14

 海一は綾香を家に送ってから学校に荷物を取りに戻った。


 色々と面倒なことになるのが容易に予想できたので、人目を避けてこっそり部室に忍び込み、制服と荷物を回収してさっさと帰ってきた。幸い雨が降り出したせいでサッカー部も屋内練習に切り替わっていたらしく、誰にも姿を認められることなく学校を出ることができた。


 再び帰宅すると、制服を着替えた綾香がリビングで一人、すりむいた膝に消毒液を塗っていた。何やらまたぶつぶつギャアギャアと騒いでいる。


「痛っ、なんでこうしみるかなぁもう。しみない消毒液開発希望! SS本部辺りが本気でやってくんないかしら……」


「消毒液は塗らない方がいい。水で汚れを流したら治療促進用の絆創膏を貼っておけ。そこの棚に入ってる」


 正しい手当ての仕方を教えただけなのに、綾香はやはりまた彼の帰宅に気づいていなかったのか「うぎゃっ! ビックリした!」と異形の物を発見したような目で見てくる。その悲鳴はやはり何度注意しても濁音の混ざったものだった。


「帰ったなら帰ったってちゃんと知らせてよ! 急に現れたら何事かと思うじゃない! 何度言ったら分かるのよ!」


「ああ、忘れてた。『ただいま』」


「だから今言っても意味ないんだってば!」


 しれっと意味の無い「ただいま」を付け足す海一に、綾香は「なんで今更こんな子供みたいなこと注意しなきゃいけないのよ」と内心で不満を垂れまくっていた。


 海一は荷物を二階の自室に置いて着替えてくると、綾香の座るソファの隣に腰を沈めた。


「外、雨はどう?」


「強くなってきてる。首、見せてみろ」


 そう言われて綾香は首元にかかる髪を片手で除けて見せる。

 側面部に、首を絞められたそのままの位置に赤いあざが残っていた。


「内出血の量は多くないが、そのうち青くなって目立つかもしれないな。痛むか?」


「触ると痛いけど、普通にしてる分には平気よ」


 綾香は長い髪を払うと、「もう、やんなっちゃう」と口をとがらせた。

 海一は足を組み、あごに手を添え考えるようにしながらこう述べた。


「さっきの黒い車のナンバー、俺がこの間朝の学校前で見たものと同じだった。SS本部からさっきようやく所有者情報の連絡があってな、やはりそういった反社会的団体の所有する車だということが分かった。まあ、立場的には下っ端の下っ端という感じだ。借金取りという線はほぼクロだろう」


 綾香も同じく考えるように腕を組む。


「帰り道、冬間は何か大事なことを打ち明けようとしていたのよ。『実は、俺の姉貴は』とだけ聞いた所で邪魔が入っちゃったから、内容は全然聞けなかったんだけど……」


 姉。その言葉が出てきて海一は思い出した。先程サッカー部で浜田弟より聞いた、冬間の姉と浜田の話を。


「俺もさっき聞いたばかりなんだが、どうやら綾香がスーパーで見た女性は冬間の姉らしい。サッカー部に浜田の弟が居て、そこから聞いたから間違いなさそうだ」


「それじゃあ、浜田先生は冬間のお姉さんのことが好きってこと?」


 そうみたいだ、と海一は肯定する。

 綾香は「ふぅむ」と息をついた。


「浜田先生と冬間のプライベートなつながりが明らかになったわね……。この話、もしかして冬間のお姉さんがネックなのかしら? 冬間もお姉さんのことで何か重要なことを言おうとしてたみたいだし……」


「そもそもなぜ今日急にそんな重要なことを話すという流れになったんだ?」


 海一に尋ねられて、綾香は五、六時間目の体育の授業の話までさかのぼった。


「今日の学年合同体育でバスケをしてた時にね、そうそう、海一が柄に似合わぬスポーツ男子として青春を謳歌してた時よ」


「あれは浜田の弟に冬間の姉の話を聞くために出された交換条件だ。あんなこと俺が自発的にすると思うか」


 まあ、何か訳があるとは思ってたわ、とワンクッション置いて、綾香は話を続ける。


「コートの脇で冬間がクラスメイトたちに絡まれて、体育館を出て行っちゃうのを目撃したの。私、なんだか放っておけなくて冬間を追いかけたのよ」


 お節介だな、とでも言われるかと思ったが海一は黙って話を聞いていた。


「そうしたら、そう、中庭で冬間を見つけたんだけど、なんだか話しかけづらい空気で」


「中庭で土でもいじってたんじゃないのか? 園芸部なんだろう?」


「うーん、土いじりしてたってのは間違ってないんだけど、なんかいつもと雰囲気が違ってたっていうか……うまく言葉にできないんだけど」


 綾香は眉をひそめて状況を思い出してみる。


 そういえば、あの時彼がしゃがみこんでいた場所は、前に作業していたプランターがある場所でも、日当たりの良い花の置いてある場所でもなかった。あまりよく覚えていないけれど、冬間と一番最初に出会った放課後、あの場所でしゃがんで何か作業していたような気がする。


 海一に「それで?」と先を促された。


「しばらく声をかけられずにいたら、そうだわ、寺崎先生に声をかけられたの。思えばその時から冬間の様子がおかしかったわ……。いつもツンツンしてるけど、なんか雰囲気の違うツンツンっていうか」


「まあ、冬間と寺崎の間には何かがあるのは間違いないだろうからな。同じ借金取りにまとわりつかれているんだ」


「そう、そうなのよ。おかしいなって思ったのはそこもなの。そんな深いつながりがあるはずなのになんだか他人行儀で、第三者の私がいるから“ただの生徒と先生”として振る舞ってるって感じがしたわ」


 虚空を見つめ、考え込む二人。


 雨が家に当たる音がする。どこからかピチャンピチャンと雫が垂れる規則的な音がした。

 雨雲ひしめく空は夕日の姿を見せることなく、ただ灰色の濃さを増して夜になろうとしていた。


「とにかく、だ。早いところ寺崎と冬間の関係を探ろう。冬間がまた、その何か大事なこととやらを打ち明けてくれる気になってくれたらいいんだがな」


 海一は寄りかかったソファの背もたれに肘を乗せて、軽く息を吐いた。


 綾香は隣に座る海一に向き直り、憂いを帯びた瞳を向けた。


「私からは訊けないわよ。アイツ、放課後からすごく頑張って決心してたみたいなの。それなのにあんなことになっちゃって……」


 思わず綾香は眉尻を下げ、視線を落とす。


 海一は思った。彼女のこういうところが、人を自然と周りに集め、知らず知らずのうちに打ち解けさせてしまう能力の最たる理由なんだろうなと。


「さっき最後に声をかけた時も、すごく悲しそうな、傷ついた目をしてたわ。せっかく意を決して……」


「それは違うと思うぞ」


 突然言葉をさえぎられて、綾香は反射的に顔を上げてきょとんとしてしまった。眼鏡越しの海一の両目とばっちり見つめ合ってしまう。


「別に冬間は、決意した大事なことを話せなかったから傷ついたわけじゃない。あの時の冬間の瞳の意味、俺には分かったよ」


 「えっ?」と綾香が小首をかしげると、いきなり海一の手がのびてきて綾香の首筋にかかる髪をさらりと払った。


「ななな、何っ?!」


 急にそんなことをされてビックリ半分、恥ずかしさ半分、綾香はほのかに顔を赤くして飛びのいた。


「だから、それだ。冬間はお前に怪我をさせてしまったことが悲しかったんだよ。ごく普通の男子の発想だったら、危機に際して女子に守られるなんて、しかもその女子に怪我を負わせてしまうなんて、情けなくて仕方ないだろう?」


 いつも通りの表情に乏しいポーカーフェイスとドライな声で淡々とそう言っているのだが、綾香はなんだかいつもより少し海一の雰囲気が柔らかいことを、今までの彼との経験から感じ取っていた。


 綾香は目をぱちくりさせて彼に言う。


「アンタに一般男子の心情を語られるなんて、意外だわ。“一般”からはものすごく逸脱してる冷血漢なのに」


「お前、俺が何も心配していないとでも思ってるのか?」


 海一が眉をひそめて呆れたようにそう言うので、


「え、じゃあ一応心配してくれたの?」


 と驚きつつ訊いてみる。


「当たり前だ。あんな奴らにやられてしまう程度では鍛え方が足りないと、お前のSSとしての将来がとても心配になった。やはり通常のSSの研修時間だけじゃお前には足りないんじゃないか? 俺が特訓の相手になってやってもいいぞ」


 真顔でそう語られて、綾香は表情が固まったまま自分の頬の筋肉がピクッと痙攣するのを感じた。


「冗談だ」


 海一は無表情のままさらりとそう言う。一体どこまでが本当でどこからが冗談なのか。

 綾香は両手に拳を作って思いのたけを叫び散らした。


「もーっ! アンタはね、最初に出会った時から何考えてんのかホンットに分かりづらいのよ! 私はエスパーじゃないんだからね!?」


「はいはい、エスパーでなくていいから明日の食材の用意は早めにしておけよ。予報によると明日は台風が最接近するそうだからな」


 海一はそう言うと、夕飯の支度をするためキッチンへ向かってしまった。


 自分がどれだけ彼に不満を言ってもいつものれんに腕押し状態で、綾香はキィーッ! と猿のような奇声を上げた。






 翌朝は予報の通り、嵐が近づいていることがよく分かる荒れた天気だった。玄関を出てすぐ「これでよく休校にならないわね」と綾香が悪態をつくと、海一も「まったくだ」と同意した。


 昨晩から降り続く雨に加えて風の勢いが増し、傘を差しても制服が濡れた。


 海一は昨日あんな帰り方をしてしまい、顧問の浜田から何か言われたりするかと思っていたのだが、開き直って平然としていたら逆にあちらが不気味がってその件に関しては何も触れてこなかった。


 海一と同じクラスである冬間は今日も変わりなく登校していた。いつも通り窓の外を睨み、一人でいた。海一は彼の存在をさりげなく気にしてはいたが、特に声をかけたりはしなかった。


 昨晩二人は話し合い、マークする担当を分けた。

 同じクラスの海一が冬間、そして浜田を。綾香が寺崎を、今日一日徹底的につけることを決めた。


 しかし、それは半日もかなわなかった。


 登校して一時間目の授業が終わると、突然校内放送が入り「台風の影響で帰宅が困難になる可能性があるため、今日の授業はここまでとします」と、とんでもないアナウンスがされた。これには流石に授業を教えていた教師さえも「決定が遅すぎるだろ!」と放送につっこみを入れてしまっていた。


 早く帰りなさいとうながされ、生徒たちは強風に抗いながらなんとか帰路につく。中には傘を差すことを放棄している猛者もいた。


 そんな中、綾香と海一はというと。帰宅したふりをして姿を隠し、互いにマークするべき教師を探っていた。


 誰かに姿が見つかってしまえば説教ののち強制帰宅コースが待っている。慎重に距離を取りつつも周囲に気を配り、足音を忍ばせながらつけていた。


 実はこの時綾香には個人的に気になることがあったのだが、まずは任務を優先することにした。勝手に仕事をサボれば後から海一に何を言われるか分からない。


 そんなことを色々考えながら、体育館、トイレ、事務室など戸締りを確認しながら様々な場所をめぐる寺崎に隠れてついて回っていると、綾香は急に海一に声をかけられた。

 気配無く近寄り、背後からささやくように名前を呼ばれたのでビクッとしてしまった。すぐに小声で尋ねる。


「何してんのよ? 浜田先生をつけてたんじゃないの?」


「つけていてここにきたんだ。寺崎はどこにいる」


 海一に尋ね返され、綾香はそっと指先で寺崎の場所を示してみせた。


 十分な距離の先にある、寺崎の後姿。一階の渡り廊下を校舎側に歩いていっている。生徒が全員下校した無人の校舎はガランとしていたが、叩きつける雨風が反響して騒がしかった。


「浜田先生は?」


 綾香に問われて海一は軽くあごで示す。


 浜田の姿は職員棟の出口そばの駐輪場のもとにあった。暴風雨の中、吹っ飛びそうになっている放置自転車を安全な場所へと移しているようだ。カッパを着ているが、この勢いの中ではあまり意味がないように思えた。


「教師も大変だな」


 海一が他人事のようにそうつぶやくが、綾香としては朝からずっと気になっている“ある事”があって気が気でなかった。


 すると海一に「来るぞ」とささやかれ、浜田がこちらに走ってくるのが分かった。

 二人は死角になる物陰に素早く身を隠す。


 びしょびしょのカッパを脱ぐと、浜田はそのまま渡り廊下を校舎側に進んでいった。丁度寺崎がたどったルートと同じだ。

 このままだと浜田と寺崎が鉢合わせるのではないか、と二人が予感した通り、彼らは正面玄関のところで遭遇した。


「あ、浜田先生。どうも、お疲れ様です」


 ジャラジャラと戸締り用の鍵を持つ寺崎が浜田に会釈をする。


「あっ、ああ。寺崎先生……。お疲れ様です」


 浜田は寺崎に声をかけられ少し驚き、どもりつつ挨拶を返した。


 二人は非常にビジネスライクな挨拶を交わすと、そのままお互いの行くべきところへ向かう、はずだった。


「……寺崎先生」


 声をかけたのは浜田だった。強張った声で場の空気に一気に緊張が走る。


「はい?」


 寺崎はいつも通りの柔らかな物腰で振り返った。


 浜田は少しためらい、全員下校し誰も居るはずはないのだが周囲に生徒たちが居ないか改めて見回した。その様は物陰に身をひそめる綾香と海一がばっちり見ていたので、全く意味のない行動だったのだが。


 そして浜田は口を開く。


「寺崎先生、お話があります。いや、寺崎先生じゃなく、俺の同級生だった友人の寺崎進に」


 改まった浜田の言葉に、寺崎は尋ねた。


「何ですか?」


 言葉を選んでいるのか浜田は少し間を空けて、


「冬間のお姉さんの気持ち、分かってるんだろう?」


 と、そう口にした。


 吹き付ける雨風の音の中に、雷の音が混じり始めていた。

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