第18話 足こそはすべて

 葦原駅から沖宮駅まで十七分。玄関を出てフロールのミスタードーナツでドーナツを選び、コーヒーのマグカップといっしょに席を探し、腰を落ち着けるまでが四十分。

 その四十分間を使って僕はチャーリー・パーカーのストリングス・アルバムを聞いた。『パリの四月』のイントロが流れだすのと同時にドアを開け、『ジャスト・フレンズ』のソロが始まるあたりで葦原の改札を通過した。

 ICカードには209円が入っていて、これは沖宮まで行くことはできても、帰りに電車やバスに乗ろうというのは甘い考えである、ということを暗示していた。確かに甘いかもしれない。どこかでもう一人の僕が「やめろ、行くな」と、僕を止める声が聞こえていた――しかし僕は地下鉄に乗った。甘いジャズの音を内臓に流し込みながら目を閉じた。どこまでも昇りまくるようなアルトの音色にまぎれて聞こえてくる電車のゆれる音、レールのきしむ音、女やおっさんの話し声、長々とした車内アナウンスや車掌の声――それらの音は、情報としては機能しなかった。あまりに断片的すぎるからだ。音の世界はひとかたまりになって街の地下を貫いていた。だから駅に着いて、ホームの上に脚を下ろすときには不思議な気持ちになってしまう――知らない場所に来たような気分になるのだ。それは月曜日の次に土曜日がくるのと同じくらい妙な感覚だった。それまでそんなものがあったことにすら気づかなかったような、当たり前の地盤が消えてなくなるような浮遊感が僕に階段を上らせ、改札をくぐらせ、フロールの地下入り口の中へ導いていった。重いドアを開くとき、僕の耳元で鳴っていたのは『星影のステラ』だった。チャーリー・パーカーは世界の境界線で反復横跳びをしながら音をばら撒いていた。無害な弦楽隊は後から回ってそれを拾い集めていた。



 ミスタードーナツは一階の入り口近い場所にあった。それほど混んではいなかったが、客の殆どはマグカップ片手に長期戦を決め込んだ買い物客だった。美咲の姿はなかった。僕はレジでオールドファッション・シナモンを買い、コーヒーと一緒に外の景色が見えるカウンター席に座った。

 いつ美咲が来るのかは分からない。どれだけ待っても来ないかもしれない。あるいはもう帰った後かもしれない。そもそも来る気がないということだって十分に考えられる――こんな場所に来るなんて、僕は人から「死ね」と言われたら死ぬ間抜けです、と公言しているようなものだ。馬鹿馬鹿しいから帰ろう、と三分おきくらいに考えた。店内にはビートルズ専門の有線が流れていて、三分おきくらいに曲が切り替わった――『エイト・デイズ・ア・ウィーク』、『マジカル・ミステリー・ツアー』、『カム・トゥギャザー』、『オール・マイ・ラヴィン』――1962年から1970年。僕はうろうろとその時代を彷徨い、コーヒーを飲んだ。学生がフォークギターを弾き、徒党を組み、機動隊と戦い、安田講堂に火が放たれる……ゆとり世代に言わせれば異世界ファンタジーみたいなお話だ。大学のみんなにも教えてやろう。たぶん信じてはくれないだろうけど。

 何もすることがなかったので本を持参しなかったことが悔やまれた。ウインドウの向うで、人々はビートルズの音楽を背景に歩き、呼吸をしていた。それは悪くないことのように思えた。どうせ他に相応しいBGMもないのだ。どうせ人間は三足歩行を習得することもなく、三十年後にも、百年後にも、上下似たような服を身に着け、似たような速度で街を歩くのだろう――何と言い当てられない程ささやかなことが、異なる結果を導きながら生まれては死んでゆく世界にあって、人はどこまでも二本の足で歩き続けるのだろう。

 何十曲目だろうか、『ロックン・ロール・ミュージック』が終わったところで僕は美咲の姿を見つけた。

 彼女は大勢の人に交じって目の前の通りを右から左に歩いていた。そして角の向こうに消えた。その間、こちらには一瞥もくれなかった。ブルーのトートバッグと白いパンプスの残像がやけに鮮やかに目に残った。

 僕はカップの底に二センチばかり残ったコーヒーを飲みほし、席を立った。トレイをレジ横の返却棚に突っ込んで店を出た。中学生くらいの女の子が入り口の扉を押し開けたその脇をすり抜けると、粘液のような生暖かい空気が、前髪の隙から入ってきて僕の顔を撫でた。

 僕が道に出たとき、すでに美咲はいなくなっていた。彼女が去った方へ駆け出し、あちこちに視線を這わせ、道の先にあるものを順に思い浮かべながら速度を上げる。

 予備校、バスセンター、市役所、公園、そして港。

 風に海の匂いが混じり始める。



 目の前には海があった。

 いっぱいの光を湛えた五月の太陽は、ずっと上の方で輝いていた。ときどき不公平を嘆くみたいに鴎が鳴いた。魚が捕れないのだろう。似たような気持になることは僕にもある。僕の足元には濃い影ができていた。どこにも繋がっていない影だ。

 さて、と僕は考える。僕は汗をかいていなかった。これは良い兆候ではない。汗腺の奥では何かがくすぶっているに違いないからだ。

 僕は真っ当な線をどこかで踏み違えたようだった。右足を出したら「ちぐ」という音がして、左足を出したら「はぐ」という音が聞こえた。三本めの足からは何の音も聞こえなかった。何もかもがちぐはぐだ。僕は街にあふれる日陰の中を選んで歩いた。汗はまだ出ていなかった。俺は一体何をしているんだ。

 黄色い、神経症的なデザインの門が駅ビルの入り口だった。地下への耐水エスカレータ―を降りるとき、ふと思いだして赤坂の番号に電話をかけた。誰も出なかった。

 駅の券売機で160円の切符を買い、改札を通り、ホームに降り、電車を待ちながらiPodをシャッフルで再生した。ヴィヴァルディの『春』とケミカル・メディエーターの『砂鉄』が流れた。電車がやってきたので演奏を止めた。コーンというくぐもった音が耳の奥に突き刺さった。いくつもの窓が目の前をよぎり、そのうちの一つが目の前で止まった。ドアが開き、オイル漏れのように人々があふれてきた。空席は無かったので向いのドアの前に立った。窓には腰から上だけの僕の姿が映っていた。それは次の駅でドアが開いたときに消えた。ふたたびドアが閉じたとき、新たな乗客のせいで僕の姿は見えなくなっていた。リズムよく流れる光の線だけが、電車が走っていることを教えてくれる。電車はただ揺れているのではなく、葦原に向って進んでいるのだ。

 つまり僕は、確実に自分の部屋に近づいているのだ。

 そこは紛れもない僕の場所なのだ。

 ブルージーンの尻ポケットに僕は手を伸ばした。確かに鍵はそこに存在した――今度こそ鍵はそこにあった。僕はそれを固く握りしめた。


    ☆


 ところが僕の部屋はなくなっていた。

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