第17話 うずまき くじら
玄関の鍵が見つからなかった。ジーンズの尻ポケットに入っているはずの鍵がどこにもない。こういうのは、試験終了後に明らかなミスに気付いた時と同じくらい心臓に悪い。玄関の前で僕は鞄のジッパーを開き、中に入っているものを一つ一つアスファルトの上に広げ、中敷きの下に探していた物を発見した。力がぬけてその場にへたりこんでしまったことは言うまでもないが、なぜそんなところに鍵が入っていたのかは見当もつかなかった。そんなことは初めてだったし、そんなことをした記憶もない。このアパートに越してきて以来、鍵はつねに僕の擦り切れかけたジーンズの尻ポケットの中にあった。僕という人間はこうしたルーティンに関して、製薬会社の測定器のように信頼できるのだ。だから鍵が鞄の中から、それも中敷きの下から見つかるなどということは有り得ない。
それが有り得ている。
僕は鍵を開けて中に入った。右足から靴を脱ぎ、きちんとそろえて玄関の端に置き、短い廊下を二歩で歩ききり、薄い扉をわずかに開き、左の壁に貼り付けられたスイッチを押した。部屋の中は僕の部屋の様相を呈していた。入ってすぐに姿見があり、PCラックがあり、ちゃぶ台があり、本がいっぱいにつまった段ボール箱が四つと本棚とエレキベースがひとつずつある。実用性という点において、ベースは段ボール箱に数段劣っていた。それは僕の持ち物であり、僕はベースを弾くための技術に著しく欠けていた。さらに付け加えればベースそのものも大して好きではなく、今後好きになっていく予定もない。アンプもシールドも持っていない。棒のついた板、それは今日もこと切れ続けていた。彼を救うには僕はあまりにも忙しすぎる。忙しさが彼を殺しているのだ。僕のせいではない。
僕は手を洗った。
部屋の中で、あるいは外で何かが低く唸っているのが聞こえた。それは遠い場所でヘリコプターが飛んでいる音のようにも聞こえたし、大きな電化製品がモーターを冷やしている音のようにも聞こえた。或いは我慢強く息の長い獣の呻き声に聞こえないこともない。が、いずれにせよ同じだった。僕がテレビをつけたせいだ。二十四歳くらいの女のリポーターが中華料理屋の店先で非現実的な高い声を発した瞬間に唸りは消し飛んだ。互いに相いれない二項対立――水と油、棒と棒、友愛と戦争、エトセトラ、エトセトラ。そんなものが互いに頭を突き合わせている場面に遭遇したら?(遠回りをして逃げること!)
僕はテレビを消した。唸りは再び戻ってきた。
二度とテレビを点ける気にはなれそうにない、と僕は思った。どうしてそんな馬鹿げたことを思うのか自分でも分からなかったが、じっさい、僕は二度とその部屋でテレビをつけなかった。おかしなものだ。
唸りは黒い大きな渦を連想させた。ブラックホールの音。本当はそんなものは存在しない。ブラックホールは何ものも逃さないから音など聞こえるわけがない。ならば音はブラックホールの向う側から聞こえているのだ。僕が厄介ごとを迂回するように、それはブラックホールのうずまきを迂回して僕の部屋までやって来るのだ。やあ、と。まいっちゃうよ、本当にここまで遠いんだもん。
向うには何があるんだ?と僕は問う。
何のこと?とそれは言う――初対面なので、ツーカーという訳にはいかないのだ。僕はブラックホールが存在するからには、何かしらそこに巨大な質量が存在するはずであるというようなことを言うだろう。
ああ、と彼。彼女かもしれないけれど、僕は前時代的価値観にとらわれたちんちんなので彼という呼称がいちばんしっくりくるのだ。僕の好きなようにさせてもらう。
ああ、と彼は言う。たしかに、向うにはやたらめったらに馬鹿でかいものがあるよ。
それは何?と僕。
さあね、と彼。何しろ大きすぎて、何なのかよくわかんない。大きいものといえば鯨かな?その方がロマンチックな感じがするね。
ブラックホールの中心には鯨がいる、というのは決して馬鹿げた話ではない。それはブラックホールがすべての物を飲み込まずにいられないことの説明にもなる。鯨は大きな口を開けていて、しかもその巨体を維持していくためには莫大なエネルギーを必要としている――なるほど筋は通る。
僕が、いつ自分がその中に巻き込まれてしまうのかを考えるのは恐ろしい、といった意味のことを言うと彼はううん、と曖昧に言うだろう。笑うのは失礼だから鼻を鳴らした、といった具合。
関係ないよとしばらくして彼は言う。すべての物が呑み込まれ続けてる、君だって本当はそうなんだ、と。飲み込まれていない部分がこうして残っているだけじゃないか。
考えるな、というような意味のことを彼は言うだろう。どうしようもないんだし、考えなければ同じことだ……。
チック、タック。時計の音が聞こえた。初めから聞こえてはいたのだが、気づかなかっただけらしい。こういう音は一度意識の縁に上がると耳についてしまう。チック、タック。時間が流れ続ける。流れ続け続けていた。その間に僕はやはりブラックホールに飲まれてゆく。
僕のスマートフォンが鳴った。正確には震えた。ヴァイブレーションが右の太腿をこそばゆく刺激した。僕はスマートフォンを取り出し、同時に何かを床の上に落とした。レシートのようなものだった。メモ紙だ。表面にはアドレスと電話番号が書かれている。僕はそれを取り上げてテーブルの上に置き、スマートフォンの電源ボタンを押した。メールだった。僕のTカードには現在0ポイントが溜まっているが、これは日本円に換算すると0円に相当する、というお知らせだった。余計なお世話だ。僕はメールを消去してスマートフォンをポケットにしまった。
もう唸りは聞こえなくなっていた。テーブルの上の、二つ折りにしたメモの中身が僅かに覗いている。何かが書かれている。僕はふたたびメモを掴み、開いた。黒いボールペンで複数の文字が書かれていた。僕は二度その文面を読み、それから右の手の平ごとメモをテーブルの上に伏せ、考えた――考えるべきことは二つあったが、それぞれに関連性を持たぬ事柄を、並行して取り扱うのは困難だった。ビルの八階と、二階から同時に呼び掛けられているようなものだ。或いはドラマの登場人物に、自分の名前を呼ばれているようなものだ。つまりその場において、僕にできることは何もない。
《瓶をかえしてください》とメモには書かれていた。《沖宮フロールのミスタードーナツで待っています》。そしておしまいに《中野美咲》という署名があった。
僕はメモに書かれた、赤坂のものと思しき番号に電話をかけた。コールは十回続き、それから数字の感覚が曖昧になってしまうほどの長い時間を経て《おかけになった電話は現在電源が入っていないか電波の届かないところにあります》と言う声が聞こえた。気が狂ったとしか思えない音量だった。
スマートフォンを耳から離し、世界の果てに投げ捨てたとしてもまだ聞こえてきそうなほどだった。
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