19
翌日、綾香は学校を休んだりはしなかった。
昨晩帰宅してから海一に、理科準備室には盗聴器が仕掛けられていたかもしれないという話をされた。その話は非常に理に適っていて辻褄が合うものだったので、十中八九その通りであるだろうと綾香は思った。
SS本部から事前に受け取っていた学校資料で、全生徒の中に「アヤカ」という名の女子生徒が何人いるのか調べた。
結果は綾香本人を含めて二人しかいなかった。一般的にそう珍しくはない名前だが、生徒数自体が少ないからだろう。しかももう一人は入学したての一年生。恐らくかなりの確率で「川崎綾香」の方であると感付かれているだろう。
決定的とまでは言えないが寺崎の身柄を拘束するのに必要なだけの証拠はある程度そろったので、寺崎の身柄の確保に踏み切っても良かった。
だが、SS本部から待ったがかかったのだ。非常にデリケートかつ他の事件にもつながっている可能性がある重大な案件のため、身柄確保の際は本部の応援を待つように言われた。
SS本部も事件が立て込んでいるのに加え、ここは交通の便が悪い地方の田舎町。本部側のスケジュールや様々な準備を待って、突入は最短でも翌々日以降になるという。
それまでは犯人による証拠隠滅および犯人の逃亡を防ぐため、引き続き生徒として監視してほしいとのことだった。
海一は綾香に、監視程度なら自分一人で可能なので、身の安全を考え家にいた方が良いのではないか、と提案した。
しかし綾香はこう返した。昨日の今日で学校を休めば、自分がその「アヤカ」であると言ってしまっているようなものだ、と。
そう言われてみれば確かに、と己の浅慮さに気づかされた海一は、冷静さを欠いていたことを自省した。
翌々日以降ということは、最短なら次の日曜日にかたをつけることができる。となると、学校へ行かなくてはならないのはあと二日。
これから二日間、身の安全を守りつつ寺崎を監視する。本部の人間を迎え、事件を無事解決できるか否かの正念場だ。
「川崎の兄ちゃんさ……、朝からずーっとこっちの教室来てない?」
浜田弟が遠慮がちにそう尋ねる。海一はさらりとこう返した。
「そうかな」
そうだよ、と綾香のクラスの生徒たち全員が心の中でつっこみを入れていたことだろう。それは海一の傍に居る綾香でさえもその通りだと思ったくらいだ。
教室の窓際最後列に位置する転校生によくあるポジションが綾香の席。海一はその隣の窓の桟(さん)に腰を預け、特に綾香と喋るでもなくずっとそこにいた。朝登校してから、各休み時間全て。
綾香のクラスが教室移動の時も、全く関係ない隣のクラスなのについてきて、授業が始まるギリギリまでそこにいる。正直海一は自分のクラスの授業開始時間に間に合っていない。
もちろんサッカー部の朝練はサボった。入部以来自由が過ぎて、いくら実力者でもそろそろクビになるのではないだろうか。
川崎さんは監視でもされているの? と周囲からヒソヒソ声がする。
当然のようにそこに居られると改めて面と向かって理由を尋ねるのがためらわれたし、そういうことを訊いてはいけないような海一の持つ独特のオーラがあった。何か事情があるのだろう、とクラスメイトたちはみな自分自身にそう言い聞かせていた。
そこに初めて踏み込んだのが、綾香と同じクラスの浜田弟だった。
「いやだって、登校してからずっとこっちに居るじゃん……。移動教室までついて来るしさ……。なんかあるの? 川崎、具合悪いとかだったら俺が傍で見てようか?」
そう浜田弟に言われて、綾香は「別に具合が悪かったりはしないわよ、大丈夫」と困りつつも笑顔を作ってみせる。
浜田弟は海一の肩を引いて小声で耳打ちした。
「なぁ。まさか、昨日俺が川崎に気があるって言ったから見張ってるのか? お前、見た目に似合わず超ド級のシスコンだったのか?」
誰が超ド級のシスコンだ。海一は浜田弟のとんでもないセリフを聞いて気が抜けそうになる。
海一は眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。
「見張ってなんかないよ。今だってせっかく近くにいるんだから、妹と話したら?」
話したら、とさらっと言われても。双子の兄が至近距離で見守っている状況でそんなこと出来るほど肝が据わっていたらとっくに本人に告白しているさ、と浜田弟は苦笑するしかない。
綾香本人からしてもこれはちょっとやりすぎな感じはしていた。ボディーガードとか用心棒とかの類ではなく、守護霊とか背後霊とかの類のようだとすら思う。
海一はどうやら、自分の失態のせいで綾香が危険にさらされることになったと思っているようだ。
綾香はとしては、お互いSSとしてリスクを負う可能性は一緒だし、綾香自身も盗聴器の存在なんて思いつきもしなかったので、下手したら自分だって彼の名を呼んでいたかもしれない。気にする必要なんてないのに、と思っていた。
だが一方で、調べれば調べるほどに寺崎は何をするか分からない狂気の人だということが分かり、今ではかなり彼に恐怖感を抱いてしまっているのも事実だ。SSとしてそんな甘いことを言っている場合ではないのだけれど。綾香のクラスも海一のクラスも今日は寺崎の授業がないのが救いだった。
こちら側からは行動が取れず、防御に徹するしかない状態の今。幸い海一は正体が割れていない。無関係かもしれない生徒と一緒に居たら流石にいきなり手荒な真似をしてくるなんてことはないだろうし、もし最悪そのような強硬手段に出られたとしても二人で居れば十分に迎撃することができる。
あとたった二日。ちょっとの辛抱だと、綾香は自分に言い聞かせていた。
それから、綾香は一つ気にかかっていることがあった。
冬間のことだ。
冬間から話を聞いたその日にすぐ、あの部屋に侵入したことがばれてしまった。冬間が危惧していたように、冬間を監視する寺崎がよく一緒にいる綾香を怪しんでいたことは事実だと思うし、それによって何か冬間が追い詰められたり危険な目に遭ったりするのではないかと心配していた。
今日は冬間の姿を見なかった。最後に会話した時に約束を交わした通り、冬間自身が綾香のことを避けていたのだろうと思う。
あの時きっと冬間は、ただ「自分と距離を開けろ」と言っても綾香が納得しないことが目に見えていたので、危険を冒して全ての理由を話してくれたのだろう。そう考えると、最悪自分の身は自分でも守れるし、海一には冬間のことを守ってほしいとさえ思ってしまう。
あと二日。寺崎を捕まえることが出来れば、冬間の苦しみも少しは楽になるはず。早く日曜が来ることを待ちわびていた。
しかし、事態は解決を目前にしてとんでもない方向に向かうことになる。
二人が帰宅した時、すっかり夜になっていた。
海一はもちろん部活をサボった。帰りに二人で駅の向こうの大きなスーパーに寄り、しばらくの生活に必要なものをまとめて買い込んだ。そうこうしているうちに時間は夜七時を過ぎていた。
買った物や荷物を片付けると綾香は部屋着に着替え、今日は自分の当番なのですぐに夕飯の支度に取りかかった。
海一は荷物を片すのもそこそこに、着替えるのも後回しで制服姿のままパソコンに向かい、たまに電話を受けたりかけたりしていた。
いずれもSS本部との打ち合わせであり、証拠品を示したり報告文書を作成したり、実際にあの部屋に突入する際の方法や寺崎の身柄確保のタイミング、その他の関係する重要人物の扱いなどについて話し合っていた。
本部とやり取りをするのは海一が主動ではあったが、綾香も出来る限りのことを手伝った。
夜十一時を回った頃、忙しさはなんとかひと段落し、本部からの電話もようやく無くなってきた。食事を取るのも作業しながらだったし、綾香も海一もこの時間になってやっと一息つけた。
「あぁー。私、なんだか今日すごく疲れたわ……」
綾香は海一にコーヒーを出してやると、彼が作業するテーブルの向かいの席に座って、大きく前に突っ伏した。長く息をついて疲労を吐き出す。
「夜は雑務が多かったし、昼間も何かと気を張っていたしな」
海一はそのコーヒーを一口飲んで、同じく軽く息を吐いた。
そして、コーヒーが自分の方だけにしかないことにふと気がついた。
「ん? これはお前のだったか?」
「いや、海一のよー」
綾香は片頬をテーブルにぴったりくっつけたまま、海一の方を全く見ず気だるげにそう答えた。どうやら相当疲れているようだ。
「珍しく殊勝だな」
「そりゃどうも。私、もう寝てもいいかしら?」
海一の皮肉に言い返す気力もないようで、ぐったりしながら綾香がそう尋ねる。
「ああ。俺も今夜は明日に備えて早く休む」
「そうよ、アンタまだ制服姿じゃない。着替えた方がリラックスできるわよ」
綾香が指摘する通り海一はすっかり着替えるタイミングを失っていて、時計もしたままだしネクタイも大きくゆるめられたままぶら下がっていた。
海一は「そうだな」と同意するも席を立たなかったので、これは多分寝る直前までこの格好でいるだろうな、と綾香は思った。
綾香は海一に「おやすみ」を告げると、薄暗い廊下を上がり二階に向かい、自室の電気をつけた。
パッと明るくなった室内。学生鞄の中身を整理し、面倒臭いが明日の準備をする。時間割表を見ると、明日は寺崎の授業があった。
授業中にクラスのみんながいる中でどうこうされるということは流石にないと思うけれど、それでもなんだか気が重かった。
そして更に、全く手をつけていない英語の課題プリントと数学の宿題が出てきてますます気が重くなった。
最近何かと忙しくて机に向かう余裕がなく、すっかり宿題忘れの常習犯になってしまっていた。そして「次宿題をやってこなかったら反省文を書かすぞ」と一部の先生に言われているのを思い出した。
絶対零度の毒舌を吐かれるのを覚悟で、海一に仕事の片手間にでもちゃっちゃとやってもらうようお願いできないだろうかと考えた、その時。
ブン。
視界から光が消えた。
一瞬何が起こったのか分からなかったが、すぐに頭が再起動して家が停電したのだと分かった。
部屋の照明から枕元のライトスタンド、携帯の充電器まで、電気の通っていたものは全て死んでいる。
しかし特にブレーカーが落ちるような大量の電気を使っていたわけでもないし、ましてや雷が落ちたなんてこともない。そもそもここ数年、技術の進歩のおかげか嵐が来たって停電なんてものになったことはほとんどない。
では、なぜ?
そう思考した瞬間、ひらめいた可能性に背筋がゾッと寒くなるのを感じた。
まさか、寺崎が。
「綾香! 聞こえるか? そこから動くな!」
同じ可能性を予期したのか、海一が一階から声を張り上げてくる。
家中が停電している。けれど、カーテンの隙間から覗く外の景色には、光がついた住宅の姿がある。この家の電気だけが落ちているということか。
綾香は敵の襲来を予感し、拳を握って乱闘を覚悟した。
しかし。
耳を澄ましていたが、海一が家の外にあるブレーカーを見に行ったであろう裏口の扉が開く小さな物音がしたきり、いつまでも変化は訪れなかった。
何者かの敵の気配が近づいてくることも、海一が様子を見に来ることも、電気が復活することもなかった。
時間が経過し、暗闇に大分目が慣れてきた。それでも体は強い緊張を感じたままだ。
海一は「そこから動くな」と言ったけれど、それ以来なんの声もない。
「海一!」
大声で名前を呼ぶも、返ってくる反応はない。
綾香は意を決し、最大の注意を払いながら部屋のドアに手をかけた。廊下もやはり電気が死んでいて、壁のスイッチをカチカチと操作してみたが明かりがつくことはない。
下の階からの明かりも見えない。綾香は薄暗い廊下を壁に手をつきつつ一歩一歩慎重に、警戒しながら一階に下った。
「海一?」
たびたび彼に呼びかけてみるが、言葉は返ってこない。
階段を下ると、リビングのドアが中途半端に開かれれていた。恐らく海一がリビングを出た時のままになっているのだろう。
ふと綾香は、薄暗い廊下の後方、裏口の方がぼんやりと明るいことに気づいた。部屋着のショートパンツからのびる素足に、わずかに風の流れを感じる。
何者かが居るのかもしれない。
綾香は息をひそめ、足音を消し、気配を殺し、神経を研ぎ澄ます。
ようやく我が家として慣れてきたこの一時の住居を、恐ろしいダンジョンに入るような気持ちで進んでいく。
だが、開け放たれたままの裏口には人の姿も、気配もなかった。
その代わり、足元に落ちていたものがあった。
拾い上げ、暗がりの中、差し込む月明かりだけを頼りに確かめる。
「……ネクタイ?」
自分の制服のリボンと同じ色の、朱色のネクタイ。
これが誰のものであるのか、考える必要もなかった。
綾香はさあっと血の気が引くのが分かった。
「海一っ!? 居ないの?! ねえっ、海一!」
裏口を飛び出して周囲を見回すも、彼の姿はない。
近くを探して結局家の周りを一周してしまった。
綾香は呼びかけるのをやめた。分かっている、これだけ呼んで返事がないのなら、彼はもうここにはいない。
手にしたネクタイを思わずぎゅっと握り締めていた。
彼の身に、一体何が。
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