第16話 たくさん歩け、たくさん水を飲め
百貨店の四階にあるイタリア料理店からは、隣接するバスターミナルの長いスロープが見えていた。黙々と行き来するバスの細長い屋根にはくすんだペンキで三桁の黒い番号が振られている。421が892とすれ違い、その後を追うようにして332が建物の中に消えた。ゆっくりと姿を現した022が少しずつ速度を上げながら滑りだし――僕はそれらの数字で語呂合わせを試みたが、すぐにやめた。これはあまりに馬鹿々々しい。
それらのバスがどこから来たのか、どこへ行こうとしているのかは分からなかった。僕たちのいる場所からは行先を示す表示が見えない。何の意味も持たぬ幾つもの数字が僕の視界を通り抜けていくだけだ。何の意味も持たぬ情報が、ただ僕の頭をすり抜けていくだけだ。
「なにか違うことを考えてる?」
となつめは僕に尋ねた。
「たとえば?」
「知らないわよ、そんなの。でもこれから運ばれてくる食事とはまったく別のこと。違う?」
違わなかった。そして僕は三秒半ほど考えて、自分がろくでもないことを口にしたことに気づいた。たとえば?――その言い方はあんまりだ。図星を突かれて苛立っているみたいに聞こえるじゃないか。
正解。
「ごめん」と僕は謝って頭を下げた。「ちょっと考えごとをしていたんだ。頭がうまく働かなくて」
片っ端から間違ったことをしている僕を、なつめは許しも詰りもしなかった。ただじっと黙ってこちらを見つめていた。沈黙のまま時は過ぎた。身動き一つとれない。蟻地獄に捕らわれているみたいだと僕は思った。体液の流れが滞るのを感じた。徐々に速度を落とし、やがて止まる。僕は水を飲んだ――流れろ、流れろ――注文した料理はまだ来ていなかったが、グラスの中はすでに空になりかけていた。
「げんこう」と彼女は言った。重い石を動かすような言い方だった。元寇?と僕は思った。
……原稿だ。
「別の日にする?」となつめ。僕は彼女の目を見てそこに何らかのメッセージを見出そうとしたが無駄だった。二日酔いで受けるロールシャッハテストみたいに意味不明だった。
「何か、今日は疲れてるみたいだからね。そんな状態のときに小説なんか読んでも楽しくないんじゃない?」
「そうだね」と僕は言った――何を言えばいいか分からなかったので、自分に誠実であることに決めたのだ。「今日は、何だか調子が悪いんだ。万全のときに読みたいよ。月曜のバイトのときにでも、また持ってきてくれないかな?」
窓の外に目をやったまま、なつめは小さく頷いた。スロープを249がゆっくりと昇ってきて、それが見えなくなると、しばらくのあいだ流れは絶えた。
「そう」となつめは言った――犀の皮も引き裂けそうなほど鋭い二音だった。「いつも無理言って、ごめんね」
僕は首を横に振って水を飲んだ――そのまま飲み干した。間違った導線を切ったことに気付いたのはそのときだったが、遅かった。時間は戻らない。喉を冷やしても、水を流し込んでも、体液を逆流させることはできない。水の入ったグラスを、彼女は恐らく無意識のうちにテーブルの上でくるくると回していた。
水滴がはねてクロスを濡らした。
「素人が書いた小説を読むのって、やっぱり体力がいるもの?」
「どうかな」と僕。「人によるんじゃないかな」
彼女は、こんどは何も言わなかった。しばらくしてグラスのくるくるも止まった。
僕のグラスは空になっていたが、その理由について僕は考えた。さっき飲みほしたからだ――単純な因果律の支配する平和な世界。我々はその世界を離れては生きていけない――銀ポットを抱えた店員が恭しく僕たちのグラスに水を注ぎ、どこかへ去っていった。取りつくされた鉱山のような沈黙だけがあとに残される。あの、これも下げてくれませんか?頼んだ覚えないんですけど……馬鹿だ。意味のないことばかり考えている。
なつめはグラスを取り、水を飲んだ。たくさん歩け、たくさん水を飲め――何かの本にそう書かれていた。実用的な小説が僕は大好きだ。生きるために何をすればいいか、手っ取り早く教えてくれる本――水を飲むのは有効な手段だった。おかげでなつめはいくぶん落ち着きを取り戻し、「ごめんなさい」と言うことになった。
「いいよ」
「嫌な言い方をするつもりはなかったのよ。でも、分かってほしいの。自分が書いたものを人に読ませるのって、けっこう緊張するものなのよ」
「分かるよ」
危機は避けられた。その代わり、僕はなつめに何かを押し殺させた。そう考えることは苦しかったが、どうしようもない。僕の頭は最後まで正常には戻らなかった。僕が正常だと思っているものが正常であるのかどうかすら分からない始末だった。
僕は大量の水を飲み、そしてたくさんのつまらないことを口にした。なつめは笑った。なつめは本当に楽しそうに笑ったのだ。
☆
部屋に帰り着くまでに僕は4回小便をした。
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