21
翌日、綾香は一人で学校に向かった。
海一は今日は病欠すると学校に連絡しておいた。
誰に対しても動揺を見せないよう、綾香は普段通りにふるまうように心がけた。
まだ両親が来ておらず二人で暮らしているという設定だったし、おまけに昨日は丸一日ずっと海一がべったりだったので、彼が欠席だと知ると色んな友人が心配してくれた。
中でも海一とサッカー部で一緒の浜田弟は、綾香に「何かあったら俺を頼って!」と熱く言ってくれた。任務のためとはいえあの海一がこんな素敵な友達を作れるなんて、なんだかすごいなと少し感動してしまった。
それでも、寺崎の授業の時は流石に心を強く持ち続けるのがきつかった。
寺崎はいつも通り物腰柔らかく、眼鏡の奥の瞳に狂気を隠し、生徒たちと幽霊の話なんかに花を咲かせていた。
綾香は努めて自然に前を向くようにしていたが、授業の終わりに信じられないことに気がついた。
それは一人の女子生徒のある指摘から始まった。
「あれっ? 寺崎センセ質問ー! 先生、眼鏡かけてるのに、どうして白衣の胸ポケットにもう一つ眼鏡が入ってるの?」
「あぁ、これ?」
寺崎は胸ポケットから細いフレームの眼鏡を取り出すと、つるの部分を広げてみせた。
「これね、拾ったんだよ。どうしようかと思ってポケットに入れたんだけど、そのまま忘れちゃってたな、十二時間くらい」
「えー、十二時間も!? 寺崎センセやっぱダサァーイ」
綾香は息が止まるかと思った。
今から十二時間前と言ったら丁度、昨晩家が襲撃された時間。遠目で見たくらいでは明言出来ないけれど、恐らくその眼鏡は海一のもの。
表情を作ることも忘れ絶句する綾香に、寺崎はあの時と同じ狂気の口元で微笑みかけた。
綾香は怖くて一瞬目を逸らしてしまったけれど、キッと見つめ返した。
寺崎のもとに海一の眼鏡があるということは、少なくとも海一が合意のもと共についていった訳ではないのと、今彼の身が自由な状態ではないということが分かる。
なぜなら海一は非常に目が悪く、裸眼だと慣れない場所では壁をつたわないと歩くことが出来ないくらいなのだ。
そんな彼が自ら己の視力を差し出すような真似は絶対にしないだろうし、あれがここにあるということは今の海一はほとんど目が見えていないということだ。
綾香は不安を押し殺すように、きつく拳を握った。
授業が終わると、去り行く寺崎を追いかけた。授業中のあのパフォーマンスは自分を呼び出すためのものに違いないと、綾香は分かっていた。
寺崎は職員室ではなく人気のない中庭に向かった。そして振り返り、綾香ににこっと笑いかけた。
「……あの夜、あの部屋で撮った写真のデータを全て渡して下さい。そして、今後も決して口外しないと約束して下さい」
綾香は相手の出方をうかがい、返事をしなかった。
「……お兄さんは相当目が悪いんだね」
そう言って寺崎は胸ポケットの眼鏡を取り出して、レンズを覗いてみせた。
「僕も同じくいつも眼鏡をかけてるから、苦労が分かるよ。裸眼だと何も見えないわ、頭が痛くなるわ、走れないわでとにかく大変なんだ」
そう困ったような笑顔で語って見せると、綾香に歩み寄り眼鏡を差し出した。綾香は反射的に身構えたが、ひったくるようにしてそれを受け取った。
「そんなお兄さんを、妹なら早く助けてあげたいよね?」
綾香を見る瞳が、あの嵐の日のように生気のないそれになっていく。
綾香は絶対に怯えてみせたりなんてしないと、寺崎の両の眼を意思の強い眼差しでまっすぐ見つめ返していた。
「今日の日没の頃、未完成のあの電波塔で君を待ってる。言われたものをちゃんと持ってきたら、お兄さんにその眼鏡を渡せるかもよ」
そう告げると、寺崎は踵を返して校舎の中に戻って行こうとする。
綾香は最後に一つだけ尋ねた。
「なぜ、私でなく彼をさらったんですか」
寺崎は少しだけ振り返って、満面の笑顔でこう答えた。
「人を思い通りに動かすのにはね、その人の大事な人を使うのが一番なんだ」
鬼畜が。
綾香にとって今は、何も言い返さないことが一番の抵抗であり反論だった。
去り行く寺崎の背中をただ黙って睨みつけていた。
そのあと、綾香はしばらくそこに立ち尽くして動けなかった。
いくら気丈に振る舞っても、どれだけ強気な態度を取っても、不安なものは不安だし怖いものは怖い。
海一にもしものことがあったら。今だって無事でいるのかどうかなんて分からない。
それに寺崎の狂気の傍に居ると、身の危険を感じるほどの恐怖を覚えるのだ。
諦めたりは絶対にしない、けれど自分の力でどこまでできるのか、正直分からなかった。
それから、綾香には気になっている事が最後に一つだけあった。
調査していくうちに、少しずつ心に引っかかっていったこと。そして今になって確かな疑いになったこと。海一を助ける前に、必ずそれを確かめなければ。
神妙な面持ちで虚空を睨んでいると、ある人物に声をかけられた。もう二度と関わることが出来ないと思っていた、綾香の友達。
「川崎、どうかしたのか」
「冬間……」
綾香は久々に彼の名前を口にした。
“距離を開ける”と言っていたのに。冬間は自ら綾香に話しかけてきた。
ここが中庭という彼のテリトリーだからだろうか。それとも約束を一時的に反故にしても思わず声をかけてしまうくらいに、自分が不安定に見えたのだろうか。
「今日、兄貴休みなんだな。病欠って聞いたけど、大丈夫なのか?」
そう尋ねられて、綾香の両目から自然と、ぶあっと涙があふれた。
冬間はぎょっとして、「えっ、ど、どうしたんだ?!」と慌てて理由を訊いてくる。
「ご、ごめん……。泣くつもりなんて全然なかったんだけど……なんでだろ、変なの」
綾香は手の甲や指先で涙を拭うも、一度せきを切ったようにあふれてしまうともう止まらなくて、「ごめんね、急にこんな……」とごまかし笑いを混ぜながら、涙が収まるまでそれを拭き続けた。
大丈夫なのか、と改めて人に訊かれて、大丈夫じゃないかもしれないと思う自分が弱気になってしまったのかもしれない。ヒックヒックと泣きじゃくったりはしなかったけれど、涙はずっとこぼれていた。
冬間はただ綾香を見守り、あふれる彼女の涙の正体を探っているようだった。
綾香の涙が落ち着くと、二人は冬間が育てたきれいな花が揺れるプランターを並んで眺めた。
あの嵐から守り抜くのには綾香も活躍したので、綾香としても思い入れが深くなっていた。
冬間は綾香にこう尋ねた。
「なぁ。兄貴って……いや、家族って、川崎にとってそんなに大切なものなのか?」
綾香は冬間の横顔を見た。
その目はあの時と同じように遠くを見つめていて、彼は自分の姉のことを考えているのかなと綾香は推察した。
寺崎との一件以来、すっかり暗くなってしまったという彼の姉。以前は明るく活発で、とても優秀だったと言っていた。彼の両親は理由も分からず塞ぎこんでしまった娘を心配し、冬間への関心がほとんどなくなってしまうくらいだったという。だからきっと、冬間としては複雑な気持ちがあるのかもしれない。
でもそもそも冬間は、姉が変わってしまった原因を自分一人の力でこっそり調べてみようとして、こんな大変な事件に巻き込まれることになってしまったのだ。だからきっと、姉のことを心から嫌いに思っているなんてことはないはず。
そして綾香は微笑んで答える。
「大切よ。かけがえのないものなの」
冬間は何かを考えたままこちらに視線を向けなかったが、綾香はそのまま話を続けた。
「ねぇ冬間、聞いて。冬間と一番最初に中庭で出会った時も、不良に絡まれてた時も、体育の授業抜け出した時もね、私は最初からずっとなんとなーく、冬間のことを放っておけなかったのよ。ムカつくんだけど、なんか気になっちゃうっていうか。なんでだろうってずっと思ってたんだけど、今考えたら分かったわ」
振り向いた冬間が、いぶかしげに首をかしげる。
二人の間に柔らかい風が吹いて、シャツに空気をはらませる。
「私が知ってるある人の昔に、雰囲気がよく似てたのよ」
綾香はそう言った。
何を言っているのかよく分からなかったのか、冬間は眉をわずかにひそめた。
綾香はこれ以上説明する気はないようで、唇を皿型に曲げてみせた。
「じゃあ、そろそろ行くわね。やらなきゃならないことがあるの」
と綾香がその場を去ろうとした時、冬間は綾香を呼び止めた。
綾香がキョトンとした面持ちでまばたきを繰り返していると、冬間は言葉を一つ一つ確かめるようにして尋ねた。
「最後に聞きたい。俺のことを放っておけなかったって言ってくれたよな、その俺に昔似ていた誰かって、誰のことだ?」
綾香は笑って答える。
「さあ、誰だったかしら。忘れちゃった」
さよなら、冬間。
綾香は心の中でそう彼に挨拶を告げていた。
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