくお辞儀をする。
「あーさんはまだ来ていないみたいですね」
「そうなんさ。何を道草食ってんのか知らねえが、先に帰るさねぇ……」
旦那さんが気の毒そうに見えるが、あーさんもあちこち回っていて忙しいことは私も旦那さんも重々承知だ。『さけ太鼓』の副リーダーとして師匠の右腕を担っているほか、『碧楼閣』のベテラン仲居としても働いている。『さけ太鼓』としても『碧楼閣』としても無くてはならない存在なのだ。
ゆったりとした動作でエレベーターに乗り込む旦那さんを見送り、私は女湯の暖簾をくぐる。「こんばんは」は、常連の挨拶だ。軽く世間話を交わして、浴場のドアを開ける。『さざなみ荘』のお風呂は、日によって熱さが違う。「熱い」又は、「めっちゃ熱い」かのどっちかだ。今日は「めっちゃ熱い」日だった。これは二度目のお風呂は断念しなければならない。熱すぎて、掛湯の手の手を止める私。常連のおばちゃんたちは「熱すぎなんさねえ」カラカラと爽やかに笑う。結局、烏の行水でお風呂を出た。靴を履き替えていると、『さざなみ荘』の支配人さんと、『碧楼閣』の制服を着たお姉さんの会話が聞こえてくる。よく見る顔だ。
「今日は蟻早さんがいなくて大変だったんすよぉ~」
「大変ですねえ」
会話に耳を傾けながら、私は『さざなみ荘』を後にした。
車は停めさせてもらったまま、会館へ向かう。
ドコドン、ドコドン
焦がれていた太鼓の音。私はパンプスをつっかけたまま、小走りで向かう。入り口にでは、サラサラと笹が揺れていた。そうか、今日は七夕だった。本当に笹を持ってくる、遊び心がある人間は一人。うちの師匠の仕業に違いない。ふふ、と頬を緩ませてしまう。太鼓一筋の癖に、変なところが子供っぽい。そういうところも含めて私は師匠が好きだった。
「こんばんは」
重い扉を開ければ、もわっと熱気が頬を掠める。素肌に刺さるのは、太鼓の音だ。ビリビリと痛いほど伝わる熱気は、気温の暑さだけでない。これこれ。私はさっさと靴を脱いで、フローリングへ上がった。
「おっす、おばさん~」
ごろんと寝転んだまま迎えてくれたのは、中学校に行かない不登校児のうーくんだ。「はしたないからやめて」と、うーくんを足蹴にしているのが、えっちゃんだ。その手には白いバチが握られている。
広いフロアで叩いているのは、さっき会った、いっくんだ。飽きもせず、単調なリズムを刻む。右左右、それでワンセットだ。すべての基本となる三つ打ち。これをマスターするのが、太鼓初心者の目標だ。まず、バチの持ち方に難儀する。面に当てる瞬間に、主に小指を使って握りしめるのだが、これが難しい。そして次に、左右で音の大きさが違うという壁にぶち当たる。当然、利き手の右腕がよく動くので、大きくなってしまう。じゃあ、左に合わせて右の音を絞ればいいのではないかと思うが、それではだめなのだと師匠は言う。右と同じ音量が出せるまで、左手の練習をしろ。初めての師匠の指導は、つっけんどんなものだった。「ほかのもんはちっこい時から太鼓に触れてんだ。追いつきたければやれ」師匠は手厳しかった。そう言われたら、永遠に三つ打ちの練習をするしかない。最近、やっと克服できたような気がする。
太鼓の音が止んだ。いっくんが場所を退けると、とことこっと太鼓に駆け寄るえっちゃん。「ここ教えて!」ばんと譜面を開いて、うーくんにねだる。「いっくんに聞けよ」と言いつつ、うーくんも自分のバチを取り出した。やる気満々だ。
私は、そっと二人の元を離れる。汗を拭いているいっくんに、水を差し出す。
「気が利くじゃん、おばさん」
「おばさんはやめなさいよね。今日、おーちゃんは?」
おーちゃんは、いつもいっくんと一緒にいる女の子だ。同じ高校で生徒会長を務めているしっかり者。二人とも『さけ太鼓』のメンバーとして小学生の時から活動している。おーちゃんはダイナミックな太鼓が得意で、大打ち、いわゆるソロ演奏をよく任されている。あんな風に打てたら、どれほど気持ちがいいことか。羨ましく思う反面、勝手にライバル視もしている。負けたくない。
「おーちゃんは島に帰った。ばーちゃんの調子悪いんだってさ」
「あっら、じゃあつまんないわね」
「んなことねーし。あのうるせーのがいないから気ままでいいぜ」
口ではそんなこと言っているが、手持ち無沙汰にバチを持て余している。いっくんの三つ打ちとおーちゃんの大打ちは二つでセットだ。やっと初心者を抜けられそうなうーくんと、ばりばり初心者のえっちゃんとでは、実力不足だろう。かといって、師匠やあーさんじゃ役不足だ。ちなみに、私は前者だ。
ドコドン、ドコドン
えっちゃんの三つ打ちの練習が始まった。時々、リズムが狂う。その度に、いっくんはわずかに眉をひそめるが、何も言わない。下手くそ! となじりたいのだろうが、我慢している。「自由にやらせろ、手出しはするな」これも師匠の教えだ。よく仕込まれている。
木曜日は、師匠は絶対に会館に顔を出さない。週に一度のこの曜日だけは、太鼓に触れないと決めているらしい。「適度な距離感って大事だろ?」ビールを飲むように、缶ジュースを煽りながら言う師匠の言葉は、よく分からない。私たちは躾けられた犬のように、師匠の言うことを聞くしかない。そうすれば、上手くなる。そう知っているからこそ。何も考えず、直向きに。自分の生き方を信じて。
「太鼓は人生の写し鏡だ。音色に、そいつの人生が乗る。人様に届けられる音色を出せ。胸を張れる生き方をしろ」
太鼓を叩くためだけに、まっすぐ姿勢を伸ばして。どっしり胸を張って生きてきた師匠。
「一万人の前で叩くぞ。お前らの音色を、全国に響かせるんだ」
その言葉が口癖だった。
その言葉を信じて、私たち『さけ太鼓』は突き進んでいったのだ。
一通り練習を終えた私たちは、会館を後にする。結局、今日は私たち四人しか集まらなかった。自主練日だから、そんなものだ。会館の鍵を持っているうーくんが、最後に施錠する。高校生のいっくんはおいといて、まだ中学生のうーくんとえっちゃんを送っていくのは私の役目だ。
「さーさーのは、さーらさらー」
車を取りに行っている間に、えっちゃんとうーくんは、笹を見ながら歌っていた。私が戻るまで待ってくれていたのだろう。いっくんは紳士よろしく、二人を見守っていた。
「折角だし、お願いごとしていこうか」
短冊の代わりに、いっくんはルーズリーフの切れ端を配った。
『太鼓がうまくなりますように』
『全国大会がうまく行きますように』
『たくさんお祭りで叩けますように』
『みんなが幸せになりますように』
涼しい風に晒されて、ペラペラな紙は今にでもどこかへ飛んでいきそうだった。
それでも真剣に、私たちは笹と星空に願ったのだ。
『さけ太鼓』の繁栄と、己の技術の精進を。
そんな願いは、約一か月後、打ち砕かれることとなる。
それも、師匠の手によって。
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