17

 海一が朝練のため先に家を出たので、綾香は一人で朝食を取っていた。レースのカーテン越しに朝の日差しが差し込み、隙間から覗く雲ひとつ無い空は絵の具を溶かしたように青い。


 その時、来客を知らせるチャイムが鳴った。

 この家に来てからチャイムが押されたのは綾香の知る限り初めてのことで、先程あんな深刻な話を聞いたばかりだったので、こんな時間に一体誰だろうと少しビクリとした。


 制服姿の綾香は食べかけのトーストを皿に置くと、足音を立てずに玄関のドアの覗き穴を覗いた。

 するとそこに居たのは。


「冬間……」


 綾香はドアを開け、驚いて彼の名を口にした。


 いつもと同じふわっとした髪の毛、太縁の眼鏡。学校の制服。

 でも、自宅前という見慣れぬシチュエーションと彼のまとうシリアスな雰囲気に、綾香は少しあごを引いて彼を見た。


「どうしたの?」


 どうしたもこうしたも、何か用事があるからここにきたんだろうとは分かっていた。それでも形式上訊いた綾香に、冬間はこう返事した。


「どうしても話したい事があって。学校には間に合うようにするから、今、いいか」


 疑問文ではあったけれどそれは尋ねているようなものではなく、彼の確かな決意を感じた。

 綾香はうなずいた。


 彼が周囲を気にしている様子だったので、綾香は手早く支度して家を出た。


 学校とは反対方向に少し行ったところに人気のない河原があって、そこにかかる橋が作る物陰に二人は腰を下ろした。

 綾香は冬間に気づかれぬように周りを警戒し、辺りに気を配った。


 始業時間までそれほどたっぷり時間があるわけではないことを分かっているためか、それとも十分に決心が固まった上で会いにきたからか、冬間はすぐに口を開いた。


「川崎。聞いてほしい」


 隣に並ぶ冬間は、真剣な面持ちで綾香を見つめていた。綾香は「うん」と真っすぐな瞳で言葉を返した。


「……俺には歳の離れた姉が一人いる。少し前まで東京の大学の研究所にいて、今は実家に戻ってきてる。上京する前は明るくて活発だったのに、帰ってきてから見る見る元気が無くなっていったんだ」


 綾香は今まで知ったことからそのセリフだけでも感付くことが多々あったが、ただ黙って彼の告白を聞いていた。


「姉貴は東京でずっと植物学の研究をしていた。ここにいた頃から付き合っていた年上の恋人がいて、その人が若くして優秀な研究者になって、それを追いかけるようにその道に入ったんだ。その姉貴の恋人は昔からよくうちに遊びに来ていて、俺もよく遊んでもらったり色々教えてもらったりした。そんな中で俺は花を育てることが好きになったんだ」


 冬間は視線を遠くにやりながら話を続ける。綾香はそんな彼の横顔を見つめていた。彼の語る昔話を聞いていると、あの嵐の日の寺崎とはとても重ならなかった。


「姉貴がここに戻ってきたのとほぼ同時期に、その恋人もここに帰ってきた。でももう二人は恋人関係じゃなかった。結婚するものだと家族はみんな思ってた。もちろん俺もそう思ってた。姉貴は理由を話さない。そしてどんどん塞ぎこむようになっていった。だから、俺は理由を調べようと思ったんだ」


 そう口にした彼の目に、攻撃的な光が宿る。最初に出会った時から感じていたあの、触るとピリリとしそうな静電気みたいな空気。


「一人でこっそり色々と調べて俺は知った。その恋人は研究所での権利関係のトラブルで多額の借金を背負わされてしまって、もう姉貴を幸せにすることはできないと一方的に別れを告げたらしい。姉貴はすがったけど、だめだった」


 借金。綾香は目を細めた。


「でも、その恋人が姉貴を捨てた本当の理由は少し違ったんだ。その恋人は自分がずっと研究していた新技術開発の権利を、利に聡い同僚に持っていかれてしまって自暴自棄になっていた。返済が苦しくなって色んな所に借金を繰り返すうち、ある違法な金貸しの背後団体に目をつけられた。その恋人が過去に研究していた技術のことを知ったそいつらは、返済を待つ代わりにある仕事を任せるようになった。そして、自分の技術を活用したそれに没頭していった」


 場の空気が一気に緊張感を帯びる。冬間は遠くに向けていた視線を真っすぐ綾香に向けた。


「この姉貴の元恋人は、寺崎先生。地元に戻って教師になった寺崎先生は、借金のため、自分の欲望のため、誰にも知られていない学校の一室を使って、麻薬を栽培してるんだ」


 すぐには反応を返せなかった。


 海一が可能性を危惧していた“本当にとんでもないこと”。その正体を知って、頭を働かせねばならないと分かっていても、思考は止まった。


「理科準備室内からだけ入れる、廊下の入り口が塞がれた廃教室があるんだ。俺はその秘密の部屋の存在を知って、誰かに相談しようとした。姉貴のことがあるし両親には言えない。両親は優秀だった姉貴が塞ぎこんでしまって、俺への関心がほとんどなくなるくらい姉貴を気にかけている。だけど、警察に行ったら寺崎先生が捕まってしまう。俺はただ、寺崎先生にその研究をやめさせたかったんだ」


 冬間の瞳が悲痛さに揺れる。


「知っての通り俺はこんな感じだから友達はほとんどいなかったけど、クラスメイトに話してみようと思った。でも、冗談としか受け取られなかった。しかも最悪なことに、俺が話をしたクラスメイトたちはそれを冗談だと思って、寺崎先生の前で話してしまったんだ。『寺崎先生が学校で麻薬を作ってるなんて冬間が言ってたよ』って」


「それじゃ……」


「あの時の寺崎先生の顔は忘れられない。俺は口止めされて、それでも度々やめるよう説得していたら、今度はあの柄の悪い男たちにも目をつけられるようになった」


 顔を背けた冬間の手には、小さく拳が作られていた。


 今まで彼はそんな状況を一人で耐えてきたというのか。


 綾香は自分の中のSSとしての使命感が燃え上がるのを感じた。


「学校の理科準備室に幽霊がいるかもしれないなんて噂を流したのも、夜中に学校に忍び込めるルートを作ったのも、みんな寺崎先生がしたことだ。自分以外の不特定多数の人間が夜の学校に忍び込めるって状況を作るために。夜中に学校で作業をしていて、もし何かあった時なすりつけられるように」


 綾香は上半身をひねらせて、彼の顔を横から覗きこんだ。


「あの夜中に冬間があそこにいたのは、寺崎先生を止めようと思ってだったのね? 私が寺崎先生に見つかってしまうと思って、助けてくれようとしたの?」


 視線は合わせぬまま、少しだけ迷って、冬間は浅くうなずいてみせた。

 そして冬間は改めてこう打ち明けた。


「昼休みに俺が不良連中に絡まれてた時……川崎が助けにきてくれて、本当は嬉しかったよ。今まで誰かがきてくれたことなんて一度もなかった。でも、そうやって俺にいい格好をして、聞こえのいい言葉を言って、また誰かに取り入られてしまったらと思うと、怖くて、その時はまだ川崎のことが信じられなかったんだ」


 綾香は少し目を細め、「うん」と相槌を打った。


「でも、俺はこれまでの川崎を見てきて分かったよ。お前はそんな奴じゃない。そして、俺はもう、川崎のことを俺のせいで危ない目に遭わせたくない」


 冬間がじっと見つめてくるので、綾香はいぶかしげに小首をかしげた。


「俺といる時、たまに視線を感じるって言ってただろ。あれは、俺を監視してる寺崎先生のものだ。川崎が俺とよく一緒にいる奴なんだと思われて変な疑いをかけられたりしたら、関係ない川崎まで危なくなる。だから、俺にはもう関わらないでくれ」


 そう告げる冬間の表情は、わずかな寂しさがにじむもののすっきりとしていて迷いがなかった。彼が本心からそう思っていて、綾香にもそうしてほしいと強く願っている顔だった。太縁眼鏡越しの両の眼は綾香をとらえ、決意に満ちていた。


「もう、この間みたいなことにはなりたくない。あの時は川崎の兄貴が駆けつけて助かったけど、俺にはとてもお前らみたいな真似はできない。ポジティブな意味でというか、進歩的な意味でというか、そういう良い意味で、今後俺とは距離をあけてほしい」


 彼が自分のことを思ってくれているが故にそう言っているのはよく分かった。


 綾香としては、卑劣な奴らに屈し、ただそれを黙殺することで身を守るなんて真っ平御免だ。でも、冬間がどうしてもそうしてくれと願うのなら、冬間の友達として、綾香はうなずかないわけにはいかなかった。


「……分かったよ、冬間。大事なこと、私に打ち明けてくれてありがとう」


 綾香は努めて微笑んでみせた。

 冬間はそういう人だから笑い返してはくれなかったけれど、綾香に「分かってくれてありがとう」と言葉を返した。


 そして冬間は先に学校へ向かい、綾香はその背をただ黙って見送っていた。


 台風に雲をすべて吹き飛ばされて、抜けるような青空。太陽は高くなりつつあり、爽やかな風は全身を包み、制服のスカートのひだを優しく撫でていく。河原をおおう新緑は穏やかに日の光を受けていた。


 しかし、綾香の表情は険しかった。


 冬間の友人としての川崎綾香は、冬間の望みを受け入れ、彼に関わらないと約束した。

 だが、SSとしての川崎綾香は違う。


 全ての悪事を白日の下にさらしてやると、そして絶対に冬間を助けると、去り行く彼の後姿を見つめながら固く心に誓っていた。






 海一はサッカー部の朝練を終えると制服に着替え、浜田弟と共に教室に向かっていた。浜田弟はなんだか最近よく自分に懐いてきているような気がする。


 あんなやりとりを見た翌日だったので、練習中顧問を務める浜田の様子をやたら観察してしまった。

 堅物、生真面目。説教臭くて生徒からは不人気。よくある古いタイプの教師だと思っていた。だが蓋を開けてみたら、好意を寄せる女性のためとはいえとんでもないことをしでかしている。


 しかし、それを利用する寺崎の狡猾さ、残忍さはもっと酷いものだ。これまで色々な学校に転入し様々な任務で沢山の教師を見てきたが、今までの中でもなかなか鮮烈な印象を残している。もちろん、悪い意味で。


「でさー、野球部とあれから結構仲良くなって、今度みんなで野球やろうぜって話になってさ……」


 浜田弟の話に適当に相槌を打ちつつ思考をめぐらせていると、反応が薄いと思われたのか「あれ、この話興味ないっぽい?」と苦笑いしながら訊かれた。


 そんなことはない、と学校用スマイルで答えたが、実際は信じられないほど興味が無かった。夕方のニュース番組でやっているデパ地下スイーツ特集くらい興味が無い。


 ただ、人気者で情報通な浜田弟といると色んな話が耳に入りやすいことは確かだ。そういう意味では浜田弟が自分に懐いているのをありがたく思う。


「んー、この間みたいに川崎のこと本気にさせてえなぁ。なんか今、気になってる人とかいないのか?」


 それは言えば気になる人についての何かしらの情報をくれるということだろうか。海一は真剣に考えてみた。


 浜田は利用されているだけだと分かったし、寺崎のことは色々調べたいことは残りつつも、訊いても一般生徒から出てくるような情報には限界がありそうだ。


 では、あの人のことを訊いてみよう。そう海一が口にした名前は。


「教頭先生、とか?」


 何の気なしを装って言ったつもりだったのだが、浜田弟は「えっ」と少し引いたような様子である。

 海一が小さく首をかしげると、浜田弟は困ったように笑いながらこう言った。


「い、いやさ、“気になる人”って俺、クラスの女子とかそういう意味で訊いたんだよ。まさか教頭って言われるとは思わなくってさ」


 改めて説明されて二人の間に誤解が生じていたことが分かった。


 なるほど、普通に考えたらそういう発想になるのか、と海一は自分の思考がどれだけSSの任務に染まっているのか理解した。


 しかし浜田弟はニッと笑いかけてくる。


「で、も! 持ってるぜぇ教頭のヤバいネタ!」


 あるのか。海一は彼の情報屋ぶりに呆れを通り越し感心すらしてしまう。


「ただなぁ……これは超レアなやつだから、そう簡単には教えられないな」


 前も同じようなことを言ってなかったか、と海一は思う。


 だが、前回もかなり有益な情報であったことは確かだ。


「じゃあ、今度はどうしたら教えてくれる?」


 出来れば次はあまり体が疲れないもので頼みたいのだが、と心の中だけで付け足した。


 しかし浜田弟がもごもごと急に口ごもり、照れ笑いでごまかしながら提示してきた条件はよく分からないものだった。


「えーっとな、じゃあな……川崎の知ってる範囲でいいから、教えてほしいんだけど」


「うん?」


 尋ね返すと、浜田弟は海一の耳元でなるべくひそめた声でこう言った。


「お……お前の妹さ、前の学校で付き合ってる相手とかいた? 今、好きな奴とか居んのかな?」


 はあ、そういうことか。あんなののどこがいいんだと思いつつ、海一は努めて自然に返答した。


「いや、居なかったと思う。今も居ないんじゃない? 特に話は聞かないよ」


 その答えを聞いて、「うわぁー! マジで?! 告ったらいけるかな?!」とすさまじい勢いでテンションが跳ね上がっている。真偽のほどはともかく、海一としては彼が上機嫌になって饒舌になってくれたらそれで構わない。


「ありがとなーっ。もし付き合えた暁には、お前のこと『お兄さん』って呼んでやるからなっ」


 実際はお兄さんでもなんでもないのだが、海一は学校用スマイルを作りつつ「ありがとう」と答えた。


 そして浜田弟は再び声をひそめ、


「じゃあな、お礼に俺が知ってる教頭のトップシークレット情報な。兄ちゃんがやりとりしてんの見たから、これはホントにマジのやつなんだけど」


 と、海一だけに聞こえるよう身を寄せた。

 前はあんなに大っぴらに喋っていたのに、今回はそんなに秘密にしなければならない情報なのだろうか。


 海一は相槌を打って先を促した。


「教頭って言えば泣く子も黙る超厳格教師で、怒るとヤバい“鬼の教頭”の通り名で有名じゃん? でも、バリバリ仕事できる教頭も一つだけすっげー苦手なことがあってさ、それがパソコンなんだよ。そりゃもー電源つけたり落としたりもできないくらいダメなんだって」


 パソコン? 海一は何か頭の中の記憶に引っかかるものを感じた。


「今、学校の会計を俺の兄ちゃんがやってるらしくて、その監査とかいうチェックする役が教頭なんだけど、パソコンがわかんないからって実はコッソリ理科の寺崎に丸投げしてるんだぜ」


「えっ」


 海一は反射的に聞き返していた。


 足りなかったピースがどんどん埋まって、全体の絵が見えていく。


「もう潰れちゃったけど、寺崎は昔パソコン部の顧問やってたくらいパソコンができて、資料とか超キレイに作れんの。だから教頭は資料作成から会計の監査まで、パソコンでやらなきゃならないことは全部寺崎がやってて、自分は一切ノータッチなわけ」


 深夜の職員室に忍び込んで手に入れてきたデータ。それを分析している時に思ったのだ。会計資料はやけに手が込んでいて違和感がすると。


 浜田は数字やパソコンといったものが大の苦手で、未だに授業のプリントは全て手書きなほど。そんな彼があんな達者な資料を作れるわけがない。海一はてっきり、そういった部分は教頭が補完しているのかと思い込んでいた。


「つーか、そんな大事そうなこと丸投げしちゃっていいのって思っちゃうけどねー俺は。教頭は超プライド高いっぽいから、“出来ない”なんて周りの人に思われたくないのかもね。まあ、会計なんてみんな大体普通にちゃんと出来るだろうし、兄ちゃんだって大人としてしっかりやるだろうし、別にいいのかな」


 良いわけがない。“みんな普通にしっかりきちんとやるだろう”という神話の中で、現にとんでもない不正が行われている。


 教頭も教頭だ。自分が出来ないからといって体裁を気にして、そんなことまでして体面を保とうと至極無責任なことを。それのどこが“鬼”だというのか。


 海一は居ても立ってもいられなくなり、


「ごめん、ちょっと寄ってから教室に行く。先に行ってて」


 と、駆け出した。


「ええっ、そろそろチャイム鳴るから急げよー?」


 背中に浜田弟の声を受けながら、海一は夜中に資料を読み切って気になったことを調べに、まさかの可能性を確かめに向かった。

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