第2話 ひとつめのポイント

 自転車を駆りつづける間、太陽は元気よく、僕にむかってさんさんと照りつづけていた。

 空はまるで下からライトを当てているみたいに明るく、無邪気な期待に満ちてどこまでも透明だった。

 そのとき僕が思い描いていたのは、格闘ゲームの画面の右側に立っている自分自身の姿だった――つまり、頭に鉢巻を巻いて、ファイティングポーズをとっているのである。相手はいない。が、HPは減りつづけている――赤いランプが点滅し、ブザは絶え間なく鳴り響いている。

 僕をそこまで追い込んだのは信号機だった。

 古い町は多くの信号機を抱えている。それらはまるで申し合わせたように赤いランプで僕を歓迎し、僕はもちろん謝意を表するため一時停止を余儀なくされた。照りつける太陽、太陽、太陽――見る間にシャツは湿り気を帯び、背中に張り付き、風通しが悪くなった結果さらに汗が噴きだした。

 汗が首筋を伝い、信号が変わる。走りだす。

 また止まる。

 最後の信号もやはり赤だった。僕はハンドルに両肘をついたまま、対面の歩道を行く人の流れを眺めた。疑いなく校門へと吸いこまれてゆく。追い込み網にかかるイワシの群れといったところだが、僕もその一員になるべくここにいるのだ。

 その運命を阻んでいた信号機は、今思えば、僕に向ってこんなふうに問いかけていたのかもしれない。


『本当にいいのか?』

『今ならまだ引き返せるぞ』


 信号機にも人間臭い一面はあるようだ。取るべき道が一つしかなかったことは言うまでもない。

 回れ右して家に帰ること。

 そうしようかな、とも一瞬思った。異様なまでの暑さのせいだ。しかし結局のところ、真に意味ある忠告は必ず無視される。そういうものだ。疑う人は何でもいいから、本を読んでみるといい。世界をより良くするため、文学がどれほど役に立たなかったかが分かるはずだ。



 校門の先は想像以上の賑わいだった。小学生のころ、ドームに野球を見て行って以来、これほどの数の人を見たことはない――大学生だけでなく、家族連れや、中高生もいた――春らしい恰好をした人や、汗だくのTシャツを着た人や、大きな着ぐるみを着た人や、変なコスプレをした人や、叫んでいる人や、はしゃいでいる人がいた。

 様々な人が学園祭を謳歌していた。

 僕はしばらくの間、自転車に跨ったままその雑踏の中を進み、やがて諦めて押し歩いた。もみくちゃにされながら駐輪スペースまで歩いたが、そこは見事なまでの飽和状態で、大きなルーフの下に納まっている自転車の数はものの半分にも満たず、それ以外の自転車は前列の自転車の後輪と後輪のあいだに無理やり前輪をねじこまれ、後輪はなす術もなく歩道にはみ出しているといったありさまで、そこに新規の自転車を加えることは、何というかもう――満漢全席を完食したあとでバケツいっぱいのマンゴープリンを平らげるくらいに無茶なことだったが、僕はどうにかそれをやり遂げた。どうやり遂げたのかは覚えていない。僕たちの日常は無数の奇跡に彩られている。

 中央棟に向け歩き出し、腕時計を見て歩くスピードを上げた――予定の時間を十五分近くもオーバーしていた。千駄木たちのライブが始まるのは十一時二十分。現在時刻は十一時十七分――余裕を持って家を出たつもりが、着いてみれば遅刻のギリギリだ。僕は信号機を恨み、信号機を裏で操作した何者かを呪った――もちろん、僕に忠告を与えた人物のことである。

 が、まだ望みはある。学園祭のライブはワンマンではないのだ。千駄木たちの前のバンドがちんたらやっていることを僕は祈った。



(本日二度目の奇跡)

 僕がライブ会場である中央棟四階多目的ホールの入り口前に到着したのは十一時二十一分のことだったが、ホール内ではまだ千駄木たちのひとつ前のバンドが演奏を続けていて、内部の喧騒はぴたりと閉ざされた重たい鉄扉の向う側からかなりの音量で漏れ聞こえていた。メタルを気取ったような甲高い男声ボーカルが刷毛で塗ったように鼻につく素敵なバンドだった。僕はロックにうるさい方ではないが、この手のバンドがゴキブリなみに嫌いで、巨大磁石で一か所に集めて火炎放射を浴びせてやりたいと常々思っている。

 僕は演奏の聞こえない場所を探してフロアを彷徨ったが、あいにくそんな場所は見つからなかった。


 入り口の対面の壁にもたれ、ライブが終わるのを待つ。ホール前のスペースには四、五人の客がいたが、知っている顔はひとつもなかった。僕の隣では僕と同年代の男がぽつんと立っていた。まるで忘れ去られた名士の像のような趣だった。

 演奏はなかなか終わらなかった。予定よりかなり押しているらしく、次のバンドを待つ客の数は徐々に増えていく。一つの曲が終わると、すぐ次の曲が始まる――僕が到着してすでに四曲が演奏されていたが、どれも犬も喰わないといったシロモノで、ドラムはエイトビートがろくに叩けず、ベースラインは蜂蜜のようにねっとりしていて、ギターの音色ときたら酔っ払いの泣き声そっくりだった。こんなゴミのような曲は容疑者尋問に使えるかもしれない。二時間も聞かされればイーサン・ハントだって国を売りたくなるだろう。

「あの」

 と隣の男が言った。

「ちょっといいですか」

 僕に言っているのだと気づくのに三秒ほどかかった。

「――はい?」

「これ、何て名前のバンドか分かります?」

「プッシー・フット」

 僕は即答した。

 三階と四階のあいだの踊り場に、全バンドの登場順と名前が張り出されていたのだ。

「プッシーフット?」

「プッシーフット」

「……どういう意味なんでしょう」

「忍び足」と僕は答え、しばらくして「ピッシー・フット(無駄足)の間違いかもしれないけど」

 そう付け加えた。

 男は愛想笑いといった感じで笑ったが、意味が通じたとは思えない。僕より五、六センチばかり背が高く、少し猫背で首が前に出ているところはマジックリン・スプレーそっくりだった。自分の目線より低い位置にあるものを見慣れている人間のくせだろう。髪の毛は短かったが、前髪は眉を隠す程度に長く、上まぶたに届く直前で「おっとあぶねえ」とばかり左に旋回していた。

 大きく潤んだような黒目が印象的な――親切な犬のような男だと僕は思った。


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