第11話 友だちがいっぱい

 思い返せば赤坂は物語というものに対しかなり懐疑的な男だったが、中野美咲はあらゆる意味で物語的だった。

 はじめて彼と彼女が一緒にいるのを見たとき――つまり彼らがひとそろいの組みあわせであることを知ったとき、僕には彼らが互いの欠けた部分を補い合うペアであるように見えた。たとえばテトリスのブロックのように。凸と凹が組み合わさり、小気味の良い音をたて、どこか遠い夢の世界にでも消えてしまうように。

 その認識はある面では正しかったが、別の面から見れば爆笑ものの勘違いだった。あえて言及しないが、この先も僕はその手の勘違いを連発する。



「ヘミングウェイは読む?」

 赤坂はビールのグラスを小さく傾けたまま僕にそう尋ねた。「ねえ、読んだことある?《日はまた昇る》とか」

 それから辛抱強く僕の返事を待った。

「あるよ」と僕は言った。

「どうだった?」

「……どう?」

「面白かったかい?」

 赤坂は僕の方も見ずに言った――グラスの底に一センチばかり残ったビールに、死んだ蝉でも眺めるような視線を注いでいる。

「僕は好きだよ」と僕は言った。「そうだな……たとえば釣りのシーンなんかいいな。ワインを川で冷やしたりさ。楽しそうだ」

 赤坂は無言で僕を見た。目がすわっていた。美咲は僕の斜め向かいでにこにこと笑っていたが、口出しはしなかった。僕はビールを一口飲んだ。

「……あと、ブレットを闘牛士と引き合わせる直前の場面もいいな。夜の散歩の場面さ」

 本の話をするとこれはもう、確実に間違いなく嫌な気分になる。不可避的な動く毒沼に向ってドリブルを仕掛けているような気分になる。

「……僕はどうにも好きになれないんだ」

 赤坂がグラスに向ってゆっくりと言った。

「そうかい」

「もちろん、僕の方にキャパシティがないのは分かってるよ。ちゃんとした評価なんてできないよ。でもね、面白くないものはやっぱり面白くないのさ」

「ふうむ?」

「おじさんとおばさんがべろべろに酔っぱらって、好きだの嫌いだの、うだうだやってるだけの話にしか思えないんだ」

「そういう見方だってあるだろうさ」

 美咲はにこにこしていた。赤坂が言う。

「ねえ、これまでにどれくらい本を読んだの?」

 僕は少し考えてみた。これまでにたくさんの本を読み、内容を忘れた。それでは何も読んでいないのと同じ、という気がするし、たぶんその通りだろう。

「さあ」と僕は言った。「でもそれほど多くはないよ」

「そうやって言うのはたくさん本を読んでいる人だけだよ。基準の位置が高すぎるんだ。本を読む人ってのは、本当に読むんだもんな、年に百冊とかさ……」

 赤坂はそこで一瞬黙り、美咲の方を見るともなく見た。

「ねえ、この美咲なんかも、暇さえあれば本を読んでるんだぜ。ホント、暇さえあれば、僕がトイレ行ってる間にでも読んでるんだ。うん……今こうしている時間にだって、本当は読みたくて仕方がないはずさ。そうだろう?」

「ううん、べつに」と美咲はにこにこしながら言った。

「とにかくね」と赤坂。「本をたくさん読む人と読まない人とじゃ、いろんなことが根本的に変わってくる。そうだろう?」

「かもね」

「でも、これはある程度生まれつきみたいなところがあって、読める人は読めるし読めない人は読めない――こういうことはあるね?」

「あると思う」

 赤坂はうんと一度強く頷いた。それから残りのビールを飲み干すと、グラスを持った手をテーブルに載せ、まず小指をテーブルの表面にぴたりとつけてからその脇にしずかにグラスを置いた。

「……本を読むのは面白いかい?」

「すごく面白いよ。本を取り上げられたら肺胞に酸素がいき渡らなくなって死ぬ」

「そういうのがすごく羨ましい」グラスを握ったままぴしゃりと赤坂は言った。

「図書館とか本屋さんに行って、たくさんの本を見るたびに思うんだ。こういうのを全部――とまではいかなくても、千冊くらい読んで、それから外に飛び出して、色んな人に会ったり旅をしたりしてみたら、グダグダした皮がつるんとむけて、中から新しい何かが出てくるんじゃないかってね。そしたらいろんなことが好転するんじゃないかって、いろんなことが、いいように見えてくるんじゃないかって」

「ええっと」と僕は赤坂の顔を横目で見ながら言った。「読めばいいんじゃないかな」

「うん、だから文学部に入ったんだ。心機一転、今度こそ本を読んでやろうって、不退転の決意をもってね」

 それから何度も何度も首を横に振った。

「……でも、ダメだった。読めないものは読めないんだよ。水中で呼吸ができないのと同じだ」

 そこまで言って彼はグラスを持ち上げたが、まだ口はつけなかった。「ページを開くとね、四ページもまともに集中できやしない。それでも無理して読み進めるのは、もう拷問と同じさ。勉強さ。勉強なんて拷問みたいなものだからね。そういうのは本当の読書じゃないような気がするんだ。そうだろ?面白くなくちゃダメなんだろう?」

 僕は麒麟淡麗の缶を口につけ、傾け、ゆっくりと三度喉を鳴らした。

「……ダメってことはないだろう」

「ダメなんだよ」赤坂は断言した。

「勉強じゃダメなんだ。それじゃ何にも変わりはしない。それを読書とは言わないんだ」

 読書をしない人間が、読書の在り方について熱く語る理由が僕には理解できなかったが、美咲はにこにこしていたし、当然ながら僕はこのあたりの段階で、「この女の子は頭がちょっと弱いんだろうな」とほとんど結論を下しかけていた。

「ダメってことはないと思うよ」と美咲は言った。

「君は僕に甘すぎるんだ」

「複雑に考え過ぎるんだよ、赤坂君は」

「性分だよ」

「私は本を読んでも何も変わらないよ」と美咲は言って、コカ・コーラのロゴのついた赤いプラスチック製のコップから、音もたてずに牛乳を飲んだ。

「……息をしてるのと変わらないもの、本を読むのは。赤坂君は空気を吸っただけで、人間的に何かが変わると思う?」

「それはもののたとえだろう。空気と本じゃぜんぜん違うよ」

「違わないよ」

 美咲は涼しげな口調でそう言った。両肘をテーブルの上につき、楽しそうに赤坂の顔を眺めていた。


 後で分かったことだが、このとき美咲はまだ未成年だった。飲み会の席で牛乳なんぞを呑んでいたのはそのためだ。

 赤坂は美咲の言葉を噛みしめて、飲み下して胃と腸で分解して得られたアミノ酸を血液の中に溶かしこむみたいに、体をしずかに前後にゆすっていた。そうして彼女の言葉のひとつひとつに耳を傾けているようだった。


 彼らはそれから一時間二十四分ものあいだ親密に言葉を交わしつづけた。その姿は世界の果てに残された最後の生物のつがいを思わせたが、実際のところ彼らのそばには僕や久保や千駄木や、その他二名のバンドメンバーがいたのだ。そんなものには失われた文明のカリカチュアほどの意味もないようだった。

 金曜日の夜、バンドの打ち上げの席。

 会場は赤坂の友人であるというドラムスの三上君が住む、十二畳のリビングと六畳の和室と、コンロをふたつ備えたキッチンを擁する素晴らしい部屋だった。冷蔵庫の中にはダース単位の発泡酒と黒ラベルとコカ・コーラが入っており、それらが二千円の参加費で実質飲み放題だった。おかげで僕はふだんの禁欲的生活からは考えられないほどのビールを飲み、まどろむ意識をコーラでじゃぶじゃぶ洗うことさえできた。

 打ち上げというわりに場に統一感がないのは、これが本会の打ち上げではないからだ。本会は先週の日曜、つまり学園祭当日の夜に、バンドメンバー含む二十人の大所帯で開催された、らしい――僕は行っていない――会場は沖宮のしゃぶしゃぶ屋で、僕が不参加だった理由は単純である。ライブを最後まで観ていなかったからだ。最後の曲が終わった後、久保はステージの上から打ち上げの参加者を募った。二十人の枠はあらかじめ店に予約を取っていたということだが、埋まらなければどうするつもりだったのかは分からない。余程の自信があったのか、頭が悪いだけかもしれない。

 そんなわけで、この日の飲み会は大した集まりではなかった。そして急な呼び出しを受ける光栄に預かったのは、本チャンの飲み会に参加できなかった僕と赤坂のみで、美咲は呼ばれてはいなかったが来た。でも、そのことに文句を言う人間は一人もいなかった。みんな他人の彼女なんてどうでもいいのだ。

 最もひどい飲み方をしていたのは赤坂だった。彼だけが丸腰でアルコールの容赦なき機銃掃射に晒されていた。彼の前にはすでに数えるのがバカらしくなるほどの潰れた空き缶が、規則正しく二つの長い列を為して並んでおり、その眺めは敗走する小隊の姿を僕に連想させた。隊長は赤坂で、その心はアルコールの暗い海をバシャバシャと音をたてながら泳いでいた。目はじっとりと充血し、まるで救難信号を送るライトのように間断なくしばたたかれている。喋る内容はスカスカで聞くほどの価値もなく、要するにどこにでもいる酔っ払いだった。

 だから彼が突然立ち上がり、美咲を家まで送ってくると言い出したときには、ハッキリ言ってほっとした――そのまま帰ってこないと思ったからだ。

 二人を見送りに立つ者はいなかった。千駄木は椅子から腰を上げ玄関に向って別れの言葉を投げたが、それも単に儀礼的なものにすぎず、久保に至っては何も言わなかった。その他二名のバンドメンバーは、パソコンでサッカーの試合を観るのに忙しかった。

 赤坂たちが去ったおよそ二十秒後に、「なあ」と久保が無駄に重い口を開き、僕に向って尋ねた。

「お前、あいつらと仲良いのか?」

 僕は曖昧に首を振った。肯定とも否定とも取れるような振り方。「女の子の方とは初対面だよ。男の方とは学祭のときに会った。かなり世話になったんだ」

「それは知ってるよ。倒れたのを介抱してくれたんだろう」

 僕は少し迷って頷き、空き缶を手に久保たちのテーブルに移動した。

「三上の友だちだって聞いたけど、どんなやつなんだ?」

「いいやつだよあいつは」ドラムスの三上がパソコンの画面から視線を剥がしてそう言った。久保は鼻を鳴らし、「いいやつって俺はあんまり好きじゃないな」とどうでもいいようなことを言った。それから立ち上がって冷蔵庫へ向かったので、僕は千駄木に話しかけた。

「また久保に付き合わされてたの?」

「見ての通り」と千駄木は言って笑った。「慣れてるけどね」

「人の悪口は感心しないな」久保は淡麗を三本抱えて戻ってきた。そのうち一本をこちらに投げて寄越す。

「悪口じゃないさ」

 僕はプルタブを開けながら言った。

「べつにいいさ、俺だってしょっちゅう人の悪口を言う方だからな。けどそれにはルールがあって、要するに本人のいないところで言わなきゃいけないってことなんだ。本人の前で言うのは、これはもう暴力と変わらない。直接ぶん殴るのと同じだ」

「いない所ならいい?」

「もちろん。むしろそれを言わずにいることは、自分自身への暴力になる」

 僕は肩をすくめて発泡酒を飲んだ。久保と議論するくらいなら、オウムに積分でも教えていた方がマシだ。

「とにかく、ここで俺の悪口を言うことは許されない」

「悪口じゃないって」

「いったい何の話をしてたんだ?」

「悪口じゃない」

「違う」と久保は言った。「赤坂たちと、さ」

「ああ、いや――僕は別に何も。ずっとあの二人でしゃべってたからさ」

 久保はパソコンの方に首をもたげて叫んだ。「三上ィ――お前、あの女の子とも知り合いなのか?」

「いや、よく知らないな」三上はパソコンの画面に向って叫び返した。画面の上では両チームの選手たちがいっせいに左側へ向って走っていた。カウンター攻撃。「――だぁクソそんなところに蹴るやつがあるか……あいつがあの女の子と付き合いだしたのは、大学に入ってからだよ」

「うらやましい話だ」

 久保はそう言ってテーブルに静かに上半身を突っ伏した。「ことモテないことにかけちゃ、俺はちょっとした権威だからな」

「人前であんまりそういうこと言わない方がいいぞ」

 僕は発泡酒をぐびぐびとあおった。発泡酒は穀物で作った炭酸水の味がした。久保はこちらにつむじを向けたまま眠ったように動かなかった。何か声をかけようかとも思ったが、やめた――関わるだけ無駄だ。世の中にはそういう人間が、それほど多くは無いが存在する。久保はその筆頭だった。

 久保が黙り、僕が久保を無視すると、テーブルは死んだように静かになった。こういうとき、千駄木から何かを話し始めるということはまずない――まるでデパートの屋上に設置された遊具のように、彼女はこちらから働きかけない限り、何の行動も起こさない。

「もう飲まないの?」

「これくらいにしとく」と千駄木は言った。「明日は朝から出かける予定あるから」

「バイト?」

 千駄木は正確に二度、ゆっくりと首を横に振った。

「川槻に行くの。お買い物にね」

「一人?」

「なつめちゃん誘ったんだけど、断られちゃった」

 僕は「ふうん」とか何か、とにかく曖昧なことを言って足を組んだ。千駄木は僕の働いている本屋の常連で、なつめとも仲が良い。僕たちはときどきバイト終わりに三人で近くのファミレスに行くが、たいてい僕はビールを、二人はコーヒーゼリーとドリンクバーを注文する。それでも毎回僕の支払いが一番高くなるのは、ファミレスがビールを飲むための場所ではないからだ。

「心当たりない?」千駄木は僕の顔を面白そうに覗きこんでいた。

「何の話?」

「なつめちゃんが明日、何をするのかについて」

「僕といっしょに銀行を襲うんだ。僕が白いセダンを運転して、その金を持って成田に行く。南米で挙式するから来てね」

「デート?」と千駄木。

「だといいね」と僕は言った。「どうにかこぎ着けたんだ。ハッキリ言って、こんなところでビールなんか飲んでる場合じゃない」

 千駄木は慎み深い笑い方をした。

「さくせんは立ててる?」

「まずは挨拶、あとはすべてなるようになる」

「二人でいるときって、どんなを話するの?」

「三人のときとたいして変わらないよ。あとは小説のこととか……」

「なつめちゃんの書いた小説?」

「うん」

「いいな、わたし一回も読ませてもらったことない」

「頼めば読ませてくれるよ」

 千駄木は心地よい間を挟み、ふさわしい角度で頷いた。

「……あなたは書かないの?」

「何を?」

「小説」

「まさか。実習のレポートだってろくすっぽ書けないのに」

「でも、よく本を読んでるよね」

「よく漫画も読んでるよ。でもかめはめ波は撃てないよ」

 千駄木はにっこりと笑って椅子に深く座りなおし、両手を膝の上にゆるく組んだまま、テーブルの奥の低い位置に足を組んで、

「おもしろい」

 と言った。

 僕はすこし傷ついた。「……何か飲んだら?」

「じゃあお茶もらおうかな」と彼女は言った。「あったっけ、お茶?」

「見てくるよ」

「俺が一緒に行こうか?」久保が意を決したように顔を上げて言った――その言葉は僕ではなく、千駄木に向けられたものだった。

 本当に何のことか分かっていない顔つきで、千駄木は首をかしげた。「なんのこと?」

「明日のことさ。川槻に行くんだろ?何を買うのか知らんけど、荷物持ちくらいにはなるぞ」

 時間にすれば三秒ほどのものだったはずだが、長さよりは濃さの面で、その沈黙は強力だった。久保は決戦前夜の陸軍将校みたいな顔をしていた。

「……ううん、いいの」とやがて千駄木は言った。それからしばらくして、悲しそうに笑いながら、「一人で行きたいから」と付け加えることも忘れなかった。

「そうか」と久保は言った。

 僕は冷蔵庫まで歩き、二本目の発泡酒と緑茶のペットボトルを取り出し、新しいグラスと一緒にテーブルまで運んだ。缶のタブを開ける、ぷしこっ、という音は、やたら大きく居間の中に響き、パソコンのスピーカーから発せられるサッカー中継の音に紛れながらいつまでも残っていた。

「……なつめちゃんとはよく会ってるの?」千駄木は僕の方を向いて話題を替えた。

「月曜だけ顔を合わせるよ。入れ違いになることもあるけど」

「いいの?もっとこまめに会っといた方がいいんじゃない?」

「うふふ」と僕は言った――そんな笑い方をするつもりはなかったのだが、口から出た音は「うふふ」だった。

「いいなあ」と千駄木は言った。久保は何も言わなかった。

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