第15話 失われていた記憶

 しばらくは息ができなかった。

 これは決して大げさな表現ではない――初めのショック状態から抜け出したときに僕は大きく息を吸ったが、それは僕の意思とは無関係に僕の体が酸素を求めて行った運動だった。それから二度目の呼吸は意識的に行ったことを覚えている。そして息を吸わないように気を付けながら息を吐くことは、驚くほど体力を要する作業だった。吸おうとしても空気がうまく体の中に入ってこない。肺の中は空気とは違う何かでいっぱいになっていた。それを吐き出すための筋肉は強張り、もはや二度と使い物にはならないように思えた。

 そして言葉を発することは、呼吸をすることよりも困難だった。

 それはすなわち、不可能を意味した。

 僕は無言で中野美咲を見つめた。

「どうしたの?」と彼女は言った。

 美咲は僕の顔を眺めていた。彼女が何を考えていたのかは分からない。そのことに気を配るほどの余裕はなかった。しかし言葉にならぬ疑問のすべては間違いなく彼女に直結していたし、僕の目は彼女の顔しか見てはいなかった。それでも言葉が出ないので僕はやはり美咲を見つめ続けた。それ以外の行動をとることは不可能だった。その瞬間、身体のあらゆる機能はただそれだけのために存在しているようなものだった。

「しじみ汁をごちそうしてあげる」と彼女は言った――少なくとも僕の耳はそう聞き取った。

「しじみ汁?」と僕は言った。

「うん」

「しじみ汁?」

「二日酔いが残ってるんじゃない?」と彼女は言った。二日酔い?と僕は心の中で反芻した。

 こともあろうに、だって?

「二日酔いなんてないよ」僕は子供のように言った。

「でも、ずいぶんぼおっとしているようだけど」

「それは」、言いかけて僕は躊躇った。何を言えばいい?何かを言わなければならない。必死で考えなおしながら「だからつまり」と僕は言った。それから熟考に熟考を重ね、これ以上重ねたら熟考が崩れてしまうのではないかというようなタイミングで「要するに、僕が言いたいのは……」と僕は言った。

 このときの僕の脳みそは、水没したスマートフォンのように機能的だった。

「君は僕と、前に会ったことがあるんじゃないか?」

 その言葉は彼女に何の感動も与えなかったように見えた。少なくとも、僕が彼女に対して抱いたようなものは。

「あるよ」と彼女は言った。「昨日会ったもの」

「そうじゃない」と僕は言って首を振った。そうじゃないそうじゃない。「もっと前だ」、もはや悲鳴のような僕の声が続いた。「もっと前――そうだ、福岡だ。福岡にいたことはない?」

「ないよ」と彼女は言った。「生まれたときから高校を出るまで、ずっと京都にいたから」 

 僕は何度も何度も首を横に振った――そんな馬鹿なことがあるはずがない。「そんなはずがない」と口に出しさえした。そんな言葉を信じるには、彼女はあまりに彼女に似すぎていた。

「顔を洗って来たらどう?」と彼女は言った。

「でも……」

「きっと何か夢を見ていたのね。顔を洗ってさっぱりしたら、目も覚めると思うわ」

 僕はその通りにしたが目は覚めなかった。依然として僕の脳はおなじ疑問を抱きつづけていたし、世界の方もおなじ現実を抱きつづけていた。両者は相容れず、互いに相手のことを「頭おかしい」と切り捨てていた。

「洗面台の下の戸棚に使ってない歯ブラシがあるよ」と彼女が台所から言うのが聞こえた。僕は膝を屈めて戸棚を開き、洗剤の詰め替えパックの傍に未開封の歯ブラシを一本発見したが、歯ブラシも洗剤もしじみ汁も本当のところ何もかもがどうでもよかった。最大にして唯一の問題は、突然降って湧いたこのわけの分からない状況を、どう解釈するかということにあった。そもそも、なぜ彼女は赤坂の部屋でしじみ汁などを作っているのか?

 そこまで状況が飲み込めるようになったのは、多少なりとも頭が働いてきた証拠だったかもしれない。そして僕は、昨晩きちんとこの部屋の玄関の鍵をかけたことを思い出した。

「君は誰なんだ?」と僕は尋ねた。

「中野美咲」と彼女は鍋に向って何でもないように答えた。「昨日、彼をここまで運んでくれたんでしょう?赤坂くんに代わってお礼を言います。どうもありがとう」

 そして、僕の方を向いて付け加える。

「本当は彼がお礼を言いたいと思うんだけど、たぶん、お昼までは起きないと思うから」

「でも」と僕は言った。でも、そればっかりだ。それから先の言葉が続かない。訊きたいことが山ほどあり、それぞれがはけ口を求めて気道の奥を塞いでしまっていた。もし僕が生まれつき九つの口を持っていたら、誰より上手く使いこなしたに違いない。

 実際のところ、僕の口は一つしかなかった。そのため質問は簡潔さと的確さを求められ、それにふさわしいものは一つとしてないように思えるのだった。

「君は何処から来たんだ?」と僕は尋ねた。

「家」と彼女は答えた。



 しじみ汁は身に染みこむように旨かった。

 そして舌の奥に感じる苦みは僕にいくらかの冷静さを取り戻させてくれた。

 僕と彼女は小さな丸テーブルに向い合ってしじみ汁をすすった。食卓にはほかに白米の入った茶碗も置かれている――冷蔵庫の上の棚からサトウのご飯のパックを二つ取り出した彼女は、それらを一つずつ電子レンジにかけ、茶碗の中に丁寧によそった。

 彼女がこの部屋において持ち主と同等の権限を有していることは明らかだった。彼女の手には上等な漆塗りの箸が握られていた。

 僕たちを結ぶ線と平行に、窓の方を向いたまま死んだように眠る赤坂の体が横たわっている。僕たちが白米やしじみを噛む控えめな音だけが聞こえていた。レースのカーテンごしに差すぼんやりとした光は、まるで薄膜のように食卓の全体を覆い、漆器や茶碗の中にさわやかな光の粒を躍らせていた。そしてそれは――言わずとも分かると思うが、まったく奇妙な眺めだった。

 朝食。

 食事に集中して彼女のことを考えまいという努力を僕は早々に放棄した。これは無理からぬことだと思う。角瓶を前にしたアル中患者に「我慢しなさい」と言うようなものだ。

 彼女が茶碗を突く小さな音を聞くたび、あるいは味噌汁をすする些細な音や、茶碗をテーブルに戻すときの微かな振動を感じるたび、僕はせっかく取り戻した落ち着きを少しずつ失っていった。それらの音は蘇った記憶とじかに結びつき、僕の心を強く揺さぶっていたからだ。

 僕はときどき彼女の方を見たが、そういうとき彼女もまた僕の方を見ているということは一度もなかった。彼女は僕に対し、猫がフェラーリに示すほどの興味も抱いていなかった。彼女は常に目を伏せたまま食事をしたが、それが敢えてなのか、僕の存在を忘却の彼方に追いやってしまったせいなのかは判別がつかなかった。彼女の目蓋は朝顔の蕾のように淡く、冷ややかで、まるで血など通っていないみたいに見えた。

「ごちそうさま」と彼女は空の漆器の上に漆塗りの箸を置いて言った。

「……あ」と僕は言った。「ごちそうさま」

(僕はずいぶん前に食事を終わらせていた)

「これからどうするの?」と彼女は尋ねた。「赤坂くんが目を覚ますまで、ここで待ってる?」

「いや、家に帰るよ」

「そう」

「赤坂にはよろしく言っといて」

「赤坂くんは、よくあなたの話をしているわ」

 そう言って彼女は微笑んだので、僕はあやうくひきつけを起こしそうになった。

「親切な人だって」

「……ちがうよ、僕の方が助けられたんだ」

「その前のことよ。同じ講義を取っていたときに――」

「人違いだよ」と僕は言った。「他の人と勘違いしてるんだ」

 それでも、と美咲は言った。

「赤坂くんはあなたに感謝しているわ――だからとても喜んでたの」

 そしてテーブルの上で両手を組み、僕の顔を覗き込むようにして笑った。

「こうして再び会えたのは、夢みたいだって」


     ☆


 玄関で靴を履いている僕を、彼女はフローリングの上から無感動な目で見つめていた。僕たちを結ぶ距離は二メートルと離れていなかったが、それは二光年の間違いであるような気がした――もっとだったかもしれない。もはやそれが本当に存在していたのかどうかすら、僕には確かめようのない場所に彼女はいた。

「僕と会ったことはない?」僕は最後にそう問いかけた。

 光が最後に行きつく墓場のように味気ない答えが返ってきた。

「前に、君によく似た女の子を知っていたんだ」

「素敵な話ね」

「本当さ」と僕は言った。「……朝ごはんをありがとう」

「ゆっくり休むといいわ」

「赤坂が起きたら伝えておいて。また、これに懲りずに飲みに行こうって」

「自分で直接伝えた方がいいんじゃない?」

 そういう返しがくるとは思わなかったので、僕は思わず黙ってしまった。

「赤坂くんの連絡先、教えておくわ。だからあなたから誘ってみて」

 彼女は胸のポケットから二つ折りのメモ紙を取り出し、僕の手に握らせた。オモテに、一組のアドレスと電話番号が記されている。

 まるで初めから僕に会うことが分かっていたような周到ぶりである。

「ねえ……」

「たぶん、また会うことになると思うわ」彼女はそう言った。「それまでは元気でね。赤坂くんと友だちになってくれてありがとう」

 僕は殆ど何も言うことができぬまま部屋から追い出された。最後に美咲が小さく手を振るのが見えたが、すぐドアは閉じられ、そして僕はまるで売れ残った野菜をひとそろい抱えた百姓の子のように、しばらくの間ぼんやりとドアを見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る