第23話 名前のないもの

 まっとうじゃない、と僕は思った。何から何まで間違っている。

 赤坂は赤坂の電話に出るべきだし、そうでなくても美咲か――とにかく誰か話のできる人間に繋がるべきなのだ。僕はそうした人間と話をするべきなのだ。「さよなら」と言って話も聞かず、電話を切ってしまうような人間は必要とされていないのだ。

 僕は地下鉄で二つの駅を過ぎ、地上を走っていた。二日のうちに二度も訪問したおかげで位置は頭に入っていたが、それでも道を間違えるのではないかと不安だった。記念病院、公園、リサイクル専門の自転車屋――頭にある目印のひとつひとつを確認しながら走る。息が切れても足が止まらなかった。足を止めれば後ろから誰かに捕えられるような気がした――お前は呉崎ではない、お前はこの世界にいるべきではない――そう言われたところで、いったい僕に何の反論ができるだろう?確かに僕は呉崎ではない。では、正しい主張はできるだろうか。ところで正しい主張とは何?

 僕は本当に、この世界に生きていたことを証明することができるのだろうか?

 IDカードは使えない。それはすでに確かめたことだ。そこにあったのは確かに僕の写真だ。だがそれは僕の物ではなかった。『呉崎悠平』は僕ではないのだ。

 手がかりがあるとすれば、それは赤坂のところにしかなかった。赤坂、そして中野美咲――あらゆることがおかしくなり始めた最初の地点――僕は中野美咲のことを知っている。だが中野美咲は知らないと言う。夢でも見ていたのではないかと――広大な心の余裕があれば笑えたかもしれない。夢でも見ていたのではないか――なんと現実的な回答だろう。僕は夢を見ていたのかもしれない、別の人間として過ごす長い長い夢を。だが、それが夢であると決めることができるのは誰だろう――僕か?

 同じところを思考が回り続けていた。右足を出すと現実感が身を引き、左足を前に出すと別の現実が地平線の向うから顔を出した――何も分かることはないのだ、と結局のところ結論づけずにはいられなかった。いくつかの現実、いくつかの非現実がかわりばんこに上っては沈む世界のなかで、僕は左右もわからず走り回っているだけだ。だからといって、止まってしまう訳にもいかない。それは僕に残された最後のひとかけらだった――止まってしまわないこと――足こそがすべてだと僕は思った。僕は少なくとも現在において思考をしている。それが僕だ。それが僕が僕であると断言できる唯一のものだった。

 赤坂、と僕は思った――そこにいてほしい。そこで僕に説明してほしい。もう一度舞台の上に上がってきてほしい。

 それだけの責任はあるはずだ。


 最後の目印は古ぼけた肉屋だった。どう好意的に解釈しても優良な精肉店には見えない肉屋だった。土曜の昼間だというのに、店頭には誰も立っていなかった。客も店員も。呼べば奥にいるのかもしれないが、それでは誰もいないのと同じだ。

 ただ肉だけが並んでいた。汚れてかすんだショーケースのなかにずらりと並んだ赤い肉が見えた。ケースがかすんでいるせいで何の肉であるかは分からなかった――ただの肉だ。

 走りすぎた後も、そのイメージは僕の頭にこびりついていた。


 アパートは存在していた。何の変哲もない『無個性』というお題で建てられたみたいに無個性的な建物。僕はその無個性的な柱の一本に手をついてそのまま二分か三分息を整えた。顎の先、鼻の先、顔に存在するあらゆる突起から滴った汗が、アスファルトの上にちいさなシミを作る。身体の中で鍋が沸騰しているみたいだった。次から次へと滴がしたたり落ちた。よくもまあこんなにたくさんの水が絞り出せるものだと我ながら感心してしまう。それも僕の意思ではない。では、僕の汗を僕の血管の中から搾り取るものは一体何か――僕はしばらく学校で習ったはずの知識を思いだそうとしてみたが、思考はちっともまとまらなかった。汗を絞り出すものは何だ?僕には分からなかった。僕には分からないことが、この世界には多すぎる。

 汗と呼吸が落ち着くのを待って、二階の赤坂の部屋に向け僕は階段を上り始めた。二階には五つの扉が並んでいた。目指す扉はその一番奥にあった。一歩一歩、ゆっくりと歩く、宣告を先延ばしにしているみたいだ、と思った。

 何の宣告?これから僕はどうなり、どうなることを望んでいる?

 まずドアの脇のインターホンを押した――間延びした保母の声のようなチャイムの音が扉ごしに聞こえた。しばらく待ったが反応は無かった。もう一度押してみる。今度は間を置いて二度、それからすばやく三度。ピンポン・ピンポン。ピンポンピンポンピンポン――ドラマみたいだな、と思った。半開きになったドアの向うにはランニングの黒いシャツを着た若い男。僕は左手の警察手帳をさっと突きだしこう言うのだ――「殺された中野美咲さんのことで」――どうして美咲が殺されるなどということを考えるのだろう。たぶん、こういう場面に似つかわしい被害者というのが女性であるからだ。イメージは本当ではない。だが今の僕の置かれている状況よりはいくぶん現実的であるように思えた。現実より現実的であるイメージは現実と見分けがつかない。その正否が確かめられない限りにおいてイメージには無視できない実感めいたものが付きまとう。

 だがここはドラマの世界ではない。イメージは努力して葬られるべきだ。中野美咲は殺されていないし、僕は刑事ではない。突きつけられるものも何も持っていない。あるのは同じところを回り続けている思考と、それを収める器としての身体だけだ。

 赤坂は現れなかった。僕は鋭くドアを二度ノックした。コン・コン。何も聞こえない。息をひそめている気配もない。眠っているのだろうか。コン・コン――

 止まっていた汗が再び顔を濡らしていた。僕は右手で額をぬぐい、左手でドンドンと扉を叩いた。繰り返し扉を叩く。赤坂、と僕は怒鳴った。自分で思っていたよりも大きな声が出たが、それを止めることはできなかった。坂道を転がり落ちるみたいに声が出ていた。赤坂、と僕はもう一度叫んだ。そして頭を強くドアに打ち付けた。

 鍵が開く音が聞こえた。しかしドアは開かなかった。代わりにすぐ近くで誰かが言った。

「そこの人なら、引っ越したよ」

 僕は頭をドアにくっつけたまま声の方を見た。スヌーピーのTシャツを着た太った男が隣のドアから顔を覗かせていた。「大学生くらいの子でしょ。引っ越したよ」

「どこに」と僕は言った。

「知らないよ、話したこともなかったし。先月の終りくらいだから、二週間前かな」と彼は言った。「とにかくあんまうるさい音たてないで。ここには人が住んでるんだから」

 男は大きな音を立ててドアを閉めた。人に文句を言うのに慣れていないみたいだった。言いたいことだけを早口で言って、逃げるように退散してしまう――100対0で悪いのは僕だった。僕はどうかしている、と僕は言った。滑らかに言葉が出てきた。赤坂、と叫んだおかげで喉の奥のつかえがとれたみたいだった。それでも出てくる言葉には何の意味もなかった。地面を見て地球と呟くようなものだ。

「引っ越した」と僕は言った。「いったいどこに」

 分からない。

「いったいどうして」

 分からない――分かりようもない。僕は命綱を失ってビルの百階に取り残されたのだ。最も簡単なのはそこから飛び降りてしまうことだったが、どこに出口があるのかさえも分からなかった。それからしばらくして分かったことが一つあった。

 電力量メーターが止まっていた。

 どこかで何かの音が鳴った。音の情報を処理するのは側頭葉だったな、と僕は思った。妙な連想だ。音が鳴ったら、それが何の音であるのか、どこから聞こえるのかということを真っ先に考えなければいけない。それは動物としての人間に備わった危機回避のためのシステムなのだから。

 そこまで考えて、僕はようやく聞こえている音がスマートフォンの着信音であることに気づいた。そしてそれは僕の右の太腿から聞こえていた。

 ポケットのなかの、電話が、鳴っている。

 僕は電話に出た。「もしもし?」

「今は何時?」と相手は言った。

「さあ、自信がない」と僕は言った。「十一時、とかそのあたりかな」

 自信がないと僕は繰り返した。時間は現在の僕が最も苦手にしている分野の一つだった。

「十一時二十分」と相手は言った。「それが何を意味するか分かってないの?私、これでもかなり怒ってるんだけど」

「怒ってる?」

「どれだけ人を待たせるのって言ってるの。あなたいったいどこにいるの?」

 僕は答えなかった。これはひょっとしたら、かすかな成長のあかしであると言えるかもしれない。どこ、という質問に対して僕が抱いた疑問は『誰?』だった。相手は誰だ?女の声、そして僕に怒っている。

 僕はスマートフォンを耳から離し、画面を見た。『向日なつめ』という表示がそこにあった――人間は進歩するのだ。スマートフォンに相手の番号と名前が表示されることを、学ぶことができるのだ。

「何か言ってよ」となつめは言った。

「助けてくれ」と僕は言った。

 そんなことを言うつもりはなかったのだが、だったら何と言うつもりだったのかと訊かれても、答えようがない。つまり何も頭には浮かんでいなかった。

「は?」となつめは言った。

「助けてほしいんだ」と僕は言った。「もうめちゃくちゃだ、どうしてこんなことになっているのか分からない」

 なつめは考えるような間をおいて「今どこにいるの?」と言った。

 同じ言葉でも、語調は先程といくらか違っていた。

「赤坂の部屋の前にいる」

 しばらく返事がなかった。「どうして」となつめは言った。

「今すぐ会いたい。君はどこにいるんだ?すぐそっちに行ってもいいかな」

「もともとそういう約束だったんでしょうが。ねえ、しっかりしてよ。まさか記憶がないなんて言い出さないわよね?」

「そこまで分かってるなら話は早い。五月二十三日から今朝目が覚めるまでの記憶がぜんぜんない。何にも覚えていない。それで僕は赤坂に電話を……」

 滅茶苦茶な事を言っていると気づいて、僕はすぐに言葉を控えたが、なつめははっきりとした声で「とにかくすぐに来て」、そう言った。

「私はフロールのミスタードーナツにいるから」

「ミスタードーナツ?」

「悪い?私、ゴールデンチョコレートを食べるわ。一四○円くらいだと思うから、よろしく。さよなら」

 電話が切れた。

 僕はしばらくスマートフォンを握ったままぼんやりと突っ立っていた。

 何も考えることはできなかったが、真剣な顔でドーナツを頬張るなつめの姿が心の奥に浮かんでくると、何か暖かいものが、胸の中から自然と生まれ出るのを感じた。

 その感じは少しずつ僕が慣れ親しんだもの、長い時間をかけて培ってきたものへと変わっていった。

 それは名前のないものだった。

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再会 くれさきクン @kuremoka

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