再会
くれさきクン
第1話 たわごとはじめ
夏が来るたびに三つのことを思い出す。ひとつは兄のこと。兄の誕生日が七月六日だからである。もし兄がこの世への出現を疎み、母親の子宮の中であと二十分ほどもたつくことを選んでいたら、その日付は七月七日になっていたということだ。
だがいずれにせよ兄は七月七日には生まれなかった。そのことについて以前、占い好きの友だちにくわしく尋ねてみたことがある――つまり七月六日に生まれた場合と七月七日に生まれた場合とで、その後の人生の運び方みたいなものに大きな違いはあるのかということ。
ある、というのが彼女の答えだった。
「どっちがいい、悪いってことは、簡単には言えないんだけど」
「どっちがいいの?」
ドリンクバーのグラスを見つめ彼女は低く唸った。氷はほとんど溶け、薄い水の層はゆるい渦を巻いている。
「えーと」と前置き。「情報が少なすぎて分からない」と続ける。
「生まれた時間とか、曜日とか、血液型……そういうことでも分かればべつなんだけどね」
僕はそれらの情報を、知っている限り彼女に伝えた。血液型はA型。生まれた時間は二十三時四十二分、土曜日――曜日まで知っているのは、ちょっとした逸話のせいである。僕たちの父親はこの翌日に開催された部署対抗のゴルフコンペに出場し、見事、個人成績二位を獲得した。
賞品はマッキントッシュⅡ。
我が家のデジタルライフは兄の誕生とほぼ同時に始まった計算になる。まだテクノロジーによる最後の革命は深い霧の向うにあり、ウィンドウズといえば単に窓を意味する単語でしかなかった時代の話だ。
占い好きの友だちは長いこと考え込んでいたが、しばらくして「水星人ね」とつぶやいた――水星人?
「7という数字は、水星とほぼ対極に位置しているの」と彼女は続けた。そして、「はっきりとは言えないけど」と言い訳を重ねたうえで、
「悪くはないと思う」と結論付けた。
「少なくともあと二十分後、七月七日の夜中に生まれてくるよりは、いくらかね」そう言った。
「もし七月七日の夜中に生まれていたらどうなっていたんだ?」と僕は尋ねた。
「お金に苦労していたわ」
彼女はきっぱりとそう答えた。
僕は戦慄した。
☆
七夕の前日に生まれた兄は、その十七年後の四月に命を落とした。もちろん寿命が尽きたわけではない。事故に遭ったのでもない。頭のおかしい通り魔に、左の脇腹と上腕を刺されたのだ。
上腕の傷はかなり深く、重要な動脈を切断していた。僕が最後に兄を見たとき、その身体にほとんど血液は残されていなかった。
出血性ショック。
お互い縁もゆかりもない十人の男女が事件に巻き込まれたが、五人は生きのび、五人が死んだ。
兄はその最後の犠牲者だった。これに関しては、水星人であったことがまずかったのかもしれない。お腹が痛くなるとか、赤信号にひっかかるとか、そういうちょっとしたトラブルが、犯人の身にひとつでも起こっていれば、兄が死ぬことはなかったのだから。
しかし実際にはそうしたことはひとつも起こらなかった。代わりに兄の身に起こったのは大変なことだった。
それは、頭のおかしい通り魔に、殺されるということである。
仮定でない現実の通り魔が現実のナイフを手離したとき、あろうことかそれはまだ兄の腕に突き立ったままだった。目撃者の一人は見かねて兄の体からナイフを抜き取ったが、あらわになった傷口からは、まるで英雄の凱旋を告げるファンファーレのように、景気よく血が噴き出した。
結局はそのために兄は死んだ。
出血性ショック。
☆
兄は死んだが、僕と母と父親は死ななかった。言うまでもなく、死のうにも死ねなかったからである。
死ぬ代わりに僕たちは途方にくれた。
途方にくれるというのは、この場における最も適切な表現である。それ以上を言おうとすると、どうしても的外れで、上滑りな物言いになってしまう。
本当にふさわしい言葉はまだ見つけられていない。この文章を書き終えるころに見つかればいいと思っているが、それについても僕は悲観的だ。なぜか?そんなものが実在するなら、僕たちは今ごろ、悲しみについてのちょっとした識者になっていなければおかしいからだ。
誰かが誰かの言葉を聞き、別の誰かがその意味を伝える――誰かの口から誰かの耳へ、誰かの脳から誰かの脳へ――さながら伝言ゲームのように。
僕たちはそのようにして言葉を自分たちのものにする。僕たちは悲しみが何であるのかを言葉で知り、未来におけるその姿を正確にとらえ、身を守るための手段をいくつか身につけられるはずだった。
もちろん、僕の手元にある辞書には、日本人が悲しみについて知るすべてが書かれている。
かなしみ【悲しみ・哀しみ】
かなしむこと。
(大辞林 第三版)
☆
世界は広い。中には悲しみとクリームパイの区別がつかない者もいる。人の顔を見ると、クリームパイを投げつけずにいられない手合いがそれである。
彼らはなぜパイを投げるのか?
僕はこんな仮説を立てている。
彼らはこの人間社会を一種のパーティだとみなしているのだ。
そして実際、すべての人々はパーティと、ちょっとした余興が大好きだ。
停滞したパーティにほどよい笑いとスリルを提供するため、彼らはパイを投げるのだ。彼らのおかげで、パーティを耐えがたいものにしていた退屈さは一時的に忘れられ、多くの人々はこのパーティが変化に富み、想像力を刺激して余りあるものであることを思い出す。そうでなければ、いったい誰がこんなことに八十年も付き合っていられるだろう?
人生を意義あるものにしようという努力を彼らは怠らない。パイ投げはそのひとつの研究成果である。探求心溢れるユーモリストとして、彼らはパイを投げつづける。退屈そうなやつらの顔に片っ端から、口元には微笑みを忘れずに!
頭の下がる話である。
ほかに赤の他人を刺し殺すに足る理由はない。
残念なことに、彼らのそういう冗談が僕にはちっとも笑えなかった。くじら座α星と劣化ウラン弾くらいかけ離れたセンスを持つ僕たちが同居するこのパーティにおいてしっちゃかめっちゃかはつきものだ。
だからこれは、珍しい話ではない。
悲しい話でもない。
滑稽な話ではあるかもしれない。
しかし僕は断言するが、悲しみはクリームパイではない。ここではそんな勘違いが起こらないよう、あらかじめ悲しみのことを風呂桶いっぱいの下痢とゲロと定義しておくことにする。
決して、そんなものを人に向って投げつけてはいけない。
投げつけたいと思う人もいない、と僕は信じている。
だからここには規制線を張って、あとはもう永久に目を背けていよう。
もちろん、立て看板も立てておく。
立入禁止。
☆
汚い話になったので、次はきれいな話。
これは僕の恋物語である。短い話なのでご安心を。僕は長続きしない恋についてはちょっとしたものだが、彼女とは二日と続かなかった。最短記録である。
彼女は僕の兄の二十二回目の誕生日、つまり二○一二年の七月六日に僕の前に現れ、夏休みに入る直前に、突然姿を消した。
夏中かけて僕は彼女を探し回ったが、見つけることはできなかった。今では夏の初めにちょっと思い出すだけである。
おわり。
☆
みっつめは僕たちが大学三年生のころの話だが、これはちょっと長くなる。
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