20

 綾香は一旦冷静になろうと深呼吸をした。


 まず、明かりを取り戻そう。


 外にある分電盤の場所はすぐに分かったが、位置が高くてわずかに手が届かなかった。近くに脚立があったのでそれを使った。

 よく分からないながらに分電盤を見てみると、どうやら主電源に当たる部分が落とされていたようだ。上げてみるとすぐに家全体に明かりが戻った。


 外部の人間により意図的にブレーカーが落とされたであろうことは確実だった。落ちてしまうほど多量の電気を使っていないことも理由の一つだが、決定打はこの脚立だった。脚立は組み立てられた状態で放置されていた。


 この高さ、綾香は届かなかったけれど、海一なら踏み台がなくても手が届くはずだ。彼が使ったものではないだろう。


 また、ここに住み出したばかりの頃。ブレーカーの調子が悪かった時、海一が見に行き「裏口周りを掃除する」と言っていた。あの海一が掃除をして、組み立てたままの脚立をこんな所に放置するなんて彼の性格的に到底考えられない。


 今、何者かにより使われたのは間違いなさそうだ。


 綾香は次に、明かりの戻った裏口を観察してみた。

 そこには特に争ったような跡は見られなかった。確かにあの時、戦闘になったような大きな物音などは一切なかった。


 海一は暴力的な手段で連れ去られたというわけではないのだろうか。


 それもそうだ。もし戦うことになっていたとして、あの海一がなんの抵抗もできず一撃でやられてしまうとは思いがたい。


 では、何かしらの理由があって合意のもとで同行したのか。もしくは何かで脅されて自ら同行せざるをえなかったのか。


 それも考えがたかった。ここに落ちていた彼のネクタイ、最後に彼の姿を見た時、確かにかなりゆるめられてはいたが、ただ歩いているだけではらりと落ちてしまうようなものではない。もみ合いになったりとかなり強く体に触れなければ、ほどけ落ちてしまうことはないだろう。


 考えたくはないが、刃物などで抵抗が難しくなるくらいのダメージを与えられたか。あるいは何かスタンガンなどの強力な武器を使われ気絶させられたか。


 しかし、それも否定できる余地があった。まずこの場に血痕のようなものはないし、そんなことをされたらうめき声であろうと何か声を上げたはずだ。


 それに何より、海一は細身な方だが身長は平均的な男子よりも高いのだ。彼を気絶させたとしてもそれを担いで逃げるなんて、プロレスラーのような大男でなければ難しいだろう。


 綾香は頭を回転させるが、彼がどんな方法で連れ去られたのか、自分から居なくなったのか、一体何があったのか、答えを導ける決定的なヒントはなかった。


 だがこれだけは分かる。十中八九、襲撃してきたのは寺崎だ。

 寺崎は綾香よりわずかに背が高いくらいでほとんど変わらず、同じように脚立がなければブレーカーに手が届かないだろう。


 でも、寺崎は海一を一撃で倒せるほどの喧嘩の達人であるようには全く見えないし、自分より背の高い海一を担いで逃げられるような体格では決して無い。


 そもそも寺崎は、昨晩あの部屋の秘密の証拠写真を綾香が撮影したことを知り、それを取り返そうとここに来たのだろう。こっそり家に忍び込んで探すだとか、綾香本人を襲うのならまだ分かる。なぜ、関係あるかも分からない海一を連れ去ったりしたのか。裏口で鉢合ってしまった相手が綾香でなく海一だったなら、普通に考えればその地点で逃げた方が得策ではないのか。


 結論は出ないままだったが、綾香は裏口を閉め、リビングに向かった。


 リビングのテーブルには直前まで彼が仕事をしていたそのままの形で、椅子や書類、ノートパソコン、綾香の淹れたコーヒー、携帯電話などが放置されていた。


 海一の携帯がここにあるということは、GPSで場所を割り出すことは不可能。綾香は彼を探すための手掛かりを一つ無くした。


 とりあえず、SS本部に連絡を取ることにした。本部の緊急応援を要請するためだ。前の任務地でも何度か世話になったことがある。


 だが、救援部隊を今すぐ急行させることは難しい、との返答だった。


 綾香はここに来たばかりの頃に海一が言っていたことを思い出した。「田舎の任務は都会より難しい。いざと言う時の本部の応援もすぐには入れない」と。

 前の任務地は大都会、ここは新幹線も通っておらず一日数えられるほどの電車しか来ない片田舎。綾香も東京からここに来るのにほぼ丸一日かかったくらいだ。


 深夜一時を回ったリビングで、綾香は途方に暮れてしまった。


 ソファの上で一人、絆創膏の貼られた膝を抱えて考えていた。


 海一が居ない以上、SSのパートナーとして自分がしっかり任務を継続しなければ。そして彼を探し、助けねば。

 具体的な方法を考えないとと思うのに、思考は空回りを続ける。


 綾香はもう一度深呼吸した。


 落ち着いてみると、部屋は驚くほど静かだった。締め切った窓の遠くから、小さく虫の音がする。カーテンに覆われた向こうの窓の外は真っ黒だった。こうしていると、この部屋以外の文明世界が全て終わってしまったかのような感覚さえした。


 静けさで耳がキンとなるような気がした。静寂が深くて冷蔵庫が呼吸する音がやけに大きく聞こえたり、普段は聞こえもしない自分の息遣いが妙に気になりだす。


 前にもこんなようなことがあったような気がする。


 綾香は落ち着かなくて、テレビのスイッチをつけた。でもこんな時に限って楽しげな番組はやっていない。早々と放送を終了しているチャンネルさえある。


 カチカチとリビングの掛け時計が秒を刻む音が聞こえる。普段は気にしたりしないので、この時計からこんな大きな音がしていたなんて今初めて知った。


 壁を見やれば年間カレンダーがあって、まだこれだけしか経っていないのかということに気づく。


 改めてこれから行うべき任務のことを考えてみようと思った。

 でも、上手くいかなかった。興奮していて眠気はないが、頭は疲れているのだろう。


 やはり、前にも同じようなことがあったような気がする。


 いつの任務の時のことだろう。いや、そんな数ヶ月前とかのことではなく、もっともっと前のことだろうか。


 ただぼうっと目の前の壁と見つめ合う。時間が過ぎ去るのを待つ。

 広い家。静かな家。一人きりのリビング。誰も帰って来ないリビング。


 思い出そうとして、頭がくらりとしたような気がした。


 そして、綾香はやっと思い出した。記憶の深くに埋めていた、散々味わったこの感覚の正体。



 ああこれは、みんなが私を残して居なくなってしまった時の。



 綾香は中学生になる直前に、父・母・妹の家族全員を事故で亡くしている。


 両親が駆け落ちに近い結婚だったため、綾香はどちらの親戚にも身寄りが無く、その時にSSとしてスカウトされた。


 突然現れたSSのスカウトマンは綾香にSSの説明をし、この秘密を聞いた以上辞退はできないという、断る余地の無いとんでもない勧誘をしてきた。その代わり、SSになれば今後の衣食住、そして教育も全てサポートすると言われた。


 綾香には、その提案を受け入れないという選択肢がなかった。


 家族が亡くなった時、マンションから新しい一軒家に引っ越したばかりだった。

 誰も帰って来ない広い家で一人、耳が痛くなるような静寂に耐えていた。嬉しかった自分一人の部屋も、真っ暗で静かな天井と見つめ合うのが怖くて仕方なかった。時計の秒針の音を聞きながら、ただ早く時間が過ぎ去れと、ただ早く夜が終われと、一人祈っていた。


 この孤独が終わるなら、誰かが自分を求めてくれるなら、SSだってなんだってなってやる。綾香は子供心にそう思っていた。


 ふと、綾香は思うところがあって、リビングを出て二階に向かった。


 そして、心の中で海一に「ごめんね」と謝りつつ、“互いの部屋には立ち入らない”という約束を破り、彼の部屋の扉を開けた。



 やっぱりね。



 海一の自室には立派なデスクトップパソコンがあって、彼によって使われていた形跡があった。窓からケーブルを引いて、ネットだってちゃんとつながるようになっている。


 綾香が「どうしてわざわざリビングでパソコンするの?」と尋ねたら、海一は「ここしか電波が届かないからだ」と言っていた。



 嘘ばっかり。



 綾香も心のどこかでなんとなく気づいていた、それは彼が自分のためについてくれていた嘘。


 本当はテレビの音がうるさいリビングなんかより、使いにくいノートパソコンなんかより、静かな自室で性能のいいデスクトップパソコンで作業した方が効率がいいに決まっている。


 でも、綾香がずっと前に、一軒家で暮らしていた時の話をしたから。


 広い家の静かなリビングで、帰って来ない家族を一人きりで待つのがつらくて仕方なかったと、いつかの時に話したから。海一はそれを覚えていたから。


 海一は綾香がそれを思い出さないように、この広い家に二人で暮らすことになった時、なるべく綾香を一人きりにしないと決めていたのだろう。


 大音量でテレビをつけていても文句一つ言わなかったのも、真夜中の眠い中でも話に付き合ってくれたのも。全部きっと、綾香のことを思って、綾香のために。


「……アンタはほんと、初めて出会った時からいつも分かりづらいのよ、不器用バカ」


 綾香は彼の部屋の扉を閉めると、リビングに戻った。



 大丈夫、私はもう一人なんかじゃないよ。


 でもね、このままだとまた一人になってしまうかもしれない。


 お父さん、みんな、見守っていてね。


 私は、自分の力で取り戻すことができる大切なものなら、絶対に諦めないよ。



 見つめる視線の先に、テーブルの上でチカチカと、海一の携帯電話のライトが点滅していた。

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