第12話 パイプが二本
美咲を家まで送り届けた赤坂が一人で戻ってくると(戻ってきたのだ。僕は心の底からびっくりした。幽霊でも出たのではないかと思ったほどだ)、僕はふたたび円卓の方に移り、彼と飲んだ。僕は発泡酒、彼はペプシ・コーラ――外の風に当ったおかげか、赤坂の酔いは幾分まともなものになっていた。
「彼女、家近いの?」と僕は訊いた。
「四駅とちょっとってところだね」
赤坂は両手を顔の前で組み合わせたまま自分の眼前に並んだビールの空き缶に、まるで火星で発見された古文書を見るような視線を注いでいた。
「そんなに近くないじゃないか」
「でも、一人で返すわけにはいかないからさ」
「立派な彼氏だ」
心底意外そうに目を丸くして、赤坂は僕を見た。
「彼氏じゃないよ」
「……そう」
赤坂は頷いて再び両手を顔の前に組んだ。「考えたこともなかったよ、そんなこと」
「本当かよ」
「本当さ」
それだけ言って、彼は黙ってしまった。
僕はしばらくの間泡の抜けかけた発泡酒をちびちびと飲んでいたが、さすがにばからしくなって「帰るよ」と言い、腰を上げた。
「僕も」と赤坂。
「いま来たばかりじゃないか?」
「元々ちょっと挨拶だけして帰るつもりだったんだ。さっきここを出たときは、後片付けも何もしなかったからね……」
僕と赤坂は自分たちが飲んだ分の空き缶に水を通して潰し、それを空き缶入れの中にまとめて放りこんだ。大地をえぐるようなものすごい音がした。
僕たちが出て行くとき、千駄木は例によって儀礼的に腰を浮かせて挨拶をした。与えられる愛は与える愛に等しいと、ポール・マッカートニーは何かの曲で歌っていた。その通りだ。赤坂は全員に、飲み会に誘ってくれたことについて礼を言い、それからビールを飲み過ぎたことを詫びた。
「いいよ」とドラムスの三上は言った。「いつものことだろ」
ゴールデン・ウィークが明けてからは五月と思えぬほど暑く、街のあちこちに梅雨の始まりを思わせる重さがたちこめている。闇を溶かした空気が流れただけで、どこからか甘ったるい花が香った。僕はゆるい流れの中を、赤坂と自分自身の規則正しい靴音に耳を澄ませながら、ゆっくりと進んだ。
「いつもああやって、集まって飲むの?」アパートを出て二ブロックほど過ぎたところで赤坂が言った。
「いや、年に何度かだよ。だいいち集まったところで、あんな協調性のないやつらの集まりだからね、ありゃ集まって飲むとは言わない。個人競技だ」
赤坂は感心したように頷いた。「仲がいいんだね」
「べつに。たいして良くはない」
「バンドに入りたいって思ったことはない?」
「ないね。何か弾けたらいいだろうとはいつも思うけど」
「僕は昔ピアノを弾いていたんだ」
赤坂はアルコールによって柔らかくかすれた声で前方の闇に向って言った。「あのまま続けていればよかったんだろうと思う。うまくはなかったけど、楽器を弾くのは楽しかったから」
「どうしてやめたの?」
「たいした理由じゃないよ。中学に上がって部活を始めたんだ。バスケットボール部。それでピアノを続けるのが難しくなってしまったんだ。だいたい、バスケットボールなんて、ピアノ弾きがやって良いスポーツじゃないからね」、苦笑する。「でも結局、その部活も一年の途中でやめてしまった。要するに根性がなかったんだ」
彼の口元からは微笑みが絶えず、言葉も、話す内容もしっかりとしたものになっていた。ゆったりと喋り、語尾は乱さなかった。
舌の使い方、語尾の切り方、そういったもののひとつひとつで言葉の印象は変わってしまう。赤坂の喋り方には何かしら僕を惹きつけるものがあった――要するに品がいいのだ。世の中には便利な言葉がある。
暖かな、気持ちの良い夜だった。日付はもう変わっていたはずだが、眠さも疲れも感じなかった。このまま何処までだって歩きつづけられそうな気がした。それはもちろんアルコールによって鈍化された大脳皮質のいい加減な判断に他ならないが、自分の体がカップスープの素のようにばらけ、街の闇のなかに溶け込んでいくような感覚は気持ちの良いものだった。この時間がいつまでも続けばいいと僕は思った。
そして、言うまでもないことだが、そういう期待はすぐに裏切られる。事態が逆流現象を起こすまで一分とかからなかった。
それまで快調に歩いていた赤坂が、突然頭を下げて足を止めた。そしてふらふらと道の脇に向って歩き、すっと体勢を低くしてゲロを吐いた――場面はあまりにスムーズに進展したため、僕は何かのスポーツのリプレイ映像を見ているような気分になった。彼はよろよろと歩いて近くの標識のポールにしがみつき、また吐いた。
僕は赤坂に駆け寄り、少し歩かせ、駐車場の立て看板にもたれさせた。通りは静かで虫一匹飛んではおらず、等間隔で並ぶほの白い街灯の光が、汗でぬらぬらと光る彼の横顔を照らしていた。
首をうずめて胸で大きく息をしながら、赤坂は中空の一点に目を据えていた。僕は近くのコカ・コーラの自販機でペットボトルの水を一本買い、彼の傍らにそれを置いた。いくらか動けるようになったところで、赤坂は何も言わず手を伸ばし、水で口をゆすぎ、側溝に向ってぺっと吐き出した。それを二度ほど繰り返したところで、ようやくごくごくと音を立てて飲み始めた。
「平気?」
むしり取るように、ペットボトルから唇を離して首を振る。それだけのことをするのにも、軽自動車を横転させるのと同じくらい体力がいるようだった。
「……しにそう」
僕は何も言わず頷いた。そして同じ自販機で自分のぶんのコーラを買った。
駐車場を囲む金網にもたれてコーラを飲みながら、僕は初めて酔ったときのことを思い出していた。
大学に入るより前のことだ。一人で飲んでいて、飲み過ぎた。どういう精神状態が作用して、そのような馬鹿な状況に陥ったのかよく覚えていないが、とにかく、僕は安物のポートワインを浴びるほどに飲みまくり、ものの見事なカウンターパンチを喰らった。それはもう、絵に描いたようなクリーンヒットだった。
僕はトイレに駆け込み、それとほぼ同時にまるで体中の細胞からにじみ出る廃液がいったん胃の中に集合し、それから逆流の道をたどっているかのように、ごく自然に、口と鼻の孔から消化途上のクラッカーとワインがだらだらと溢れだした。僕は便器を抱えて吐いたが、そのうちに便意を催してズボンとパンツを下ろした。腹に力を入れるとまた吐きそうになったが、どうにかこらえた。排便をすませると便器を抱え、濁った水の渦に向って再び吐いた。つんとした匂いが目に染み、涙が滲んだ。吐いたぶんの液体は静かな円を描きながらいつまでも便器の中を彷徨っていた。まるで古い夢のように。
上下の穴をきちんと締めて生きてゆくことは難しい――それがこの件を通し、僕が得た教訓である。自分が汚いパイプであることを僕は自覚した。どんなに素晴らしい物も、僕の体を通せばただの汚物になってしまう――つくづく自分が嫌になったが、それは僕だけの責任ではないのだ。
赤坂の嘔吐の波がある程度遠くまで引いたのを見越して、僕はスマートフォンで近場のタクシー会社に電話をかけた。三分ほどで、イエロー・キャブのタクシーが狭い通りを窮屈そうに抜けてきた。
ぐったりと座り込んだ赤坂を見て運転手は露骨に嫌そうな顔をしたが、僕はぺこぺこと頭を下げながら彼を引っ張り上げて車に乗せた――力を失った身体はまるで鉄とチタンでできた軟体生物のように重かった。浜辺に打ち上げられたサイボーグ・ダイオウイカと格闘しているような気分になったが、それでもどうにか赤坂を人間らしい姿勢でシートに座らせることには成功した。
隣に乗り込む途中、僕は詫びの言葉を耳にした。
だらりと開かれた赤坂の口から漏れたものだった。
「……いいから、住所は?」
彼はそれを口にした。
「はい」と運転手は応え、それからしばらくして、「ここで吐かないでくださいよ」と言った。
「すみませんね」と僕は言った。
運転手にとっては幸運なことに、それは長いドライブではなかった。千円札でお釣りがくる程度の距離だ。
今度は僕が先に降り、赤坂を車から引っ張り出す。赤坂は何も言わなかったが会釈するように何度か頭を下げていた。彼の右足が地面に着くと、タクシーは派手な音を立ててドアを閉じ、ものすごい速度で街の方へと走り去った。
それは三階建ての、なんてことのないアパートだった。薄汚れた白い外壁に沿って縦三列、横四列の扉が貼りついている。雨ざらしの錆びた階段を上りながら「鍵は?」と僕が尋ねると、赤坂は四十キロ離れた地平の先から、鉛でできた右手を左のポケットに向って伸ばし始めた――僕はそれを制し、彼のポケットに手を突っ込み、金属製のリングに通された二つの鍵を取りだした。どちらが部屋の鍵であるのかは分からなかったが、最初に突っ込んだ方で正解だった。小気味のいい音とともに鍵が開いた。鍵の開く音ほど小気味のいいものはない。
部屋の中は薄暗く、そのうえ憐れなほどに無個性的だった。黒い木製のベッド、折り畳み式の丸テーブル、小型プレイヤー、PCの関連機材……ざっと目につくものといえばそれくらいだ。個性と呼べそうなものは、ベッドの脇に据えられた本棚にしかない。
黒いアルミ製の三段式で、その最上段に四冊の文庫本が並んでいる。いずれもアメリカ文学の訳本で、背表紙はうっすら黄ばんでいた。古本屋で買ったのだろう。その下の段には分厚い教科書類、一番下の段には色とりどりのファイルが、一ミリの隙もなくびっしりと並んでいる。どことなく人を不安定な気持ちにさせる眺めだった。
僕はベッドのへりに赤坂を座らせ、廊下に設置された簡易キッチンで入念に手を洗った。コンロが備え付けのIHで、おまけに口が一つしかないことが彼への同情心を強くした。もっと多くの人間が、ひとつしかないコンロの悲しみを知るべきなのだ。これではソースを作りながら、スパゲッティを茹でることもできないのだ。
部屋に戻ると、赤坂は座った姿勢のまま横倒しになっていた。すうすうと深い寝息をたてている。近づいてみると、酒の匂いはするものの、呼吸の仕方に問題はない。僕はクロゼットの扉に背をもたれて座った。
腰を落ち着けると、それまでの疲れが、待っていたようにどっと押し寄せ、眠気となって僕を襲った。
ぼんやりと赤坂を眺める――学園祭のライブで僕を助けた男は、いま、僕の目の前で巻き寿司のように眠っているのだ――不思議な感じがした。僕たちに接点と呼べるものは何もない。共通の友人すらいない。にもかかわらず、僕はいま立ち上がって、台所から包丁を持ち出してこの男を殺すことさえできるのだ。やろうと思えば確実にやれるだろう。それをしないということは、この上ない親密さの表れであるような気がした。
奇妙な縁だ、と僕は思った。彼は僕の本当の名前すら知らないのだ。
僕はクロゼットを開き、最初に目についたブルーのタオルケットを引っ張り出し、自分の体に巻き付けた。クロゼットの中にはいくつかのカラーボックスや来客用の布団などが入っていたが、それらはすべてホテルの備品のように、清潔で、文句のつけようがないほど整頓されていた。
でも、妙なことが一つだけ。
掃除機が見当たらなかった。恐らくは目につかないどこか別の収納にでもしまわれていたのだろう。ここはそういう部屋だった。
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