第7話 瓶ふたたび

 葦原の駅前通りをまっすぐに進み、ダイエーの手前で右に折れる。そこからさらに四ブロック歩き、左手の角に印鑑ケースみたいな形の建物が見えてきたら、それが僕の住むアパートです。ようこそ!

 僕の部屋は一階にあり、そのせいか、立地の割に家賃は良心的だった。口が一つしかないガスコンロが備え付けであること、真上の階に住んでいる体育大生が腕立て伏せをするたび天井がきしきし鳴ることの二点を除けば、それは文句のつけようのない物件とさえ言えた。

 僕はよくそこで本を読んだりテレビを見たりする。本とテレビとテーブルと友だちのくれた巨大な鏡くらいしか中にはないが、それで十分に満ち足りていた。

 だから異物があればすぐに気づく。部屋を間違えたのではないかと、本気でそう疑った。

 テーブルの上にはサイダー瓶が置かれていた。

 わずかに中央がくびれていて、中身は入っていなかったが、それが昨日や今日飲み干されたものでないことは一目で分かった。ひびや披裂こそないものの、あちこちにくすみや汚れの跡が付いていた。長いあいだ屋外に放置され、風雨にさらされてきたことの証拠だろう。

 問題はなぜそんな瓶が屋内に、それも僕の部屋の中にあるのかということだった。

 ラベルが巻かれていなかったので、どこのメーカーのものであるのかは分からない。だがいずれにせよ、サイダーなど長いこと飲んでいない――少なくとも、こちらに越してきてからは、一度も。

 右肩にかけた鞄を床に下ろすことさえ忘れ、僕はテーブルから二メートルほど離れた戸口に突っ立たまま、ぼんやりとその瓶を見つめつづけた。灯りのない午後七時前の部屋の光が、ほっそりとした瓶の中に弱々しく滞留している。

 ゆっくりと近づき、そっと手を伸ばす――瓶は冷たくも暖かくもなかった――まさに常温。まるで越して来たときからそこにあったみたいに、固体化した空気の一部分のように、そしてその存在に気づかなかった僕自身が馬鹿であるかのように、部屋の風景と一体化して見えた。僕はテーブルの前にしゃがみ込んで瓶を顔の前に掲げ、左手で仰ぐようにして、その飲み口の匂いを嗅いだ。

 何の匂いもしない。サイダーの甘い匂いもなければ、劇物を思わせる刺激臭もない。

 まったくの無臭。

 瓶の口をさらに鼻に近づけて嗅いでみるが結果は同じだった。

 瓶を抱えたまま玄関に戻ると、僕はドアノブを強く捻って押した――ドアはびくともしない。なぜか?鍵がかかっているからだ。僕はつい数分前、鍵を開け、中に入り、鍵を閉めた――当然のことだ。何の考えもなく、毎日、もう二年以上も繰り返しているおなじみのルーティン。もし帰ったときに鍵がかかっていなければ、当然その時点で違和感に気づく。やつまり僕が帰ってきたとき、鍵はかかっていたのだ。

 念のため窓の方も確認してみた。フック式の鍵は普段と同じようにきちんと上がっていて、窓はびくとも動かない。

 この部屋に、窓は一枚しか存在しない。そしてこの部屋に侵入するには、玄関か窓を通過する以外に手はない。

 つまりここは密室。


 想定されるパターンは二つ。

 一つは怪人二十面相がサイダー瓶を片手に密室たるこの部屋の中に侵入し、瓶をテーブルの上に置いて煙のように消えてしまったという可能性。

 もう一つは、僕がどこかで拾ってきた瓶の存在を、すっかり忘れていたという可能性。

 さて、と僕は考える。どちらが真実であるのか?そして江戸川乱歩を読みふけった中学時代の経験は、ここにおいてようやく役に立つのか?……


 熟考の結果、後者の可能性の方が高いように感じた。僕はけっこう忘れっぽいたちだし、おまけに怪人二十面相は実在しないように思えたからだ。

 しかしそれですべての疑問が解決したわけではない。僕がどれだけ忘れっぽいといっても、部屋のど真ん中に据えられた瓶の存在を忘れたまま日常生活が送れるほど鈍感な人間であるとも思えない。そして外に落ちていた瓶を喜んで拾ってくる意味が分からない。僕は昨日このテーブルでスパゲティを食べ、大量のコーヒーを飲んだ。そのことを覚えている。そのときに瓶はなかった。これはもう、久保の命を賭けてもいいくらい間違いのないことだった。

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