第5話 蛾の幼虫の死、やもりの死

 次に目を開けたとき、驚くべきことに僕はどこかに座っていた。

 目の前を薄汚れた廊下が横切っていて、向いには擦りガラスつきのドアがある――ドアの向こうは暗闇で、ノブは丸く冷たく、どういうわけか孤独そうに見えた。

 それはそうと、喉がとても乾いていた。

「大丈夫?」と隣にいた男が言った。

 ぼんやりと目を上げると、例の背の高い男の視線に行きついた。心配そうに、しかし半ば笑いながら、僕の顔を見つめている。

「気分はどう?」

「あー」と僕は言った。正真正銘嘘偽りのない言葉。

 あー。

「えーと、うん、大丈夫」

 じっさい気分は悪くなかった。喉の渇きこそが問題なのだ。まる百年間も水を飲んでいないような感じがした。

「今は西暦何年?」と僕は尋ねた。

「え?」男は目を丸くして、「……二〇一五年、だけど」

 僕は首を振った。「やれやれ、僕は実は、二〇一五年からやって来たんだ」

「……大丈夫?」

 男の笑顔がやや薄くなる。

「大丈夫だよ。寝ぼけてるから、面白くないことを言いたくなるんだ」 

 少し困った顔で男は笑った。僕は両手で目を擦った――違う人間に目を擦られているみたいだ。では僕は誰の目を擦っているのか?――ずいぶん馬鹿なことを考えているな。僕は僕の目を擦っている。それは間違いないことだった。しかし目を開いていない限り可能性は無数に存在する……やれやれ、と僕は思った。いいからもう目を開け。それだけのことじゃないか。

 僕は目を開いた。そして急激な自己嫌悪に襲われた。

「僕、どうしちゃったのかな」

「ライブの途中に倒れたんだ」生真面目な声で男は言った。「正確には倒れたわけじゃないけど、ふらっとして――ふらっとして、そのままボーっとしてた。何となく妙な感じだったから、あわてて外に連れ出したんだ」

 僕はしばらく記憶をさぐってみたが、何も出てこなかった。何も出てこないことは初めから分かっていた。

「覚えてないな」

「意識はあったみたいだけど」

「違う人間が中に入っていたのさ」

「そう?」

「ときどきあるんだ、そういうことが。僕の中には八つの人格があってね、日本人が五人にフィリピン人が三人、そのうちの一人はアメリカ籍を取得していて――サリイってのがそいつの名前なんだけど、彼がもう、女の子に目がなくてね。僕はこれまでに十三人の知らない女の子から交際を断られたんだけど、それは大抵サリイのせいなんだ。それで嫌なことがあったときはこう考えることにしてる、またサリイが何かやったんだって……」

 言いながら悲しくなった。

 男は考え深げに頷き、それから慎重に笑った。知能テストを受けている猿みたいな気分になった。

「ごめん」と僕は言って頭を下げた。膝のあいだに垂らした両手をパーにしたりグーにしたりしてみたが、気分はパーにもグーにもならなかった。

「……おちょくってるつもりはないんだ。ただ……混乱してる。こんなことは初めてだから、どう謝っていいかも分からなくて」

「そんなこと」と男は言った。柔和な微笑はそのままだったが、消化試合のような沈黙は、容易にぬぐい去れるものではない。

 ずっと遠くでくぐもったロックが延々と鳴り続けている。

「何かおごらせてくれないかな」しばらくして僕は言った。「お礼がしたいんだ。何んでもいい」

「気にしないで」と彼は言った。

「一緒にジュースでも飲もうよ、喉が渇いて死にそうなんだ」

「いいよ。でも僕のぶんは僕が払う」

「おねがいだから」と僕は言った。「僕に払わせてくれよ。僕のプライドのの字がね、この一件に懸かってるんだ」

 男は長椅子の上で足を組んだまま動かなかった。僕は膝の上に肘を立て、胸の前で両手を組み合わせて、ゆっくり上体を前に倒した――そして斜め下から、彼の横顔を覗き込んだ。

 彼の顔は笑っていなかった。僕も笑ってはいなかった。

「良いことやっておけということだね」と彼は言った。

「確かにその通りだ」



 それでその日は終わり。

 僕たちは適当な出店を選び、グレープフルーツジュースを飲んだ。

 二〇〇円のプライド。

 看板には『100%しぼりたて』と書かれていたが、ジュースは紙パックのものだった。まあそういうものだろう。僕は二人ぶんの料金を払い、彼はそのことに対し丁寧に礼を述べた。教室の向かいのバルコニーに出てジュースを飲みながら馬鹿話をしたが、それも初対面でする程度の節度ある馬鹿話だった。

 男は赤坂と名乗った。

 ジュースを飲み終えると、別れの挨拶を交わし、べつべつの方向に歩き出した。友だちとの待ち合わせがあるのだと彼は言った。そして僕は、いつもどおりの休日を過ごす僕自身に戻った。しかし近所のスーパー・マーケットでは購入するパスタの種類を間違え、パスタをゆでるのにタイマーをセットし忘れ、シャツにトマトソースのしみをつくった――生活が身体の上を、つるつると滑っている感じだった。行動に実感というものが湧かないのだ。

 僕はその責任の所在をカフェインの欠乏に求め、パスタを食べた後でとびきり苦いコーヒーをたてつづけに三杯飲んだが、何も変わらなかった。一人の男がしかめ面になっただけだ。コーヒーはとても飲めたものではなかったが全部飲んだ。おかげで口の中で蛾の幼虫を育てているような気分にはなれた。僕は舌の根から唾液を絞り上げ、コーヒーといっしょに飲み下した。蛾の幼虫は胃酸のプールの中に流し込まれ、人知れず死んだ。しょせんはそういう運命だったのだ。

 気分を変えるためにテレビをつける。日テレで広島-巨人の試合をやっていたのでそれを見ることにした。僕は赤が嫌いなので巨人を応援したが、その判断は間違いだった――便秘を治すにはもってこいの試合だった。ランナーが溜まっては長打が出て、赤いユニフォームの選手たちが、まるで冷凍マグロのように次々とホームに滑りこんできた。五回の途中に三人目のピッチャーが七点目を献上したところで、僕は試合を見るのを諦めた。僕は福岡出身で、ホークスファンだ。巨人がどうなろうと知ったことではない。

 そんなわけでテレビを消し、ホークスの途中経過を見るべくスマートフォンを取り出した。

 そして千駄木からのメッセージに気づいた。

 受信は一三時○四分。以下本文。


 《どうしたの?大丈夫?》


 僕はしばらくじっと画面を見つめ、座椅子に背を預けて天井を見上げた。

 起き上がり、透明なカバーつきのスマートフォンをテーブルの上に置いた。

 マグカップを手に立ち上がる。

 流し台に立ち、たっぷりと洗剤を染み込ませたスポンジで、コーヒーサーバーとコーヒーカップを洗った。ぱりぱりに乾いた布巾で水気を取り、博物館の学芸員のような手つきで戸棚の奥にしまいこんだ。

 扉をぱたんと閉め、テーブルに戻り、座椅子に腰を下ろして右足を左腿の上に組んでから、しばらく由のないことを考えた。それからスマートフォンに手を伸ばした。そして、新しいコーヒーが飲みたいなと思い、立ち上がって湯を沸かしに行った。

 僕はラインが嫌いだ。あの緑色が胡散臭いと思う。

 《ありがとう》と僕はまず書いた。

 それからちょっと考えて《少し気分が悪くなっただけ。体に悪いくらいノッてたからね》と書き添えた。

 我ながらしょぼい文章。

 文章を書くことの難点は自分の言葉を直視しなければならないことにある。会話はすべて一瞬で空気になり、それがどこへ消えようと全く問題にはならない。だが文章は違う。文章は残る。まざまざ見せつけられるのは他人から見た自分の姿だ。それは誤解だと言いたくなっても、代わりに提示できるものは何もない。

 

 一分ほどで返事が来た。


 《大丈夫ならよかった!

(ここに女の子のキャラクターが『わーい』といった感じで両手を上げているスタンプが押されている)

  今日はわざわざ来てくれてありがとうね》


 僕はそれにふさわしい返事を書いた。その後のやりとりは三分間続いた。互いにたいしたことは書かなかったが、最後に千駄木は《おやすみ》と書き、僕はそれに対して《おやすみ》と返した。

 それで終わり。僕のスマートフォンは死んだやもりのように大人しくなり、死んだ画面にはジグザグ状に、僕と千駄木の会話の断片が残された。

 僕はスマートフォンの電源を落とし、久保がステージの上でやっていたのと同じように、唇を大きく横に引っ張って、それからゆっくりと、意図的に何度か首を横に振った。




 シャワーを浴び、布団に入ったのはいつもどおりの時間だった。しかし妙に目がさえて、寝つくのに時間がかかった。


 そして浅い眠りから覚めたとき、まだ部屋は暗かった。朝のことを思うとそれだけで気が滅入る。時計を見る気にはなれなかった。眠ろうと思っても一度去った眠気はなかなか戻ってこない。僕はあきらめて目を開き、布団から抜け出した。

 灯りをつけるまでもない。何がどこにあるのかくらいは分かる。

 キッチンの水切り台からコップを取り上げ、蛇口から水を取った。耐えがたいほど喉が渇いていた。あれだけコーヒーを飲んだのに、なぜこんなに喉が渇くのだろう。安部公房の『壁』を思い出す。僕は肺に強烈な陰圧を抱えていて、雑誌のグラビアに載っていた砂漠をまるごと吸い込んでしまうのだ。僕はそのことで咎められ、裁判にかけられる。

 そして言う。

 まったくそんな気じゃなかった、と。

 その気持ちはよく分かる。

 コップを手に持ったままシンクの縁に腰かけ、暗い室内を眺めた。カーテンのないスリガラスの窓から見える幾つかの光は、まるで几帳面な星座のように等しい光量で行儀よく輝いていた。ビルの灯り、車の灯り、街灯の灯り……僕とは関わり合いのない光の群れだ。「寝ろよ」と僕は口に出して言ってみた。自分に向けて言ったのだ。

「寝るよ」と僕は答えた――眠らなければならなかった。そこに枕と空間があれば泥の中でさえ熟睡できるというのが、僕の数少ない長所であり、ただ一つの誇りだったのだから。


 何かが僕を眠れない人間に、誇りのない人間に変えていた。僕はカフェインの過剰摂取にその責任を求めたが、あるいは、それだけではなかったのかもしれない。他に原因はあったのかもしれない。

 そんなことは誰にももう、分からない。

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