15

「冬間のお姉さん……瞳さんが、まだお前のことを好いていると、どんなお前でも受け入れることができると、そう言っていた」


 浜田は辛そうに、それでも訴えるように寺崎に伝えた。

 しかし寺崎は。


「瞳さんのことは、もう僕には関係ありませんよ。僕なんかより、浜田先生が傍にいてあげた方が彼女は幸せになれると思います」


「違うだろ?!」


 寺崎の言葉にかぶさる早さで、浜田は声を上げた。


「そういうんじゃないだろ……頼むから、しっかりしてくれよ!」


 悲痛な叫び。


 距離を持って物陰にひそむ綾香と海一は、浜田の背中越しに寺崎を見ていた。寺崎の眼鏡のレンズが光の角度で白く光り、表情は読めない。


 そして二人は浜田の口から驚くべき言葉を聞く。


「……学校の会計のこと、いつまでもごまかしきれないぞ」


 今一番気になるワードに、二人の注意が集中する。高鳴る鼓動。

 雷雨が反響する中、全神経を集中させ、目をこらし耳をすませる。


「お前が夜の学校で警報を鳴らしてしまった時も、偶然入り込んでいた生徒たちを俺が取り押さえて身代わりにした。でも、もう限界だ」


 浜田の作る拳にぐっと力が入った。


「同じ小中高を出て、お前は日本で一番賢い大学に行ったな。若くして本まで出して、ついに町から偉い学者先生が出たって、そりゃ同窓会では毎回大騒ぎしていたものだ。……まぁ、お前は一度も同窓会には顔を出さなかったけどな。そんなお前が、一体どうしちまったんだよ」


 寺崎は何も答えず、身動き一つしなかった。表情もうかがえず、それが一層不気味な雰囲気をかもし出していた。


「電気代のことも、どうしても言えない理由があるんだって言われて、お前のことを信じていたのに……」


「本当に理由があるんですよ」


 こんなに深刻な会話をしているのに、よく見ると寺崎の口元はいつものように少し笑んでいて、綾香は自分の目を疑った。


「……この間授業中に『あの部屋』、見たよ」


「僕の白衣から勝手に鍵を持っていったのはあなたでしたか。まったくもう、勝手に荒らされては困りますよ、浜田先生」


 今度こそ綾香は確信した。寺崎はおかしい。

 光の角度が逸れて見えた寺崎の目は、笑っていなかった。口元だけが作り物のように微笑まれ、生気のない瞳で浜田を見つめていた。


 綾香は固いつばを飲んだ。もし一人で盗み聴きしていたら、怖くて逃げ出していたかもしれない。


「もう、かばえないぞ」


 浜田が決意を込めてそう言うも、寺崎はとんでもないセリフを返した。


「僕にもしものことがあったら、あなたの大事な瞳さんが悲しむんじゃないですか」


 ピシャリと雷が鳴る。


 海一も緊張で身を硬くさせていた。これがあの寺崎なのかと。少し抜けていて、生徒によくからかわれる、穏やかで優しげな教師、だったはず。


「では、僕はまだ戸締りを確認しないといけない所があるので、失礼しますね」


 浜田が言葉を返せないでいると、寺崎はいつものようにニコリと笑ってそう告げた。


「次の会計報告書も、いつも通りよろしくお願いします。上の方は大丈夫なので」


 “上の方は大丈夫なので”? 最後に足された良く分からない言葉に、海一は眉間にしわを寄せた。


 そう言い残すと寺崎は正面階段をのぼって行く。その様子は完全にいつもの寺崎に戻っていた。


 それでも綾香は、あの時雷鳴轟く中見た寺崎の不気味な表情が、脳裏にこびりついて離れなかった。






 その後、浜田がとぼとぼとその場を去り、周りに人気が全く無くなったことを確認すると、海一は息をついた。気づけばあまり深く呼吸出来ていなかったようで、酸素が足らず息苦しいのを今更感じる。


 隣の綾香がまだ身を硬くしていることに気がつき、海一は声をかけた。


「驚いたな」


 そう言っている海一の言葉には微塵も動揺の色がにじんでいないのだが、それでも綾香はゆっくりと浅くうなずいた。

 そして一言一言確かめるようにしながら言葉を発する。


「要するに、寺崎先生の“秘密の何か”のために、浜田先生が会計をごまかしてあげていたっていうこと?」


「寺崎が夜の学校で警報を鳴らしてしまって、それを生徒のせいにしたとも言っていたな。前に生徒たちが言っていたあの件のことか。浜田、熱血教師を気取りながらとんでもない奴だな」


 海一は眼鏡のブリッジを指先で軽く押し上げ、鋭く目を細めた。

 綾香も表情を険しくさせる。


「それから、浜田先生が寺崎先生をかばっている理由、瞳さんっていう冬間のお姉さんのためのようね……。あの口ぶりからすると、寺崎先生と冬間のお姉さんは昔恋人関係だったりしたのかしら」


「『自分にもしものことがあったら彼女が悲しむんじゃないのか』と、冬間の姉の気持ちが自分のところにあるのをいいことに、半ば彼女を盾にするようにして利用しているんだな。なかなかに最低な部類の人間だとは思うが、“もしものこと”とやらがあるかもしれないとは、寺崎は一体どれだけまずい秘密を持っているんだ?」


 そう言いながら海一は眉根を寄せた。事態に何かとても不穏な空気を感じる。


「良く分からない言葉はまだあったわ。浜田先生が授業中に見たっていう『あの部屋』って、一体何? それがバカ高い電気代の理由、会計をごまかさなきゃならない原因みたいだけど……」


「寺崎は『自分の白衣から勝手に鍵を持っていったのか』というようなことを言っていたな。その部屋とは寺崎が管理をし、寺崎だけが入れる部屋なんだろうか」


「学校にそんなプライベートな部屋があるっていうの?」


 理解しがたくて綾香は片眉を上げた。

 まだ疑問は湧く。


「あと、私たちが深夜に職員室に忍び込んだ時のことだけど。今の会話を聞くに、もしかしたら、私が聞いた謎の足音は寺崎先生のものだったんじゃないかしら」


「だとしたら、そこにいた冬間は一体何をしていたんだろうか?」


 どれだけ考えても答えは出ない。


 ぶおっと強い風が吹いた。正面玄関全体の窓が揺れるほど。続いてパラパラッと雨粒が体当たりしてくる。


 その音を聞いて、綾香は自分が朝からずっと気にしていた“ある事”をハッと思い出した。盗み聴きした内容が衝撃的過ぎてすっかり忘れてしまっていたが、思い出したら気になって仕方ない。


「教師になる前の寺崎のことなど、他にも気になる情報が色々あったな。調べたいことも出来たし、今日は帰宅し……」


「海一っ、私ちょっと用事があるの! 先に帰ってて!」


 険しい表情をしている海一の言葉をさえぎったかと思うと、綾香は「あとはよろしくね!」と言葉を残してどこかに駆け出してしまった。


 海一は何が何だか分からず、小さく首をかしげた。






 綾香が走って向かった場所は中庭だった。


 朝から綾香がずっと気になっていたこと。それは。


「冬間っ!」


 中庭の扉を開け放ち、姿を確認する前にその名を呼んだ。するとやはり居た。大きな雨粒の混じる強風の中、自分の育てる大切な植物たちをたった一人で避難させている冬間が。


 名前を呼ばれ、冬間は目を見張った。


 それは、もう生徒たちは全員とっくに下校しているであろう時に綾香が現れたことへの驚きなのか。

 はたまた、この嵐で自分が花のために中庭にいるであろうことを綾香が気づいたことへの驚きなのか。

 それとも、昨日あんなことがあったのに、あんなことを言ったのに、それでも自分を気にかけようとする綾香への驚きなのか。


 全てが入り混じった複雑な感情の中、冬間はこちらに走り寄ってくる綾香に冷たくこう言った。


「何来てんだよ」


 風の音がうるさくてよく聞こえない。綾香は「なに?!」とジェスチャーを交えて聞き返した。


「何来てんだよって言ってんだよ!」


 冬間は大声で言い返す。綾香も負けないくらいの大声で答えた。


「手伝いにきたの! こんなにいっぱいあって、室内に全部避難させるの大変でしょ!」


 そう言いながら、強風にあおられる自分の髪が邪魔だったので、体育の授業の時のように髪留めのゴムで高く一つに結った。

 それを見て、冬間は目を逸らした。


 綾香はハッと思い出した、昨日海一が言っていた言葉を。“そのうち青くなって目立つかもしれないな”。“冬間はお前に怪我をさせてしまったことが悲しかったんだよ”。


「もう……もういい、花だとか、今更、こんなことに必死になるなんて、俺……バカみたいだ」


「はぁ?! 何言ってんの?!」


 断片的にしか聞き取れず、綾香がまた聞き返すと。


「こんな下らないこと、もう俺はやらない!」


 そう言うとなんと、手にしていたプランターをそのまま脇に投げてしまった。


 驚いて目を見張る綾香の視線の先で、鮮やかな色の花弁が泥と砂にまみれ、無残にその身を横たわらせる。


「もう俺のことは放っておいてくれって言っただろ! 俺に構うな無鉄砲バカ!」


「バカはアンタの方でしょうが! なんてことするのよ!」


 信じられない、とばかりに怒鳴り返すも、冬間はまた言い返してくる。


「知ったような口を利くなよ! お前に、お前に俺の何が分かるんだ……!」


 綾香は叫んだ。


「何にも分かんないわよ! でもね、こんな大嵐の日でも駆けつけちゃうくらい大事に思ってるのに、今までの自分が大切にしてきたことを気安く裏切るようなことしちゃ、絶対だめよ!」


 冬間は綾香の言葉に何も返せなかった。


 その代わり綾香はすぐにテキパキ動き出し、指示を求めてくる。


「もー、言い争ってるだけ時間の無駄だわ! これ、どこに持ってったらいいの?! 冬間も早く手を動かして!」


 雨粒は強く肌を打ち、足をすくわれそうになるほどの強風に吹かれていた。


 冬間は綾香の姿を見て、今の言葉を聞いて、心の中であることを決意していた。

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