第4話 再会

 彼はサイダーの瓶を見ていた。

 それを右手に持って、まじまじと見つめていた。

 瓶は淡いブルーのガラス製で中央がくびれ、ラベルは巻かれていなかった。中身もなかったが、あちこちには古戦場の草叢のようなくすみがついていた。指で擦っても消えない。

 瓶の内側についているのだ。

 彼は瓶を持ったまま立ち尽くした。

 そこは大きな倉庫だった。目の前にはたくさんのものがあった――ものとしか言いようがない。他にうまい表現は浮かばない。

 60インチはあろうかという巨大なブラウン管テレビ、アールデコ風の装飾が施された大きな書きもの机、斜めに立て掛けられた木製の雨戸、回らない扇風機、目に痛いほどの赤いスポーツカー、コルト社製の大型リボルバー、かびの生えた白い手漕ぎボート、ほとんどカラッポのUFOキャッチャー――中には丸いマーティン製のギターがひとつ――褶曲した小さな石橋、裸の女のマネキン人形、真新しい88鍵盤の電子ピアノ、猫の形をした金属製の傘立て、洗濯機くらいの大きさのミニチュア凱旋門、ブルドーザー型のラジコンカー、背の高い南国風の観葉植物――

 エトセトラ、エトセトラ。

 すべて書き尽くすことなど出来そうにない。これでもまだほんの一部でしかないのだ。倉庫はコンサートホールのようにだだ広く、ずっと奥にまで、そういった、役にも立ちそうにない物が並べられていた。周囲は静かで不思議に明るく、埃っぽい空気の中には微かな潮の匂いがあった。

 テレビの画面は暗かった。彼とその背後に控える景色が、まるで鏡のように映り込んでいる。大きく開け放たれた入り口からは快晴の空と海が見える。

 浜や港が映りこまないのは倉庫が高台にあるせいだ。

 誰かがこちら側に上ってくる足音が聞こえていた。


 その誰かは顔を覗かせる直前で立ち止まった。海と空の境界にちいさな黒い丘陵が現れる。やがてそれは四、五歳くらいの男の子の頭の形に代わる。

 椎の実のようにつやつやした髪の毛、丸い頬、初春の野花のように小さくすぼんだ唇――眼は丸く大きく、まるで縁日のビー玉のように黒々と光っていた。その目が彼をじっと見つめていた。彼もじっと見返した――それはまるで、生まれて初めてビーバーを見るイノシシと生まれて初めてイノシシを見るビーバーが対峙しているような図であったが、彼はふいに、その男の子と自分が初対面でないことに気づいた。

 男の子は何も言わず(手も振らず)、ぱっとこちらに背を向けると、そのままどこかへ走り去ってしまった。

 階段を駆け下りる音が遠ざかると、あとにはもう何も聞こえなかった。まるで海そのものが彼から遠ざかったみたいだった。


 それからしばらくは何も起こらなかった。彼はじっと動かず、ただ遠くの海と空とを眺めていた。そういった光景の中に時間の尺度として機能するものは無かった。これだけたくさんの物に囲まれていながら、動いている物はひとつとして存在しなかったのだ。

(音は物質の振動によって生みだされる波にすぎない。動きが無ければ音はない)

 彼は胸に手を当ててみた。心臓の鼓動さえ失われていた。


 かたん


 という音に彼は振り返った。

 ひとりの少女がギターを抱え、巨大なブラウン管テレビの上に腰かけていた。

 真っ白なワンピースを身に着け、はだしの両足を画面の前でぷらぷらと揺らしている。彼の方を見ると、微笑み、足のぷらぷらを止めた。それからきゅっと音をたて、ネックを深く握りなおし、長い足を軽く組んだ。

 ほっそりとした指がいちばん太い弦をはじく、ぼおんという古いギター特有のくぐもった音を聞くと、彼は、記憶の深い部分から何かが蠢きはじめるのを感じた。彼女の左手がなめらかに動き、二番目、三番目の音を紡ぎだすと、その音の連なりはメロディとなり、続く音が泉のように溢れだした。

 それはとても美しい曲だった。

 彼女は指板に目を落とし、体を揺すりながらギターを弾いた。

 波の音がギターの音に重なると、ふたたび風が流れだし、懐かしいような匂いが彼らの空間を包みはじめた。


    ☆


 再会。

 まるでお気に入りの子猫を柔らかなブランケットの中に戻すように、やさしく、彼女はその美しい曲を弾き終えた。

 最後の旋律が風の中に消えてしまうと、微かな波の音だけが残った。

「ひさしぶり」と彼女が言った。

「ああ」と彼は言った。「かわらないね」

「幽霊だもの」と彼女は答えた。


 そう――思い出した。彼女は自分のことを幽霊だと言っていたのだ。


 話はそれで終わり。

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