第19話 なぜか生き残った

 ふだんとは人の流れが違っていることに気づいた。町全体が小さな血栓を生じた血管のようだった。何も気づかないうちに破壊され、消費される。そしていざ問題が起こったときにはもう遅い。問題とは何か?血球とは誰か?――分からない。そういう状態のことを予感と呼ぶのだ。

 そしてその予感は、すぐ現実の形を取って僕の前に現れた。

 アパートへ向う最後の角を曲がったとき、目に飛び込んできたのは奇妙な角度で停止しているトラックの後面だった。前面は見えない。アパートのなかに食い込んでいるようだった。すぐ傍には救急車があり、二十人ばかりの人がその近くで首を伸ばしていた。

 僕はそのうちの一人になった。

 音は全く聞こえなかった。

 一階の僕の部屋にトラックが突き刺さっていた。トラックと外壁との間にはわずかな隙間があり、そこから部屋のなかを垣間見ることができた。ボンネットにのしかかるように貼り付いた姿見の木枠は大きく歪み、鏡面は鋭く斜めに割れていた。ほとんどの部分は剥がれ落ち、雑多ながれきの中に紛れてしまっている。左上の角に残った僅かな区画は、一面に入った細かなひびのせいで、雪のように真白だった。もはや何も映ってはいなかった。

 あとは何もない。一人の人間がいただけで、もともと何もないような部屋だった。でも人間は生き残った。生き残ったものは他にもある。たとえば財布、たとえば携帯、たとえば鍵、たとえば鞄。

 たとえば瓶。

 電話が鳴った。

「もしもし」と僕はスマートフォンに向って言った。

『呉崎君?』と赤坂が言った。

「らしいね」

『昨日のお礼がしたいんだ』と赤坂は真剣な口調で言った。『いま、何か困ってることとかないかな?』


 笑うなという方が無理だった。

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