16
びしょ濡れで帰宅し最初に受けた一言が、絶対零度の「この馬鹿が」だった。
綾香としては自分のとった行動には後悔などしていないのだけれど、制服も重く水を吸い体も冷えているとなると、言い返す言葉は見つからなかった。
すぐに入浴して体を温め、服を着替え、温かい飲み物を飲むと、ようやく普段の体の感覚が戻ってきた。今更ながら、作業する時だけでもジャージに着替えるなりもう少し工夫したらよかったと思った。冬間が「無鉄砲」と自分に称するのもあながち外れてはいないかもしれない、と自嘲してしまった。
学校の宿題や溜まっていた家事、夕食の支度と片付けをバタバタと終えるとすっかりいい時間になっていた。
その頃には外はすっかり静かになっていて、明日はきっと台風一過の晴天になることだろうと思わせた。
「私、もう寝るわよー」
眠そうに目をこする綾香が、ソファに寝そべらせていた体を起こす。
リビングのテーブルでノートパソコンと長いこと睨めっこしている海一は、視線を寄越さぬまま「おやすみ」と返した。
「なんだか毎日遅くまで色々やってるようだけど、今日は何してるわけ?」
「今回の調査に関連する気になる本があって、昼間の内にSS本部に必要資料として請求したら夕方にデータで送られてきた。早めに読んでしまいたくてな」
「えっ。本タダで読めるの? お願いしたら雑誌とかマンガとかも送ってくれるのかしら?」
「上手く任務にこじつけられるなら出来るんじゃないか。出来なければ後で実費で請求されるだけだ」
「ケチねぇ」と綾香が口をとがらすも、海一は「経費というのはそういうものだ」とバッサリ切り捨てた。
「それじゃ、おやすみ」
綾香は真っ暗な廊下に電気をつけ、二階にある自室に向かった。
ほとんど着替えと就寝にしか使っていないので、自室に生活感はあまりない。
小さくあくびをしてベッドの中にもぐりこむ。
すぐに寝られそうだったので、枕元のスタンドライトも部屋の電気も全て消した。
目を閉じると、疲労の溜まった四肢がベッドのシーツに溶けていくような感覚がした。
だが。
しばらくそうしていてもなかなか意識は眠りに落ちてくれない。カフェインを摂取した覚えもないし、体も頭もヘトヘトに疲れているはずなのに。
どのくらいベッドの中でそうしていただろうか。眠れないのにただ目をつぶっていることが苦痛になってきて、綾香は暗闇の中で目を開いた。
暗闇に慣れた瞳は、部屋の天井の隅々までをも認識する。カーテンの隙間から注ぐぼんやりとした月光が、部屋に太刀筋のような一本のラインを描いていた。
脇を見やれば年間カレンダーがあって、まだこれだけしか経っていないのかということに気づく。
カチカチと枕元の目覚まし時計が秒を刻む音が聞こえる。普段はすぐに眠ってしまうので、この時計からこんなに大きな音がしていたなんて今初めて知った。
考える事もなかったので学校での任務のことを考えてみようと思った。
でも、なんとなく上手くいかなかった。眠れなくても頭は疲れているのだろう。
ただぼうっと天井と見つめ合う。時間が過ぎ去るのを待つ。眠気がおとずれるのを待つ。
なんだか前にもこんなことがあったような気がする。いつの任務の時のことだろう。いや、そんな数ヶ月前とかのことではなく、もっともっと前のことだろうか。
広い家。静かな家。自分の部屋。一人の部屋。自分のベッド。見上げる夜の天井。
思い出そうとして思い出せなくて、頭がくらりとしたような気がした。
妙に落ち着かなくて、これではとても寝られそうにないとベッドから抜け出した。枕元の時計を見ると午前二時。
綾香は一階に下りた。変わらず電気がついていて、海一がまだ起きているのだと分かった。
しかしリビングに続くドアを開けてみても、椅子に座る海一の背中に反応がない。テーブルの上のノートパソコンは、開かれたままだが画面が黒く死んでいた。
もしかして、と思い気配を殺して近づき、横から顔を覗き込んでみる。すると案の定、彼は椅子に座ったまま眠りに落ちていた。組まれた腕の片方の指先には眼鏡のつるが握られている。
綾香は日頃の恨みを存分に込めて何かイタズラしてやろうかと思ったが、後が怖いのでやめておいた。あとで何倍、いや何十倍となって返ってきそうな気がする。
「海一」
声をかけると、流石にすぐハッと気がついた。
自分がいつの間にか寝入ってしまったことと、綾香に起こされたことが分かると「何時だ?」と眠たそうな声で尋ねた。
「二時くらい。人のことバカ呼ばわりする割に、こんなところで寝ちゃうアンタもなかなかのバカだと思うわよ」
すっかり頭が起きている綾香に対して海一はまだ脳が再起動中らしく、反論の言葉もすぐには返って来なかった。
椅子で寝てしまって体が凝ったのか、大きく一度伸びをする。
「起きたのか?」
「ううん。なんだか寝られなくて」
そう言って綾香は向かいの椅子に腰を下ろす。
海一は眼鏡をかけ、休止状態になったパソコンを再度起こしながら「何か飲んだらいい」と薦めた。
そうね、と綾香はキッチンでホットミルクを作った。
「で、お前はどうして自分の分だけで人の分も用意してやろうと思わないんだ」
海一は目の前に一つだけ置かれたマグカップを見て、呆れてそう言った。
綾香は「えっ」と驚いてから、
「いや、アンタもう寝るんだと思ったから。こんなとこで寝ちゃうくらい疲れてるんでしょ」
と言い訳した。
「もう少し起きてる」
海一は読んだ記憶のあるところまで戻ると、再び黙って文書を目で追いだす。
真夜中のリビングは耳が痛くなるくらい静かで、カーテンに覆われた向こうの窓の外は真っ黒だった。虫の鳴く声と、遠くの方の蛙の鳴き声がわずかに聞こえる。こうしていると、この部屋以外の文明世界が全て終わってしまったかのような感覚さえした。
綾香は広い部屋に充満する静寂が落ち着かなくて、テレビをつけてみたがどこも放送を終了している。東京だったら誰に需要があるのか分からない通販番組とかが朝方までやってるのにな、と小さくため息をこぼした。
「ねえ。なんだか無音過ぎて落ち着かなくない?」
集中しているなら悪いかしらと思いつつも、綾香は海一に声をかけてみた。眼鏡のレンズにパソコンのディスプレイが写りこんでいる。
「そうか。だったらお得意の歌でも大熱唱したらいい」
前に夕飯の支度をしていた時のことを指されているのだと気づき、綾香は「こいつ……」と目を細めて彼を見た。どうやら海一はすっかり頭が起きたようだ。
綾香はなんとなく思い出した昔の事を語る。
「そもそも私、実家がものすごく賑やかだったのよ。お母さんも私も妹も、おまけにお父さんもかなりおしゃべりだったから。マンションに住んでたんだけど、多分、夜とか結構近所迷惑だったんじゃないかしら」
しゃべりすぎて近所迷惑になるなんて一体どんなレベルなんだ、と海一は思う。
「そういえば、あんまりこういう話聞かないけど、海一はSSになる前はどんなとこに住んでたの?」
そう訊かれて、海一はパソコンに向けていた視線をちらりとだけ綾香の方にやってから答えた。
「嘘でも冗談でも誇張でもなく、いわゆる“お屋敷”だった」
「はい? お座敷?」
「なんでお座敷なんだ。芸者を呼んで酒宴でもするのか」
綾香の突拍子もない聞き間違いに、海一は思わず片手で頭を抱えた。
「簡単に言うと、小さくした迎賓館みたいな感じだ」
「悪いんだけど、迎賓館がわからないわ」
セリフとは裏腹に一切申し訳無さそうな様子は無い。
海一は綾香のこういうところにはもう随分免疫ができているのか、例える事を諦め細かく説明することにした。
「西洋風の三階建てで、天井が高く、各階に大体部屋が十室。半分以上が客間で、エントランスの広さはちょっとしたパーティが開けるくらい」
「……それって本当に現代の日本にあるの?」
ある、と海一はパソコンの画面を見つめたまま言った。
「メイドや執事に当たるような存在の人々も住み込みで何人かいたし、庭は運動会が開けるくらい広いから庭師が複数いた」
ここまで来るともう、流石はSS長官を務める名門神無月家の屋敷、と言わざるをえない。伝統あるエリート一族の家系。
でも、淡々とそう説明する海一がちっとも楽しそうでも自慢げでもないので、あまりその場所に良い印象がないであろうことはすぐに分かった。
それもそうよね、と綾香は思う。
海一は妾の子という生まれのせいで、神無月家ではとても肩身の狭い存在。たとえエントランスでパーティが行われていたって、たとえ本当に庭で運動会が開かれていたって、海一はどちらにも参加させてもらえない、いや、見せてもらえもしないだろう。
綾香の返事が遅れたわずかな間で色々と察したのか、海一は言葉を継いだ。
「まあ、俺は最後の方は一人で暮らしていたからな。あまり屋敷に思い出はない」
今の話を聞いて、綾香はなんとなく分かったことがあった。
一緒に暮らし出して気づいた、海一が一切「ただいま」や「おかえり」を言う習慣がない理由を。言う相手も答える相手もいないなら、それは身につくことはないだろう。
綾香は少し考えてから、自分の話をし始めた。
「私、実は中学生になるちょっと前に、一軒家に引っ越したのよ。二階建ての広い家。初めて自分一人の部屋がもらえてね。それまで妹と共用の部屋だったから、嬉しかったわ」
でもね、と綾香は話を続ける。
「私はその一軒家よりも、前に住んでたマンションの方がなんだか思い出深いの。長く住んでたからかな。今でも実家っていうとそっちを思い出すわ」
と、そこまで話してから、
「あれ、これって前に話したことあるっけ?」
と自問するように首をかしげた。
「……前に少しだけ聞いたことがある」
そう言って海一はパソコンの画面から視線を上げた。
海一と目が合って、綾香は少しだけ微笑んでみせた。
「マンションに和室があったんだけどね。私がまだ幼い頃、クレヨンや色鉛筆を駆使して超前衛的芸術作品を描いたのよ……押入れのふすまとたたみに。しかもそれ、両親が“記念だから”とか言って、引っ越す直前までずっと保管されてたのよ」
信じられないでしょ、と綾香は大げさに肩をすくめた。
海一の表情はいつもと変わらぬものだったけれど、綾香にはなんとなく彼の口元が少しだけ柔らかく笑ってくれているように感じられた。勝手にそう思っただけかもしれないけれど、綾香も両の口角を上げてみせた。
過ぎていく夜の時間に、綾香はそっとホットミルクを一口飲んだ。
気づくと、いつの間に眠ってしまったのか部屋には日差しが降り注いでいた。しかもものすごくまぶしい。予想通り外は台風一過の晴天のようだ。
しかしそんなことより綾香がびっくりしたことはというと。
「あれ……?」
目が覚めたそこがベッドの上ではなく、リビングのソファの上だったということだ。
どうやら昨日の夜中、パソコンで資料を読み続ける海一と話しながらソファに横になり、そのまま眠りに落ちてしまったようだ。
上半身を起こすとハラリと何かが落ちて、海一が何かかけてくれたのかなとありがたく思った。
が、しかし。
「かっ、海一ぃーっ! 海一?! ちょっとっ! 何これ!」
寝起きの一発目でよくそんなに大声が出せるなというレベルで叫ぶと、洗面所にいたらしい部活動ジャージ姿の海一が顔を出してきた。一体何時まで資料を読んでいたのか、その目は非常に眠そうである。
「何だ騒がしい」
「あのね、寝てる人に何かかけてあげようって行動はすごくいいことだと思うわよ。でもね、私が昨日の夜お風呂入ったときに使ってたバスタオルをかけるってのはどーかと思うわ」
綾香の手にあるそれは、強く握るとまだわずかに湿り気を感じる。
「それが一番近くにあったんだ」
しれっとそう言う海一に綾香は、じゃあもしビニールシートが一番近くにあったとしたらコイツは私にそれをかけていたのかしら、とゾッとする。
能力的な問題はともかくとして、自分の相方は何か重要なことが欠けているんではないかと思う。思いやりとか思いやりとか思いやりとか、あと思いやりとか。
だが、朝っぱらから派手に言い合いをしても仕方がない。
綾香がしょうがなく引いてやった時、海一は少し声のトーンを落としてこう言った。
「それはそうと、俺は昨日『今回の調査に関連する気になる本』を読んでいたと言っただろう? あれを読みきって分かったことと、可能性としては低いかもしれないがもしかしたらと思っていることがある」
言葉が深刻さを帯びる。
綾香は気になっていたことを尋ねた。
「そもそもその本ってなんなの?」
「寺崎が教師になる前に書いた本だ」
その名を聞いて綾香の脳裏に一気に蘇る、昨日の寺崎の姿。嵐の学校で、必死に訴える浜田に対し生気のない目で微笑み返していた。この人はヤバい、と本能的にそう思わされた。
「あの時浜田が寺崎に言っていただろう、『日本で一番賢い大学に行って、若くして本まで出して、ついに町から偉い学者先生が出たって……』というようなことを。教師になる前の寺崎のことを調べてみたら、東京の某大学の研究室である分野の新しい研究をずっと行っていたらしい。それに関する本も一冊だけだが出してる」
「その本が、昨日海一が読んでいた資料? で、それは何の分野の研究なの?」
会話としてはごく当たり前の流れで綾香がそう問うと、海一は眼鏡のブリッジを指先で押し上げてから、はっきりとこう口にした。
「植物学だ」
綾香は自分を見る海一の双眸と見つめ合ったまま、一瞬息が止まるのを感じた。
植物。花。
植物と言ったら今一番に頭に浮かぶ人物は、園芸部唯一の部員である、冬間。
日曜の昼間、中庭で作業をする冬間に訊いたことがある。“冬間はどうしてお花を育てるのが好きになったの?”、と。そうしたら彼は答えた。
“身近な人の影響で”、と。
「その寺崎の行っていた“新しい研究”の内容に関して気になる点がいくつかある。話すと長くなってしまうし、かいつまんですぐに説明出来るような内容でもないから、詳しいことは放課後にしよう。俺は今からサッカー部の朝練に行かなきゃならない」
そう言う海一は部活動用のジャージ姿で、時計を見るともう家を出ないといけない時間だ。
海一は最後に、つぶやくようにしてこう言った。
「もしかしたら冬間は、本当にとんでもないことに巻き込まれているんじゃないだろうか……」
疑問の答えは、このすぐあとに綾香が知ることになる。誰でもない、冬間自身の口から。
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