第6話 平日の雨と本屋さん

 翌朝はふだんより二時間遅く起きた。

 僕は学校へ行くのをあきらめ(あきらめがいいことも僕の長所のひとつだ)トーストを二枚焼き、コーヒーをつくり、部屋の真中のテーブルで優雅な朝食を堪能した。コーヒーは二杯飲んだ。使った食器はきれいに洗い、水切り台の上に等間隔で並べた。タオルで手を拭き、キッチンを出て、床に落ちていた糸くずを拾ってごみ箱に捨てた。テーブルを部屋の隅に押しやり、新たに生まれたスペースで二十分かけてストレッチを行った。特にひざ裏は入念に伸ばした。大事なつぼがあるのだ。

 しばらく続けるうち、頭の中にうっすらと膜を張っていた眠気はきれいに除かれ、これでようやく、本当に、いつもの平日になった。

 着替えを済ませると大きな姿見の前に立ち、シャツによれや癖がないかを点検する。スカイブルーのストライプ――三日前にアイロンをかけたばかりなので、まだパリッとしている。

 鏡には大学をサボってアルバイトに出かけようとする大学生の姿が映っていた。


 昨年の秋の終わりのある平日、友だちが僕に鏡をくれた。そいつは巨大な段ボールの板を抱えて部屋に上がりこみ、「ここがいい」などと言いながらそれをPCラックの脇にて掛け、そのまま去っていった。

 僕がショック状態を脱したのはそれから十分ほど後のことだったが、恐る恐る、その薄い段ボールの箱を開いてみたとき、初めに見えたのはぺらぺらの保護用紙だった。

 その下にあったのは自分の姿だった。

 その僕はこの僕を見ていた。下を向いた顔は影になっていた。じっと僕の目を見つめる一揃いの瞳が何を考えているのか、僕にはすぐには分からなかった。

 それ以来、《いつもの平日》は僕の中で姿を変えてしまった――少なくとも僕にとって、それは、完全に失われてしまった、とさえ言えるかもしれない。

 今もそうだ。鏡の中にいるのは左右反転した(公平に言ってor どちらかというと)まぬけな顔をした僕だけであり、彼は僕と同じように、途方にくれているように見えた。

 僕の部屋を襲撃した友だちはそれから三日後の朝に電話を寄越し、「思ったより寒いんだな」と、人生初の関西来訪についての感想を口にした。


 身だしなみのチェックを終えた僕は部屋を出たが、そのときちょうど雨が降り始めた。



 激しくはない、だが身体をじっとりと重くするような糠雨が、少しずつ僕のスニーカーの心地よさを侵していった。十本の指はそれぞれに「こんな陰気な場所に居続けるのは御免だ」と主張し始めていたし、僕も同感だった。しかしどうすることもできない。あちこちの水たまりに視線を配りながら歩く人たちも、だいたいそれと同じような気持ちを抱いているに違いなかった。

 雨の季節が近づいていた。曲がり角で飛び出した自転車を避けるため気前よく水たまりの中に片足を突っ込んだところで、僕は、今年こそは、絶対に、レインブーツを買うぞと通算十二回目の決意を固めた。


 地下へ降りる階段は、泥とよく分からない何かで汚れていた。


 四つ目の駅で地上に出たとき、雨は止んでいた。厚い雲の間からはうっすらと光が差している。



 洋書コーナーで新入荷の本を並べカスタマー・カウンターに戻る――この日もたくさんの人が僕の顔を見ては、「トイレはどこですか」と訊いた。

 トイレはカウンターの右に伸びる通路のつきあたりにある。カウンター脇にはそう記された案内板まで出ているが、それでもトイレの場所を訊く人は絶えない。

 僕は言う。こちらの通路をまっすぐでございます、まっすぐでございます、まっすぐでございます――

 この仕事は完全だ。トイレはかならずそこにある。彼らはすぐにトイレを見つけ、あとのことは自分でする――大なり小なり用を足し、みずからレバーをぐっと引き、悲しみに満ちたこの世界に自らの分身を送り出す――そこに何らかの偶然性が入りこむ余地はない。

 乗車する、駅に着く、降りる。金を払う、酒を飲む、酔っぱらう。排泄する、尻を拭く、流す。自然だ。だから僕に本のことなど聞かないでほしい。本に関しては完全ではない、しかしトイレはある。それが本屋という場所なのだ。

 六時になると仕事を終え、カウンターの裏に設置されたスタッフ名簿に退出時間を記入し、六階の控室へと向かう。着替えを済ませて一階に降りると、ちょうど従業員出入り口から入ってきたなつめと鉢合わせた。

 学校帰りらしく、ベルトの長いオレンジ色のリュックサックに、赤いフレームの大きな眼鏡をかけている。小さい顔をすっぽりと覆ってしまいそうな眼鏡だ。

「お疲れ」と僕たちは声を掛け合った。これは宗教上欠かせない挨拶であって、実際に疲れているかどうかは問題ではない。

「もう帰るの?」と彼女は尋ねた。

「その言い方じゃ、僕が不当にサボってるみたいだな。今日は午前から入ってたんだよ」

「知ってる、月曜日だもんね。でもそんなに早く帰って暇にならない?」

「ならない。明日の予習があるからね」

「予習?」

「実習があるんだ」

「大変そう」となつめは言ったが、あまり同情的な口調ではない。ほかに関心事があるのだ。そして、なつめの関心事などそう幾つもない。

「執筆の調子はどう?」と僕は水を向けた。

「うん」と頷いたきりなつめは表情こそ変えなかったが、体の向きを変えてリュックごと背中を壁に押しつけ、まるで大したことじゃない、といった口調で答えた。

「なんとか書き上げたよ」

「本当?」

「まだちょこちょこ推敲してるところではあるけどね――でも、そう遠くないうちに渡せると思う」

「今度はどんな小説?」

「いつも通りよ。そんなに長くもないし、たいしたことのない、荒唐無稽なただのお話」自分の作品について語るとき大抵の人がそうであるように、彼女も気まずそうな早口でそう言った――そして大きすぎるレンズの端から僕の顔を伺い、念を押すように続けた。

「あんまり期待はしないでね」

「期待してるよ」

 なつめは僕から目を逸らして短く笑った。それは息がつまるような笑い方だったが、どこかに弾むような響きがあって、それが僕の心を暖かくした。

「次はいつ来られる?」

「一週間後の今日。金曜にテストがあるんだ」

「じゃあそのときに……」

「早い方がいいな」

「そう?」

「今週の土曜はどう?お昼にでも、ちょっと会おうよ」

 なつめはしばらく押し黙って考えていたが、やがて一度、二度と小さく頷くと、「じゃあ、土曜日のお昼に」、そう言った。「それまでに原稿、整えておくから」

「楽しみだ」と僕は言った。

 誠実で正直な言葉。

 僕はなつめの小説を読むことが好きだった。読んでいると、生まれてこのかた、ずっと誠実な正直者であり続けてきたような気になれるのだ。

 一瞬の沈黙の後でなつめは僕の顔を見た――そして視線が交差すると何かを誤魔化すように笑い、大きなリュックサックを壁から離し、身体ごと僕の方を向いた。

「こっちから連絡するわ」

 そう言って階段を上ってゆくなつめの背を見送り、僕はしばらくその場に残された言葉の感触を確かめていた。

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