第3話 呉崎君

 ホール前のスペースは火葬場の待合室と見まがう陰鬱さだったので、何人かの客は尻尾を巻いて逃げだしたが、僕たちは堪えた。

 側面の窓から投げ込まれた日差しが僕たちの足元に光の池を作っていた。その中に一匹、大きな蠅があてもなく飛び回っている。

 一旦ひとところに落ち着いたと思えば、三秒と待たずまた飛び始める、そうして三センチも違わぬ場所に降りるのだから、蠅という生き物は馬鹿なのだろう。光の中にあって、しきりに手を擦る仕草は太陽神に祈る姿にも似ていた――音楽の良しあしが分からないことに関しては、蠅が羨ましかった。

 それからさらに二曲をやりすごしたところで、隣の男が再び口を開いた。

「ああ」と彼は言ったのだ。「こりゃあひどい」

 僕は思わず笑った――それは僕の心の声でもあったからだ。

 たった今、僕の存在に気づいたというように、男は不思議そうな目で僕を見た。

「次のバンドを待っているんですか」

 僕はそう尋ねた。

「……ええ。友だちがドラムを叩いているんです」

「かりだされた?」

「らしいですね」男はしばらくして言った。「あなたは?」

「同じです。友だちが出てるから来たんです。ボーカルとベース」

 男は陽だまりの上に目を落したまま、何度か頷いた。「二人とも医学部の方でしたよね」

 医学部の方、という言い方に、何か念を押すようなニュアンスを感じた。

「知ってるんですか?」

「ええ、その――ドラムの友達に聞いたんです。医学部の人たちが、他の学部の学生と組むのは珍しいってね」

 そう言い、男は伺うように僕の顔を見た。「じゃあ、あなたも医学部?」

「ええ」

 瞳の中に小さな光が灯る。「まさかとは思うんですが」と彼は前置きをし、「やっぱり、そうですよね?」と続けた。

「呉崎君ですよね?」

 僕は返事をしなかった。質問の意味が分からなかったからだ。ボーカルは久保だし、ベースは千駄木で、僕の名前も呉崎ではない。

 呉崎君って誰?

「覚えていないかもしれませんね」興奮気味に男は続けた。「去年『生物多様性』の授業のとき、僕はあなたの隣の席に座っていたんですよ」

「はあ。……?」

「それで一度、ルーズリーフを借りたんです」

 僕は注意深く、失礼にならないよう注意しながら、じっくりと男の顔を観察した。ひっかかるものは何もなかった。

 でも僕が昨年『生物多様性』の授業を取っていたことは事実だ。単なる人違いというわけではないのだろう。

 いっそこのまま訂正せずに『呉崎君』のまま話を進めてみるのもありかもしれない。少なくとも、ライブまでの退屈しのぎにはなるはずだ。

 気の利いた返しを考えているうちに曲が終わった。今度こそ、本当に終わった。開け放たれたドアから哀れな捕虜たちがぞろぞろと溢れだしてくる。彼らの多くは五年ぶりに取り換えられた掃除機のフィルタみたいに疲弊していたが、満足げな表情を浮かべた客も中にはいて、蓼食う虫も云々と僕は心中で呟いた。

 誘導係の学生が客をあらかた外に出し終わったあとで、僕たちをホール内に導いた。



 中は暗く、空気は冷たかった。ライトアップされたステージの上からは救われない霊魂のようにドライアイスのもやがこちら側へたれこめていた。

 オール・スタンディングの客席はあっという間に埋め尽くされ、満員の客によって入り口から漏れる光は見えなくなった。学園祭のライブにしては大した盛況だ。僕たちは前から三番目の列をキープすることに成功した。まるで黒い絵の具のように、がやがやという喧騒が客と客との間に生じた最後のすきまを塗り潰している。

 すごいですね、と僕のちょうど斜め上から男が笑いながら言ったので、僕も笑った。

 不意に小さな歓声が起こった――高校生みたいなカッターシャツにブルージーン姿の久保が、ギターを抱え、窮屈そうにステージ左奥の小さな扉から現れたのだ。彼は小さく振るように首を上げ、唇を大きく横に引っ張って、ひからびた爬虫類を思わせる細い目をさらに細くした。他のメンバーがそれに続き扉から出てくる。まるでもぐら一家の引っ越しみたいだ。その中には千駄木の姿もあった。GET BACKとプリントされた白Tシャツの上に、ネイビーのカーディガンを羽織り、クリーム色のムスタング・ベースを腰の前にぶら下げている。

 彼女は大きなアンプの前でこりこりした視線を客席に送り、僕に気がつくと曖昧に笑った。僕はそれに応えて小さく手を振ったが、一瞬遅かった。その時にはもう、千駄木はこちらに背を向け、何かの機材の調節をしていた――彼女が動くたびに動くムスタングが、白いライトを反射してきらきらと光っていた。ほっそりとしたネックの先には千駄木の小さな左手があり、その先には彼女の左腕が伸びていた。解放弦の音を何度か響かせたところで千駄木は体をごとこちらに向いた。

 弾むようなバスドラムの音がざわめきを吸収して冷たい空気の中に消える。リードギターがハイトーンのショートフレーズを弾いた。久保はマイクの位置を調節してと言った。そして沈黙――あちこちのアンプからは、ボロボロのビロードみたいな雑音が漏れ聞こえている。他には何も聞こえない――ギターのネックを握り直した久保が小さな声でと言うと、ドン、とドラムスが叩き、一曲目が始まった。

 エレキギターを掻き鳴らしながら、久保はものすごい形相でよく分からないことを叫んでいた――歌詞などろくに聞き取れはしなかったが、それは大した問題ではない。大した歌詞ではないからだ。なぜそう言い切れるのか?そのデタラメな脳みそのあちこちからデタラメな歌詞を集め、白い紙片の上に折り目正しく並べてゆく彼の姿を、僕は間近で見ていたからだ。


「《ドギー・ホール》っていうのはどうだ?」と久保はあのとき言った。

「ドギー・ホール?」

「うん」

「……犬の穴?」

「ああ」

「なんだよそりゃ?」

「俺が知るわけないだろう」久保は純朴そうな顔で言ったものだ。

「カーネギー・ホールの妹分か何かじゃないかな?」

 僕が何も言わずに無視していると、久保は紙に目を落としたまま、まるで失われた経典でも紐解くみたいに語った。

「ドギー・ホールのステージは観客でいっぱいさ。俺はそこで演奏をするんだ。一分間のソロの途中、俺のギターは新しいギターを出産する。真っ白なライトを一身に浴びて、ビッグバンドを背後にジャカジャカジャカジャカやっていると、どこからともなく、ふわふわと、タンポポの綿毛が飛んでくるんだ……そしてこのあたり(と久保は膝に載せたギターのブリッジのわきをとんとんと叩いた)にくっついて、それはそれは、ものすごい化学反応が起こる。人類が未だ見たことのないようなとんでもない変化だ」


「そして、新しいギターが生まれるんだ」


 ご覧の通り、久保のギャグのセンスは酷いものだったが、観客たちの熱狂は中々すさまじかった。これほどの数の客を盛り上げることができるのだから、彼にも何かの才能はあるのだろう。ロックは馬鹿のための音楽なのかもしれない。

 ふと隣を見ると、背の高い例の男は、にこにこと笑いながら他の観客と同じように掲げた右腕をリズムよくぶんぶんと振っていた。そして僕の視線に気づき、よりにこやかに表情を崩しながら何かを叫んだ――演奏がうるさすぎて何を言っているのかは分からなかったが僕はとにかく笑顔で「そうだね!」と叫び返した。そして、まるで何かしらの奇跡を目の当たりにしているようなその横顔を眺めながら、この男は、僕が来なかったらこんな風にニコニコと笑いながら一人で腕を振っていたのだろうかと考えた――たぶん、その通りだろう。友だちに駆り出されたというのは、いかにも消極的な理由だ。いまの彼からは想像もつかない――もちろん僕も彼と同じように右腕をぶんぶんと振っていた。こういうライブで腕を振らないのは、エレベーターの中でカレーを食べるのと同じくらい非常識で糾弾されるべき行為なのだ。だがステージの上から見る僕たち二人の組みあわせは、おそらく相当に奇異なものに映ったはずだ。どちらがより滑稽という話ではなく、その対比そのものが非常に笑えるのだ。

 かたや世界中の希望詰め合わせパックを前にしているような一点の曇りもない笑顔と興奮。

 かたやその意味不明の歌詞の解読すら放棄し、時が流れるのを待つだけの死に体のジェスチャー。

 後に聞いた話によると(千駄木が聞かせてくれた)、この日の僕たちは、ニワトリと精肉業者のように見えたという。その非現実性には目を瞑るとして、それはある真実を突いた喩えではあったかもしれない。

 そんなこんなの熱狂のうちに一曲目が終わり、観客席から歓声の花火が打ちあがった――隣の男は高く掲げた右腕をちぎれんばかりに振り回した。彼が目立った存在にならなかったのは、周りにいた客たちも大体それと同じようなことをしていたからである。それに対して久保は汗まみれの顔をニヤリと歪ませた。優秀なイタズラを思いついた糞ガキのように。千駄木はムスタングのカーブに両手を載せて休んでいた。短い休息のあとでリードが歯切れのいいカッティングを開始し、久保のギターがそれに重なった。ドラムスが四拍のカウントを入れると、それが何の曲であるのか僕にも理解できた。

 ナンバーガールの『透明少女』。

 アレンジはそう極端なものではなかったが、やはりオリジナルとは違っていた。そして、それは好ましい類の変化ではなかった。何か、気持ち悪かった。音と音の間に得体の知れない歪みようなものが押し挿まれている感じがした。

 だが誰もそんなことは感じていないようだった。久保はやはり狂ったように笑っていたし、まわりの観客たちの顔つきも大体それに準じるものだった。


 今になって思えば、曲を歪ませていたのは僕自身の耳だったのだ。それからステージライトの光線と、目には見えぬ天然の放射線――見えるものと見えないもののごった煮。そういうものによって僕の中で何かが掘り起こされようとしていたのだ――いや、あるいはそれは、様々な証拠がそろってから考えたことだったかもしれない。そのときに感じたのは猛烈な気持ちの悪さだけだったかもしれない。

 時間の幅はアコーディオンのように伸縮し、Bメロの後にAメロが聞こえた。空虚な久保の笑顔を中心に景色が回り、靄の粒が膨れ上がって散弾銃の弾のように変形した。

 千駄木の顔が爪楊枝のさきっちょのように見えたところで最初の眩暈が僕を襲った。僕は何かに触れ、続いて次の波にあっさりと飲みこまれてしまった。

 そして気がついたときには、まったく知らない場所に流されていたのだ。

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