夜とロボット

 中学校の運動会の途中、そこにいることが耐えられなくなって、いなくなったことを示すために自分の椅子を倒して抜け出した。行くあてはなかった。一人きりになれる場所なんてない、狭い港町だった。家に帰るしかない。なぜ運動会を抜け出してきたのか家族に聞かれるだろう。そんなものは分からない。知らない。嫌いな肌触りの服をずっと着せられていたことに突然気付いたみたいに、体と頭の中がむずむずした違和感でいっぱいになって抜け出すしかなくなかった。あんな場所にいることなんてできない。

 家に着くと居間に祖母がいた。

「あれ、運動会はどうしたの」

「分かんない。帰ってきた」

「体調でも悪いのか?」

「悪くない」

 居間の隣の部屋にある仏間で服を着替え、二階の自分の部屋へと向かう。何もする気が起きず電源の入っていないテレビの画面を眺める。祖母に話を聞いた母が部屋にやってくる。

「どうしたの?何か嫌なことでもあったの?」

「何もない」

「じゃあ運動会出なきゃダメでしょ」

 返す言葉はない。とにかくあんな場所にいることはできない。その後も母は何があったのかしつこく聞いてきたが、何もないと答えるしかできなかった。結局母が諦めて、学校に息子が抜け出したことを連絡した。




 夜の十二時、日付が変わると急に部屋が静まって一人きりになれる。心なのか部屋なのか、ここに誰も入ってこれない気がしてようやく落ち着くことができる時間帯。

 僕は将来、研究をしてロボットを作りたい。そのロボットは完璧で、人間がやってる仕事を代わりにこなす。大人が嫌々やってる仕事をロボットが代わりにこなしたとき、大人はどれだけ困った顔をするだろうか。これだけしんどい世界に僕を生み出しておいて、さらには大人はやりたくないと言いながら仕事をしている。ほんとうは仕事がなくなったらやることなんかないくせに。ロボットを作るのはよいことで、仕事をなくして便利にするのもよいことで、だから大人の仕事がなくなってみんな困ってうろたえるのもよいことなのだ。嫌だと言っていた仕事がなくなって、どこかぎこちない顔をして僕に感謝する大人を見るのが楽しみだ。


 学校はつまらない。馬鹿の先生と馬鹿の生徒がいるだけだ。覚えておく必要のあることなんてないし、感動してもくだらない。成績は悪い。ビデオゲームをすることだけが意味のあることに思えた。


 高校に進学したら馬鹿の生徒は減った。僕の成績は悪かったが地域で一番の進学校に入ることができた。といっても地域全体が馬鹿の地域だったから、進学校というのは自称だった。学校がつまらないというのは変わらなかった。あいもかわらずビデオゲームに夢中だ。


 ある時、テレビの番組表にジャズという単語を見つけた。ジャズとは何のことなのか。音楽なんだろうがよく知らなかった。試しに録画して後から見てみると、色々な演奏者がいろいろな音楽を演奏していた。マッコイタイナーというピアニストがバンド演奏しているのが耳に残った。何を演奏しているのかさっぱり分からなかったが、気になって何度も繰り返し聞いた。マッコイタイナーを聴いていると、ここではないどこかに行った気分になって、落ち着くことができた。


 ロボットを作るのは無理だと気が付いた。数学も化学も物理も分からないのにロボットが作れるわけがなかった。親や先生や社会に対してあれだけ抱いていた怒りがどんどんと薄れていって、何とかぼんやり生きる方法を学び始めていた。感情的になっても誰も応えてくれないし、何も解決しないのだ。悪かった成績はさらに悪くなった。


 他の生徒は進学や就職を考え始めていたが、僕は何も興味がなかった。就職はしたくなかったから進学をすることにはしたが、受験勉強をするつもりもない。大学の偏差値が書いてあるポスターが廊下に貼ってあったので、それの一番下に書いてある大学に行くことにした。


 大学に行く直前、地震があって津波が起きた。自宅が流されて何もなくなった。ビデオゲームもなくなって、僕が育てた大切に育てたポケモンは消えた。


 大学生活はそれなりによかった。ジャズ研に入って楽器の練習をした。彼女もできた。相変わらず勉強はできなかった。そのせいで留年をすることになったが、働きたくなかったのでそれよりはましだった。働きたくないので就活はぎりぎりまでしなかったが、最後は諦めて就職することにした。なりたくなかったプログラマーになった。


 僕は東京に出てきて新宿区に住んだ。遠距離だった彼女にふられ、動悸がしたので病院で薬をもらって飲む。

 次の春、出会い系アプリで会った女の人が僕のことを好きみたいだったのでセックスをした。だんだんとその人のことが気持ち悪くなって会わないことにした。女性経験がほとんどなかった僕は調子付いて四人と会い、全員と何かしら性的なことをした。五人目にあった女の人を好きになったので付き合うことにした。見た目が好きだったし結婚しようと思っていたけど、すぐに別れてしまった。


 自分がしていることが無意味に思えてきて、深夜の東京を徘徊し始めた。朝四時まで徘徊した後に九時に起きて会社に向かう生活だ。


 思い返せば中学生の頃から僕の行動原理は善か悪かでいうと悪だったし、ずっと無意識にそれを引け目に感じていた。僕を生み出した社会に復讐をしたかったが、復讐をする能力なんてぼくにはなかった。ただただ女の人たちを傷つけたことに僕は苛まされ、せめてこれから出会う人たちは傷つけずにすまそうと、善になる努力を始めた。


 僕はすぐに善になるなんてことが原理的に不可能だと気が付いた。人間は存在そのものがどこかで悪なのだ。僕はこの悪を引き受けながら、苛まされながら生きていくしかないのだ。

 僕には社会を恨み続けて手に入れたひねくれた思考法がある。役に立つロボットを作れば大人たちが困るように、社会の論理を使って社会を困らせることが僕の生きがいになっていた。


 僕のことをおもしがってくれる仲の良い人が二人できた。どちらも自我が暴走していて、欲望が過剰で善も悪も超越しているような人間だった。自我のせいで苦しんでいる僕と同じように、二人も苦しんでいるように見えたが僕とは何かが違った。善なのか悪なのかといったところで踏みとどまっている僕に対して、二人は節制なく物事に突っ込んでいた。二人はそのことで僕とは違う苦しみを抱えているようだったが、僕にとっては爽快だった。どうせ苦しむのなら突っ込んで苦しめばいいし、どうせ傷つけるのなら突っ込んで傷つければいいのだと二人から僕は学んだ(二人はそんなこと思ってないだろうし、反対するだろうけど)。


 僕はずっと夜に逃げ込んで、ひっそりと一人になろうとしている、まるで月だった。そこに太陽が現れて、僕を照らして昼間に連れ出した。太陽は時に熱すぎて苦しくなることもある。しかし、あの太陽が見えるのなら、たとえ見えなかったとしても、僕はこの世界にいてもいいと思えた。数は少ないけれど、実は太陽みたいな人はこの世界にけっこういることが分かった。


 振り返れば僕はこの世界が好きではなかったのだ。この世界にいることも耐えられなかった。実のところ今でも好きではないが、あの気高い太陽みたいな人たちがこの世界にいるのなら、僕も当分はここにいられるだろう。少し気付き始めたが、僕も最近は少し太陽みたいになっている気がする。ロボットはもう作らなくてもいいのだ。




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