22

 夜と夕方が混ざり合い、空が紫に染まった夕闇。


 綾香は確かな決意を持ってここに立っていた。

 この町唯一の高層建築物。天を貫く槍のような建物。建設中止となった公共事業の残骸、未完成の電波塔。


 足元には重機が玩具のように乱雑に何台も置きっぱなしにされていて、立ち入り禁止の警告もバリケードも、経過した時間によって無残にひっくり返されていた。高く積まれた土は建物入り口の目隠しとなっている。


 風がふわりと吹いて、綾香の自慢のつややかな黒髪を宙に舞わせた。綾香は髪を耳にかけ直すと、仁王立ちになって息をついた。


「はあ……。ついに来ちゃったわね」


 綾香が上を見上げるも、ここからだと先の方はよく見えない。


 調べた情報によると、外側に比べて中はまだ大部分が未完成らしく、上の階はほぼ機能していないという。

 色々なことを考慮しても、恐らく寺崎がいるのは一階だろう。


 綾香は凛とした表情でそこに立っていた。


「ちゃんと生きてるかしらね、あの冷血眼鏡。あ、今は眼鏡かけてないのか。じゃあただの冷血ね」


 いつもの調子で憎まれ口を叩いてみせる綾香。

 返される声はない。それもそうね、綾香は小さく肩をすくめた。


「じゃ、行くわよ」


 綾香は自分に言い聞かせるようにそう言うと、足を踏み出した。


 砂利と土で大分足場が悪かった。任務中一番慣れている制服姿で来たので、足元は革靴だ。数日前の嵐の影響でまだぬかるんでいるところもあった。


 重機などの大きな物陰や、足元に注意を払いながら進む。どこからかカラスたちの鳴く声が聞こえた。


 立ち入り禁止の看板を無視し、バリケードテープをくぐる。幾重もの障害物を越えると、建物の入り口があった。


 ビニールに覆われた大きなガラスのドアで、擦りガラスのように内側が少し透けて見えた。暗くて人の姿があるのかは分からない。

 しかし、あちらは外から誰かが来たことに気づいただろう。相手の指定したフィールドに行くのだ、こちらが不利なのは当たり前。


 綾香は意を決し扉に手をかけ、前方に強く押した。


 開いた扉の先には、大きな窓から注ぐ外のわずかな明かりだけがうっすらと照らす広い空間。この電波塔のエントランスホールになるはずだったであろう場所が広がっていた。


 薄暗い中、奥のほうに寺崎が一人で立っていた。


 物はほとんど置かれていないようだが、長らく放置されているせいか埃っぽい匂いがした。


 綾香が前方を警戒しつつ左右を盗み見ると、色々と奥につながる通路はあるものの海一の姿はなかった。どこかに閉じ込められているのだろうか。


 綾香の立つホール入り口から寺崎のいる最奥まで、大体二十メートルほどだろうか。十分に距離を取ったまま、二人は対峙する。

 先に言葉を発したのは寺崎だった。


「ちゃんと来てくれましたね、川崎綾香さん。実にお兄さん思いで素晴らしいです」


 教育者のようなもっともらしいセリフを吐いてみせる寺崎に、綾香は嫌悪感しか抱けなかった。はっきりとした口調でこう言い切る。


「言われたものは持ってきました。まず彼に会わせて下さい。話はそれからです」


 強い目力で寺崎を威圧する綾香。手元にある小さなメモリーをちらと示してみせた。

 寺崎はニコリと笑った。


「ああ、それはそうですね。もちろんいいですよ」


 そう言う寺崎がその場からわずかも動かなかったので、綾香はいぶかしげに眉をひそめた。


 人質である海一が、まさか一人で歩いて来られるはずがない。そんな身の自由があればとっくに逃げ出しているはず。


 綾香がどういう思考をしたのか読んだのか、寺崎は言葉を続けた。


「そうそう、知ってるかどうか分かりませんが、僕には協力してくれている仲間が居るんですよ。僕の研究に賛同し、応援してくれる人が」


 そう言って薄闇の中、眼鏡のレンズを白く光らせた寺崎。目元はうかがえず、口元にだけ不気味な微笑みがいびつに刻まれているようだ。


 奥からホールに続く通路から、コツン、コツンとゆっくりとした足音が聞こえてきた。


 近づいてくる。綾香は緊張で体を強張らせた。

 寺崎はなお言う。


「確か、彼はあなたとも付き合いがあったようですね。まあもっとも僕の方が彼ともっともっと古い付き合いなので、最近少し話すようになったくらいのあなたとは付き合いの深さが違いますが」


 綾香を挑発するような、あざ笑うようなセリフ。寺崎が笑っているのが分かった。


 そして、出てきたのは。


 後ろ手に縄できつく拘束されている眼鏡のない海一と、彼を連れて来たもう一人の制服姿の男子生徒。


 ふわっとした髪に太縁眼鏡をかけたあの、冬間だった。


 昼間に中庭で並んで花を見た、泣いているのを見守ってくれた、二人で話した相手。一緒に学校から帰って、共に花を守って、打ち明け話をしてくれた相手。


 裏切りに絶望し崩れ落ちる綾香を想像して、寺崎の口元の笑みが深くなる。


 しかし。


「分かってたよ、冬間」


 綾香は全く動揺することなく、落ち着いた声でそう言った。


 それには寺崎だけでなく、冬間も目を見張っていた。


 綾香はまず海一を一瞥し、大分疲労している様子だが特に怪我などはしていないことを確認した。海一は眼鏡をかけていないのでこちらがよく認識できていないようだが、声のする方向に意識を向けているようだった。


 それを確かめると、綾香は静かにこう続けた。


「誰かしら共犯がいると思ってたわ。昨晩の状況、二人居れば辻褄が合う。まず二階の部屋の一方の電気がついたのを確認して、私たちが部屋の中でバラバラになったタイミングでブレーカーを落とした。そして裏口から出てきた海一に薬を嗅がせて意識を失わせた。理科室には大きな薬品棚があったでしょう? その中のものを使ったんでしょうね」


 授業中に資料室に行くよう言われた綾香が学校内をうろついていた時。秘密の部屋を探りにきていた浜田の足音に気づいて身を隠したのが、理科室の大きな薬品棚の脇だった。綾香はその時にさりげなく薬品の名前を見ていた。


「身長差のある海一が気を失っても、男性が二人居れば十分に運べるわ。最初は浜田先生かあの柄の悪い男たちかなとも思ったけど、彼らは背が高いから、ブレーカーを落とすのにわざわざ脚立なんて使う必要がないもの」


 更に綾香はこう足す。


「それにね。実は私と海一が学校に登録してる住所って、実際に住んでる所とちょっと違うのよ。まぁ個人情報の漏れやすい昨今だから防犯の為と思ってくれて構わないけど。寺崎先生が教師の権限で生徒の住所を調べたとして、学校に登録している住所だけを頼りにしてもあの家にはたどり着けないの。だからあそこを襲撃できるのは、『私か海一を上手いこと尾行でもした人』か、『家の場所を直接教えたことがある人』しか居ないのよ」


 冬間と一緒に帰った日、彼は綾香を家まで送ってくれた。だからこそ家の場所を覚えていた冬間は、早朝綾香に打ち明け話をする時、直接家に訪ねてくることができたのだ。


 綾香の言葉に、寺崎は顔をしかめていた。


 そんな表情をしている彼を綾香は初めて見た。自分の計画がすっかりばれてしまったことが悔しかったのか、それとも綾香の顔を絶望と悲しみに染める事が出来なかったのがそんなに悔しかったのか。


 険しい眼差しに臆せず綾香は言葉を続けた。


「そもそも違和感がしてたの。『寺崎先生の研究は良くない、止めなきゃならない、でもそのせいで逆に自分が危うくなった』、そんなことを言っている人がどうしてわざわざ、あんな真夜中に学校に潜入してまで先生を止めにきてたのかしらって。あの時私を押さえ込んだのは私を守るためじゃない、あの足音の正体が寺崎先生だと私にバレないようにするためね」


 そして綾香は自分の荷物の中からクリアファイルを取り出し、中身をその場の全員に見せ付けた。手書きの書類だった。


「それは……」


 寺崎の口から言葉が漏れる。


「さっき中庭から掘り返してきたわ。場所はなんとなく分かってた。私が冬間と最初に出会った時にいた場所、そして体育の授業を抜け出した冬間がいた場所。花もない場所で、ピリピリした空気で地面に向かって何かの作業をしていたわね」


 綾香は中の書類を何枚か示してみせる。


「会計の不正の具体的な数字を指示したり、危ない研究の為のメモだったり、表には出せないお金のやり取りだったり。パソコンでデータとして保管していて万が一どこかに漏れてしまっては大変な危険度の高い情報を、中庭に埋めて管理していたのね。考えたものだわ。原始的だけど、掘り返しさえされなければ自分たち以外絶対に触れることは出来ないんだもの。思い返してみれば、寺崎先生の白衣はよく土の汚れがついていると女子生徒たちがからかっていたわね」


 綾香はその書類を大事にしまうと、最後にこう加えた。


「たびたび視線を感じたけれど、寺崎先生は特に隠匿する作業をしている時の冬間を監視していたのかしらね。体育を抜け出した冬間を追いかけた私が声をかけられずにいた時、寺崎先生はわざわざ滅多に人の通らない中庭にまで来て私に声をかけてきた。私にそこで何かを隠しているのを見られないように。冬間に私が居るということを気づかせるために」


 寺崎から言葉は返されない。その代わりに沈黙が綾香の推理の正しさを認めていた。


 日没から時間が経ち、闇はどんどん濃さを増していく。視界が悪くなる分、綾香は目をこらし、前方をじっと見つめていた。


 そして綾香は冬間に向けてこう言った。できるだけ優しく、穏やかな声で。


「冬間。あなたは人の目を見て嘘が言えない人なのね。今まで私に色んな話をしてくれたけど、あなたはどんなに取りつくろっても嘘をつく時には必ず目を背けるから、すぐに分かっちゃったわ」


 冬間は言葉を返さない。薄暗いし大分距離があるので互いの顔もよく認識できないけれど、きっとお互い見つめ合っているのだろうという自信が綾香にはあった。


「あの朝の河原で、『自分に聞こえのいい言葉を言って、また誰かに取り入られてしまうのが怖い』って、ぽろっと言っていたわね。それは寺崎先生のことなのかしら」


 綾香の言葉にハッとした冬間だったが、その会話は寺崎の大声によって強制的に中断させられた。


「黙れ! 子供が分かったような口を利くな! いいか、子供にはまだ分からないかもしれないが、人は他者を利用する生き物なんだ。利用しなきゃ利用される。信頼や愛なんてものは、それに見合う対価が無くなれば途端に消える!」


 そう叫んだ寺崎のポケットから、鈍色の光が取り出される。薄闇で月明かりを受ける刃物の光。寺崎は間髪をいれず綾香目がけて駆け出した。


 来る。


 迫る脅威に綾香が構えた時。

 信じられないことが起きた。


「川崎! 兄貴を連れて逃げろ!」


「冬間っ!?」


 冬間は拘束していた海一を前方に突き飛ばすと、刃物を振りかざす寺崎に背後から飛びかかった。

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