第20話 人生はつづく

 僕はグラスを見つめていた。缶一本ぶんのビールの泡はまだ落ち着いていなかった。奇妙なほど静かな部屋の中では、泡のはじける音さえ聞こえてきそうだった。遠くで地面を擦るタイヤの音は、まるで海の上を山が移動している音みたいに聞こえた。

「ここは本当に静かだ」と僕は言った。

 赤坂は不思議そうな顔で僕を見た。僕は少し迷ってから首を振った。何か応えようにも、言葉は浮かばない。ただときどき動かしていないと口が錆びついてしまうような気がした――これは塵ほどの価値もない予感だ。

 僕たちは無言のままビールを飲み、ときどきピーナツをかじった。何も浮かばなかった。空気中に含まれる言葉の割合は目に見えて低下していた。僕は松尾芭蕉の句を思いだせるだけ思い出そうとしてみたが、三つ思いだして、それより先には進まなかった。《やせ蛙》が芭蕉の句である気がしたほどだ。

 怒るべきか悲しむべきかさえ分からなかった。

 これは後で知ったことだが、事故を起こしたのは五十代の男性運転手で、救急隊員の手によって引きずり出されたときには既にこと切れていたらしい。事故で死んだのではない。冠動脈に詰まった血の塊が彼を殺したのだ。彼自身は誰も殺さなかった。トラックはピンポイントに僕の部屋を貫いたが、それ以外の物にはかすり傷一つ付けなかった。

 奇跡的と言ってもいい。この事故で死んでしまうべき人間は一人しかいなかったのだ。その人間が死ななかったのは、事故のときにミスター・ドーナツでドーナツを食べていたからである。

 僕はこれで三十二回目になる問いを自分自身に投げかけた。

 これは果たして現実なのだろうか?

 現実だろう、というのが僕の出した答えだったが、「現実とは何か」という問いについては何も答えてはくれなかった。よく知らないらしい。

「それを飲んだら」赤坂がふいに言った。「飯を食べに行こう。なんでも好きなものを言ってくれよ。遠慮なんてしなくていいからね」

「ラザニア」と僕は言った――なぜそんなことを言ったのかは分からないが、とにかく一度そう言うと、無性にラザニアが食べたくてたまらなくなった。最後にラザニアを食べたのは、もう十年以上も前のことだった。

「よし」と赤坂は言って立ち上がった。「僕もラザニアは大好きだよ。美味しいイタリアンを食べに行こう。呉崎くんは、ワインは飲む?」

「自分では飲まないよ」

「僕も同じだよ。でも実家に帰るとしこたま飲まされる。たまにはそういうのもいいね。ワインのいいところは、何杯飲んだかすぐ分からなくなるところだよ」

「そのとおりだ」

「あれはどうしてだろうね?」

「一杯の量が少ないからだ」

「きっとそうだ」と赤坂は言って尤もらしく頷いた。「きっとそうだ」と繰り返した。「今日は、たくさんワインを飲もう」


    ☆


 先回りして言ってしまうが、事故に関して僕がしなければならないことは驚くほど少なかった。


    ☆


 赤坂が連れて行ってくれたイタリア料理店はそれほど高級ではなかったが、ラザニアはとびきり美味しかった。ラザニアだけではない、頼んだ料理のすべてが一級品だった。ひとつひとつの味が厳然たる立体構造を以て眼前に現れたみたいで、その味覚の奔流に僕は殆ど圧倒された。このことも僕の感覚神経の繋がり方の不具合を示す証拠の一つに過ぎないのだろうが、僕はフォークを運びながら、何度か涙を堪えなければならなかった。何かを食べて、そこまで感情が揺れ動いたのは初めてだった。

 つくづく自分というものが分からない。


 赤坂はどう好意的に解釈しても社交的な男ではない。血中アルコール濃度が十分でないときは特にそうだ。一つの話題を転がしながら、別の話題について考えるような器用さは持ち合わせていない。

 だからこの日、彼は僕の心のことだけを心配していた。僕が現実に愛想を尽かしてしまわないか、そのことだけが心配みたいだった。

「こんなことを言うべきじゃないのかもしれないけど」

 僕がそう言うと、赤坂はカウントダウンを始めた時限爆弾を見るような目で僕を見た。

「ついてたんだと思う。あんな事故があったのにぴんぴんして、友だちに助けられて、おいしいイタリア料理にもありつけた」

 しばらく沈黙がつづいた。

「……運転手の人は大丈夫だったのかな」

(そのとき僕はまだ事故について多くを知らなかった)

「分からない」と赤坂は言った――ここでも先回りをしてしまうが、赤坂は事故について、実際のところ僕よりはるかに多くを知っていた。「でも、呉崎君はこうして生きてるんだ、本当に良かった。ほら」赤坂は僕のグラスになみなみとワインを注いだ。「そのことを喜ぼうよ。僕は嬉しいよ」

「ついてた」僕は機械のように繰り返した。たっぷりのワインの波が収まるのをじっと待ち、それから多すぎるぶんを、ごくごくとひと息に飲んだ。

「できすぎなくらいだ」

 赤坂は何も言わず頷き、自分のグラスにワインを注いだ。

「今日は、中野さんはよかったの?」

「何?」

「中野さんと一緒にいなくて、よかったのかってことさ」

「美咲は今日バイトだよ」と赤坂は言った。「土曜の夜はいつもそうなんだ」

 僕はミスター・ドーナツの窓から見えた美咲の姿を思いだした。青いトートと白のパンプス。不思議なことに、着ていた服については何一つ思いだせない。神経を集中させたが、アルコールのせいか、形も、色さえも浮かんでこなかった。まるで透明だった。

「沖宮で働いてるの?」

「そうだけど、どうして?」

 沖宮で見かけたからだとは言わなかった。言えばなぜ僕がそんなところにいたのか説明しなければならなくなるし、そのためには、どうして美咲が僕を呼びだしたのかについて納得のいく説明が必要になり、そのことは、現在の僕が最も知りたいことの一つだった。

「何のバイト?」と僕は尋ねた。

「占いをやってる」と赤坂は答えた。「けっこう当たるって評判らしいんだ」


 僕は笑った。

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