23

 薬で気を失わされ連れ去られた海一が、最初に目を覚ました時。反射的に起き上がろうとしたが、体が上手く動かなかった。自分が後ろ手に縄できつく縛られていることがすぐに分かった。


 冷たい床の上。なんとか上半身を起こす。


 ここがどこなのか確認しようとするが景色は絶望的にぼやけていて、自分が眼鏡をかけていないことを知った。


 電気のついていない暗闇。広い空間だが屋外ではなさそうだ。風を感じない。


 自分を拘束する縄に力を込めてみたが、ゆるむ気配はなかった。


 あれからどのくらいの時間が経ったのか。視界がぼんやりとしていてよくは分からないが、うっすら月光が差し込んでいるであろう窓らしき所から見える外の景色は暗い。まだ夜が明けていないのだろうか。この時期だと日の出は確か朝五時くらい。ということはあれから大体六時間以内だろうか。


 思考をめぐらせようとした時、コツン、コツンとどこからか足音が聞こえた。


 警戒する海一。広い空間に反響しているので耳をすましても方向が分かりづらく、暗い上に眼鏡なしではほとんど周りが見えず視覚情報に頼るのは不可能だった。


 しかし海一はその相手が近くに来ると、顔は見えもしないのに、それが誰なのかすぐに分かった。


「……冬間か」


 名を呼ばれても冬間は何も答えなかった。


 海一は寺崎に家の裏口で薬をかがされ意識が遠のいた時、一瞬冬間の姿を見たような気がしたのだ。


 学校用の態度に取りつくろうことなく、海一は素の態度のまま彼に訊いた。


「俺だけか?」


 質問の意味が分からず、冬間は聞き返す。


「どういう意味だ」


「綾香はどこにいる」


 すぐにそう問い直す。

 冬間はその名を聞いて、少し体をピクリとさせた。


「……捕まえたのはお前だけだ。川崎には、あの部屋の秘密を撮ったデータを返してもらわないといけない。お前はそのための人質。あのデータが表に出たら、寺崎先生はもう終わりだ」


 冬間の話を聞いて、海一は反射的に目を鋭く細めた。

 何かを深く考えている様子だったが、冬間はそんな海一の近くにしゃがんだ。


 海一は彼を警戒したが、冬間はやけに沈んだ空気をまとっていて、こちらに危害を加えてくるような敵意は一切感じられなかった。


 そして冬間はためらいがちに口を開いた。


「……川崎の兄貴。お前、俺に怒ってるか?」


 ポツリとこぼされる、吐露の言葉。海一はこの距離でも冬間の表情が全く分からず、彼のいつもの太縁眼鏡すら認識できていなかったというのに、彼がとてもつらそうにしているのが分かった。


「川崎は、俺に失望すると思うか? 俺を、見限ると思うか?」


 冬間の声がわずかに震える。彼が本当に訊きたかったのはこれなんだろう。

 海一はただ黙っていた。


「初めてだったんだ。俺の話をちゃんと聴いてくれた奴は」


 冬間は遠い目をして海一にそう言う。声はいつもと違うほのかな熱を帯びていた。


「みんな俺なんて誰もまともに取り合ってくれない。俺の言葉になんて耳を傾けない。みんなとちょっと何かが違うだけで、俺は永遠にみんなの中には入れないし、認めてもらえない……」


 冬間の話を聴きながら海一は、自分の知る誰かに彼の言葉が重なっていくのを感じていた。


 一人で登校している時に初めて冬間に話しかけられて、その時にも思った。誰かに似ている、と。


「他人なんていくらでも傷つけばいいと思ってた。自分を痛めつけてくるものならこっちから傷つけてしまえばいい、俺はみんなよりもっと傷ついてるから他人を傷つけたっていいんだって。拒絶されるのがあんなに辛かったはずなのに、気づけば俺は、周囲を全部拒絶することで自分を守ってた」


 海一は思う。寺崎はそんな冬間の孤独な心に付け込んで、彼を利用したのだろう。こんな研究はやめるべきだと訴えてきた冬間を、逆に味方に抱き込んだ。「君のことが分かるのは僕だけだ」、「君を認めるのは僕だけだ」と。


 冬間は落としていた視線を上げた。


「でも、川崎は違った。真っすぐ俺の目を見て、俺に話す。俺の話にちゃんと反応を返してくれる。怒らせてばかりだったけど、俺にとっては、俺の言葉でまともに怒ってくれるってだけで信じられないくらい嬉しかったんだ」


 大切な思い出を愛でるようにそう言ってから、一言こうまとめた。


「あいつは、強いな」


 海一はやっと分かった。薄々気づいていたけれど、今、はっきりした。


 冬間は、昔の自分に似ているんだ。

 SSになる前の、綾香と出会う前の自分。


 誰も自分の言葉など聞いてくれない周囲。自分ではどうしようもない“生まれ”なんてもののせいで、どれだけ努力しても認められることなんてない。


 広い屋敷の中で、自分の居場所がどこにもなかった。


 ことあるごとに妾の子、神無月家には相応しくないと罵られる。


 誰にも素直な気持ちを話さなくなった。


 周囲に隙を見せないよう感情を表に出すことをやめた。


 気づけば自分の本当の気持ちが何なのか、分からなくなっていた。


 自分は悲しいのか、辛いのか、嬉しいのか、寂しいのか。


 だけど、今は。


「俺も、あいつの強さに救われた一人だ」


 海一が冬間に初めて返した言葉が、この一言だった。

 冬間の顔は見えないけれど、訳が分からず目を丸くしている風なのは分かった。


 悠長に話している場合ではない、海一は強い口調で訴えた。


「冬間、俺たちに力を貸してくれ。綾香は絶対ここに来る。寺崎は俺を盾にして綾香を傷つけるつもりだ。最悪のこともあるかもしれない」


 海一の鋭い眼光に、冬間は唾を飲む。


 綾香と海一が一体何者で、何をしようとしているのか。冬間には見当もつかなかった。それでも、彼らには何かとても大きな秘密があり、彼らが正しいことをしようとしているというのは十分に伝わっていた。


 冬間はふと、海一がやたら目を細め、眉間にしわを寄せていることに気がついた。


「そんなに目が悪いのか?」


 そう問われて、海一は「ああ」と首肯する。


「恐らく親譲りだ。家系的にみな目が悪い」


 そう答えた海一に、冬間は首をかしげてしまう。


「え……。前に川崎は、自分は視力が両目二、〇でとっても目がいいって……」


 以前、ものすごく遠い距離から自分を見つけて声をかけてくれた綾香のことを思い出しながら、冬間が「どういうことだ?」と尋ねる。


 海一は思わず、こんな状況だというのに少し口元を微笑ませてしまった。






 ナイフを振りかざす寺崎が綾香に迫ろうとした時。


「川崎! 兄貴を連れて逃げろ!」


「冬間っ!?」


 冬間は拘束していた海一を前方に突き飛ばすと、刃物を振りかざす寺崎に背後から飛び掛った。


「冬間……! 僕を裏切るのか?!」


 驚愕の表情を浮かべる寺崎がそう叫ぶも、冬間は取り押さえようとするのをやめなかった。

 綾香は海一の元に駆けた。


「寺崎先生っ、先生は俺を認めてくれたけれど、それは“先生を認める俺”を認めてくれていたに過ぎないんだ! “俺自身”じゃないんだ! 俺はもう、自分が今まで大事にしてきたものを裏切りたくない!」


 冬間が叫ぶ。


 ふらついて前に倒れこみそうになる海一の体を綾香が抱きとめ、腕の中に確かに彼をつかまえた時。綾香は制服のポケットから通信機を取り出し、声を上げた。


「人質保護! 突入して下さい!」


 綾香の言葉が終わるか否かの速さで、電波塔一階部分は複数方向から巨大な照明に照らされ、屋内は一気に日中の明るさとなった。


 まぶしさに腕で顔を覆った寺崎の元に、凄まじい速さで足から飛び込んで来る人影が。寺崎を飛び蹴りで押し倒し、即座に武器を奪う。そして関節技で締め上げる。


 たった一人、その身一つで、しかもまばたきする間もないような一瞬のうちに、刃物を持った成人男性を制圧してしまった。

 その人物は長い髪をポニーテールにしていて、非常にスタイルの良い体つきをしており、かつ背の高い女性であることが分かる。


 女性は叫んだ。


「確保!」


 すると女性に続いて数名の男性が飛び込んで来る。


 海一は何が起こっているのか視覚情報では全く確認できなかったが、聴覚に頼る限り、これはSS本部からの応援が来たのだろうか。

 しかし本部の応援は最短でも日曜以降でないと難しいと言われたはず。今日はまだ土曜。一体どういうことだ。


 訳が分からず眉をひそめる海一の元に、最初に飛び込んできた背の高い女性が駆け寄ってくる。素早く無駄のない動きで海一の縄を切り、彼の体に自由を取り戻させた。


 女性は照明に目をやられないようスタイリッシュな濃いサングラスをして、闇に溶けるような黒色のタイトなパンツとシャツをまとっていた。両手には手甲、胸元と腰周りに簡易な防具を身につけている。


 そして、何がなんだか分かっていない海一の前でその長い髪を解き、サングラスを外していつもの細い眼鏡にかけかえた。


 白い肌に、整った顔。切れ長で作りの細かい眼。大人びた赤い唇。


「無事ですか、海一」


 その声は。

 視力がほとんど無い中、海一が目を見張る。


 ふらつく海一の体を隣で支える綾香が説明する。


「本部の応援は日曜までどうしても来られないって言われたんだけど、宮乃さんに相談したらたった半日で準備を整えてすっ飛んで来てくれたのよ」


「神無月家のプライベートジェットを使いました。一緒に来てくれた者たちはみな、SSのOBとして働く私の仲間です」


 そう理路整然とした口調で説明するのは、SS関東支部長・神無月宮乃。SS長官の娘であり、海一の腹違いの姉である。


「どうして……」


 驚く海一の言葉をさえぎって、綾香が先に説明してしまう。


「もちろん宮乃さんの個人的な連絡先なんて、ただの一SSでしかない私には分からなかったわ。でも丁度、海一の携帯が光ってるのを見つけて、海一ならもしかしてって思ったの。勝手に携帯見てごめんね?」


 苦笑いしながら謝る綾香は、「緊急時だったからしょうがないわよね?」とあまり悪びれた様子が無い。


 そんなことよりも。


「あなたが無事で何よりです。重大な任務、ご苦労様でした」


 前に会った時と同じ、無表情で淡々としているけれど、冷たくはない。温度を持った声。

 若さにそぐわぬ整った美しさと、一騎当千の能力。まさに海一の姉であり、神無月家の娘だった。


「……ありがとう、ございます」


 海一はぎこちないながらに礼を口にした。


 お互いの神無月家での立場、生まれの違いなどから、長い間距離のあった二人。会うのは以前の任務の時以来だった。


 海一は自分が神無月家に来たことで、正妻であった宮乃の母親が心を病み家族を崩壊させてしまったから、宮乃はずっと自分を恨んでいると思っていた。

 それでも宮乃は家族が壊れてしまった自分だからこそ、海一に自分が一人だと思わせたくないのだと伝えた。


 綾香はそんな二人を一番近くで見守ってきた。


「綾香さん。連絡をありがとうございました」


 宮乃は綾香に向き直って、少し口元をゆるませてみせる。同じ女でもドキッとしてしまうような微笑みだった。


「いえ。こちらこそ、宮乃さんが来てくださって本当に助かりました」


 海一の体を支えているので、綾香は頭だけで深くお辞儀をする。


 仮にも宮乃は関東のSSを取りまとめる関東支部長であり、本当は末端の一構成員が名前を“さん”付けで呼べるような関係ではないのだが、以前より宮乃は綾香を気に入り、評価しているようだった。


 宮乃は彼女らしく言葉少なに会話を切り上げると、最後にこう告げて二人のもとを去った。


「海一、体をゆっくり休めて下さい。綾香さんも」


 宮乃はそう言うと再び髪を一本にまとめ、取り押さえた寺崎、事情を聴くため連行した冬間についての諸指示をしに向かった。


 すると。


「ぎゃっ! 重い!」


 綾香が声を上げたのも無理はない。


 宮乃が去った途端、海一が自分に預けてくる体重が急増して、バランスを崩しそうになってしまった。倒れてしまいそうになるのを慌てて支えるが、結局支えきれずに向かい合って床に膝をつかせた。


 宮乃が目の前にいる間はまだ気を張っていたのだろう。でももう体力は限界だったようだ。前日からほとんど休めていないし、体の自由を奪われたままずっと寺崎の傍で警戒し続け、おまけに眼鏡がなくて目まで見えなかったとなると、溜まっていたストレスや疲労も相当だろう。


 目の前でぐったりしている海一に、綾香は荷物を探ってまず眼鏡を返してあげようと思ったのだが、下を向いて作業していると、突然トンと自分の体に何かが当たるのを感じた。


「う、うぇっ?! 海一?」


「耳元で変な声を上げるな、やかましい。頭が痛くて限界だ。少し休ませろ」


 そう言うと海一はふらりと綾香の鎖骨に額を寄せたまま、目を伏せた。


 流石に少し恥ずかしかったけれど、綾香は彼の背中に手を添え、あふれる気持ちを伝えた。


「……お疲れ様、海一」


 ようやく取り戻せた。こうして確かに手が届く場所に、触れられる距離にある。


 宮乃たちによって連行される時、冬間は二人の姿を視界の隅にとらえた。

 そして、二人は家族ではないけれど本当の家族以上のようなものなんだな、と切なくそう思った。

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