第22話 うつつ

 残念なことに、その機会はかなり長い間訪れなかった。

 その晩の宿は赤坂の世話になり、そして長い夢を見た。筋書きや意義だては効力を持たない、それほどに長い夢だった。

 分母が殆どゼロに近い、長大で果ての無い夢だった。

 目覚めたとき、僕は自分が何者であるか分からなかった。もちろんそれは、一瞬のことではあるが、その長い長い筒を通り抜けたとき、僕は自分が最後に覚えていた自分自身とは別の存在になっていることを直感的に感じとった――そして、一貫した理由づけをすることはできないが――その予感は真実だった。そのことが長大な夢の存在を肯定している。

 長い夢を経て、僕は別人になった。それだけで説明として十分だし、それ以上のことは言いようがない。


 僕は破壊されたはずの部屋のなかにいた。

 僕の部屋はカーテンによって和らげられたしずかな光に満ちていた。カーテン?と僕は思った――僕の部屋にはカーテンがなかったはずだ。それはナメクジに殻がないのと同じくらい、本質的で議論の余地のないことだった。そのことによって僕の部屋は僕の部屋たりえていたのだ。では、カーテンのついたこの部屋は何であるのか?

 僕は暖かな布団のなかでそう考えた。

 快適な、人間的な布団。綿は縮み、羽は抜け、糸はところどころあらぬ方向へ飛び出していた、かつての布団とは雲泥の差である。これほど良質な布団で寝たのは本当に久しぶりだったので、僕の思考は心地よさによって幾らか鈍らされてしまった。

 耳元でスマートフォンが鳴った――僕は薄目を開けて画面に表示された赤いボタンを押した。それでスマートフォンは大人しくなった――停止ボタン。僕の外側が停止し、僕だけがゆるやかな流れのなかをうつろう。ふたたびスマートフォンが鳴った。こんどは三コールほどやりすごし、僕はあきらめてスマートフォンを手に取った。ぼんやりとした視界が捉えたのはふたつのボタンだった。赤いボタンと緑のボタン。それらは僕に選択を迫っていた。

 電話に出るか、無視するか、どちらか選べということだ。

 僕は慌てて電話に出た。「もしもし?」

「もしもし」と相手は言った。そしてまるで僕が面白くない冗談でも言ったみたいにふんと鼻を鳴らした。「まるで、たった今起きたみたいな言い方だな」

 相手が誰なのか分からなかった。

「なあ」と相手は言った。「お前は眠りながらキーボードが打てるのか?」

「?」

「他に、今の今まで眠っていた理由があるのか?」

「……誰?」

「は?」

 しばし沈黙。

「画面を見れば分かる筈だがな」

 スマートフォンの画面を確認し、僕は『久保』の二文字を発見した。

「俺は誰だ?」と久保。

「悪かったよ」と僕。

「他に何か言うことがあるんじゃないのか?」

「おはよう」

「つまらなんことを言うな」、久保は苛立ちを顕わに言った。「どうでもいいことに時間を取らせるな。もう再現は終わったのか?」

「再現?」

 二度、舌打ちの音。「寝ぼけるな、薬理の問題再現だよ。夜のうちに終わらせてデータをこっちに回すって話だっただろう」

「何言ってるんだ?」

「もういいんだよそういうのは。四六時中ヒマなうえ、夜はぐっすり安眠タイプの誰かと違って、俺は忙しいんだ。次の土曜にはライブがあるんだ。だから問題再現なんてものはこの土日のうちにさっさと終わらせちまいたいんだよ、そう言っただろ?お前がとっとと問題を送ってこないことには何も進まないんだよ」

 久保が何を言っているのか分からなかった――なぜそんなことを今、僕に向って言う必要があるのか?

 僕は殆ど何も考えずカレンダーに目をやった。注釈する必要があると思うのだが、これは倒錯の引き起こした条件反射の一種にすぎず、それ以上の意味はどこにもない。カレンダーにはでかでかと7月と書かれていた。下にはご丁寧に文月と添えられていた。

 そして僕の記憶によると、今は五月だった。

 自分の目を疑った。

「聞いてんのか?」と久保が言った。

 僕は何も言わなかった。

「本試のあとには当番の学生が再現問題を作ることになっていて、それを後輩たちに渡していくっていうのがこの学校のくそったれなルールなわけだ。オーライ?どうだ、思いだしたか?」

「なんで今が七月なんだ?」

 オゥ、と久保は悲しそうな声を上げたが、僕はとりあわなかった。

「今は五月のはずだ、そうだろう?」

「新手の五月病かな?」

「からかうなよ」と僕は言った。僕の声はまるで自分の声ではないみたいに聞こえた。別の誰かが、僕の口を動かしているみたいだった。「いいから答えろ」

「答えろも何も、今は七月だよ。五月なら四十日ほど前に終わった。アメリカが合衆国なのと同じくらい議論の余地のないことだ」

 とにかく、と久保。「顔洗って、目を覚ましてきたらどうだ?何度でも言うが俺は忙しいんだ。とにかくとっととデータをまとめてこっちに送れ」

 それからと妙にゆっくりと付け加える。「今日は七月六日だ。そのことに関してなにか反対意見があるなら、健康相談室に駆けこめ。きっと親身になって聞いてくれるだろうよ。じゃあな」

 僕は破壊されたはずの部屋のなかでスマートフォンを握った手を下ろし、ぼんやりと画面を見た。持ち主の正気を疑うみたいに、7月6日(土)10:18という表示がじっとこちらを睨んでいた。

 僕は立ち上がり、PCを起動させた。NECのロゴが表示され、そのまま一時間ばかり経った気がした。実際には十秒もかからなかったはずだが、時間の概念はうまく機能していなかった。

 グーグルのページを開き、エンジンに『今日』の二文字を打ちこんで検索を掛ける。すぐさま七月六日という文字が目に飛びこむ。その日付は僕を見て、ニッコリと微笑んでいるみたいに見えた。その下には七月六日がピアノの日であり、ダライ・ラマ14世とジョージ・W・ブッシュの誕生日であることも記されていた。

 僕は床に手をついた――へなへなと。全身の骨がこんにゃくになってしまったみたいに力が入らなかった。

 今日が七月六日であるわけがない。なぜそう言えるのか?簡単だ、僕は六月を経験していないからだ。六月を経ずに七月を経験するのは不合理だ。それは自然の摂理に反したことだ。間違ったことだ。

 僕は日本プロ野球機構の公式サイトを開いた。ここで当然の疑問――なぜ僕はそんなことをしたのか?

 たぶん、自分がどれほど混乱しているか、自分自身に対して示したかったのだろう。

 そこにはきょう行われる予定である公式戦の一覧が表示されていた。七月六日にはセパ両リーグともに三試合ずつのデイゲームが開催されることになっていた――僕は二〇一五年公式戦のバックナンバーを呼び出した。膨大なデータを上から下へ読み流し、適当な試合を選んで詳細を表示する。

 そこにあったのはリアルな対戦の経過だった。一球一球の急速やコース、代打、守備交代――試合によっては退場者の記録なんてものまである――たしかな記録。これは、たしかにあったことなのだということが、無言のうちに、示されていた。世界は、二○一五年七月六日まで、時間線の上を、スキップすることなく、きちんとまじめに歩んできたのだ。

 そしてそれは、僕自身に対しても言えることであるはずだった。

 そうでなければ僕の部屋のなかに、僕の記憶にないカーテンや布団といったものがあるはずがない。僕以外の人間が僕の物を買うわけがない。

 だがそれでは説明のつかないこともあった。言うまでもなく、復活した部屋のことである。

 カーテンや布団を買うことはできる、だが破壊された部屋を元通りにすることは誰にもできない。

 見慣れた狭い部屋を僕は見回した。物の少ない部屋。びっしりと本の詰まった本棚。ひび割れ、すっかり剥げ落ちてしまったはずの鏡は元どおりになっていた。

 僕はブルージーンを履くと鍵を掴んで部屋の外に出た。アパートを飛び出して、車道から振り返ってアパートを検分した。アパートはやはり印鑑ケースみたいな形をしていた。どこにも欠けたところはない。もちろん新築物件ではないのだから、細かい疵はあるだろう――しかし穴はない。見落とすような大きさの穴ではなかったはずだ。

 だがどこを見渡しても、トラック事故の痕跡は見当たらなかった。まるで夢でも見ているみたいだった――あるいは逆かもしれない。それまで見てきたものが夢だったのかもしれない。そしてそれは現時点において最もまともな解答であると言えた――夢――でもその言葉の非現実性と記憶の確かさは全く釣り合っていない。そして記憶は五月のあの事故を境に分断されている。今日、七月六日、僕の記憶は再び始まった。確かな記憶とゼロの記憶、それらを分けたものはいったい何だ?考えても答えなど出ようはずもなかった。そんなことは初めから分かっていた。

 僕は道路を横切りアパートに戻り、郵便受けを開いて中に溜まっていた郵便物をすべて引っ張り出した。僕はまめに郵便物をチェックする方ではないが、それはこの数十日間も同じであったらしく、ポストの中に溜っていた郵便物はざっと二週間分といったところだった。部屋へ向いながらそれら一枚ずつに目を通す。スーパーやピザ屋のチラシ、ガス料金の明細書――どれもこれもゴミ箱直行で問題のないものばかりだ。記憶を取り戻す手がかりになりそうなものは一枚もない。玄関から入るなり、僕はそれらの束をまとめて二つに破り、ゴミ箱の中にぶちまけた。だが、同時に違和感を抱いた――無視できない、無視してはいけないものを見落としている感覚。

「ダイレクトメールを見ろ」

 僕の中で、誰かが、はっきりとそう言った。明確な具体性をもって――ゴミ箱から、拾い上げて、もう一度目を通せ――

 僕はチラシを丸めてゴミ箱の中につっこみ、そのかわり、真っ二つになったダイレクトメールの残骸を拾い上げた。ワンランク上の男になるにはスタイリッシュなスーツを所有することが必須であるとダイレクトメールは謳っていた――紳士服店の広告。ぴかぴかのスーツに身を包んだモデルが、斜め上に向って笑みを浮かべている。何を見て笑っているのかは分からなかった。

 凡庸なダイレクトメールだ。モデルの男にも見覚えはない。いかにも運動部の元キャプテンといった感じで、困難は自分を高めるチャンスなのだと本気で思っているタイプに見えた――もちろんこんな印象は当てつけだ。実際のところは分からない。彼個人の人間性など、僕には知りようもないし、知ったところでしょうがない。つまり僕には何の関係もない。

 どれだけ眺めてもヒントになりそうなものは何もなかった。僕はあきらめてダイレクトメールをゴミ箱のなかに突っ込み――

 ようやく違和感の正体に気づいた。

 それはダイレクトメールの裏面に書かれていた。


    呉崎


 手が止まった。

 僕はその紙片を持ったまま文字通り静止した。

 僕は下半分の紙片を拾い上げた。上下二枚を重ねて解読できた住所や郵便番号は、まぎれもなくこの部屋のものだった。

 違っているのは名前だけだった。

 僕は立ちあがって鞄の中から財布を取りだし、その中からさらに学生証を引っ張り出した――パッとしない顔にパッとしない表情、僕の顔写真。それは確かに僕のものだった。しかし名前は違っていた。僕の顔写真の隣に、まるでその人物を指すかのようにごくごく自然に当たり前のように、『呉崎悠平』という名が並んでいた。

「間違ってるぞ」と僕はつぶやいた。それは指摘だった。その指摘は、客観的に言っても無理のないものであるといえた。りんごをみかんと呼んだり、バットのことをグローブと呼んだりするのは間違いだ。

 僕のことを呉崎と呼ぶのは間違っていることだ。

 僕は学生証をその辺に放りだすと書類をまとめておくためのファイルを本棚から引っ張り出し、中を改めた。各種料金の利用明細やプロバイダ等の契約書類が複数のポケットに分けて入れられている。どの書類に使われていたのも『呉崎悠平』の名だった。探すたび、この部屋が『呉崎悠平』のものである証拠が次々に発見され、『呉崎悠平』という名前が、この世界での存在感を増していくみたいに思われた。

 部屋じゅう探して分かったことは、この部屋に住んでいるのは呉崎悠平という名の大学生であるということだった――僕の名などどこにもなかった――本当にどこにもなかった。その名を知っているのは世界中でただ一人、僕だけみたいだった。

「そんな馬鹿なことがあるか」と僕は言った。口に出してしまえばそれが冗談か何かのように聞こえるのではないかと期待したのだが、僕の声はまったく笑っていなかった。冗談が面白いのは自分が安全地帯にいるときだけだ。自分の体を張るなんて少しも面白くない――ぜんぜん面白くない。

 僕はスマートフォンの電話帳を開き、赤坂に電話をかけ始めた。とにかく赤坂に話を聞く必要がある。僕のことを『呉崎』と呼んでいた彼に――聞いたところで納得のいく答えが聞けるとは思えない。でも何もしないではいられない。何かをしていないと、自分という存在が消え去ってしまいそうな気がした。何でもいい、とにかく世界と繋がる必要がある。こんなところにいてはいけない。

「もしもし」と女の声が聞こえた。「中野さん?」と僕は言った。赤坂の電話を取る女がほかにいるとは思えない。

「ねえ、赤坂は近くに――(そこまで言って思い直した。話なら美咲に直接聞いた方がずっと早い。彼女ならすべてを知っていると僕は考えていた)」

「ちょっと」と相手は言った。僕は頭を高速回転させていたおかげで彼女の声を聴き逃した。

「ちょっと」と彼女はまた言った。

「?」

「番号間違えてません?」

 僕はやはり、生まれて初めて、文字どおり絶句した。

「あの、こちらは中野じゃありませんよ。さよなら」

 雀が飛びたつみたいにあっさりと電話は切れてしまった。

 スマートフォンはまったくの無音になった。固定電話で聞こえるようなツーツーという電子音も聞こえない。相手の存在がゼロになってしまう沈黙。

 それでも僕は、ずいぶん長い間、物を言わなくなったスマートフォンを耳に押し当てていた。


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