13

 放課後の時間を少しさかのぼる。

 大盛り上がりだった体育のあと、帰りのショートホームルームが終わると、綾香は帰り支度をして中庭に向かった。


 そこにはやはり冬間がいて、「最低限の世話だけするからちょっと待ってて」と前置きして作業をし始めた。


 手を動かしている間も口は空いているのだから何か世間話や雑談を投げかけても良かったのだけれど、冬間のまとう空気はピンと張り詰めていて、気安く話題を振ることはためらわれた。


 しばらくすると「待たせたな」と声をかけられ、二人は帰路につくことになった。


 校門を出る時、綾香は視界の隅にサッカー部の人たちと一緒にいる海一の姿を認めた。すっかりスポーツマンになった彼にどんな心境の変化があったんだろうと思いつつ、声はかけなかった。


 時間的にはさほど遅くはないはずなのに、嵐を待つ曇天模様のせいかいつもより暗くなるのが早く感じられた。空気も湿気を多く含んでいるのが分かる。いつポタポタと雨が降ってきてもおかしくない空。


 何かが起こりそうな、おどろおどろしい空気がここ一帯に立ち込めていた。


 学校を少し離れると、冬間は歩きながらおもむろに口を開いた。


「あのさ」


「うん」


 綾香は彼がどんなことを話しても、驚かず受け止めようと思っていた。話し出した彼の横顔に深くうなずいてみせる。


「前に、俺には姉が一人いるって言ったと思うんだけど」


 冬間が緊張しながら口を開き、慎重に言葉を選んでいるのが分かる。


「実は、俺の姉貴は……」


「待って」


 突如、綾香によってさえぎられた冬間の言葉。


 冬間は驚いて綾香の方を振り向いた。

 が、しかし。その彼女の横顔は冬間が知っているいつものそれとは全く違っていた。


 鋭く細められた目つき。気配を探して研ぎ澄まされる神経。綾香は一歩前に踏み出し、冬間の前にかばうように右腕を差し出していた。


 冬間は何が起きているのか分からず、眉根を寄せて彼女の後姿を凝視していた。


 綾香だって本当は、大事なことを話そうとしてくれている冬間の言葉をさえぎりたくなんてなかった。


 しかしここにはいる、冬間の打ち明け話を聞く資格を持たない不穏な輩が。しかも、明確な敵意を持って。


「誰? 誰かいるわよね」


 綾香は凛とした声で前方にそう言い放った。


 前方右手には、車が片手で数えられるほどしかとまっていない広い駐車場。

 前方左手には、自販機の並ぶ向こうに空き地を仕切る木製の塀がある。


 冬間には全く何も感じられなかったが、綾香はまた声を張った。


「そこを立ち去らないならこのまま警察に行くわ。それでもいいの?」


 強気に言い放ちながらも、綾香は内心ひやりとしていた。


 こんな物騒な殺気をかもし出し、手荒なことをしようとしているのだから、十中八九男。加えて、体術の心得はなくとも腕っぷしに覚えがある男だろう。


 綾香は制服の下にSS本部の支給品である特製武器を忍ばせているが、冬間がいるのでこれは使えない。熊をも一撃で気絶させられるレベルの超高電圧スタンガンなんて、普通の女子中学生が日常的に所持していていい代物ではない。


 冬間を守りながら、無事にこの場を切り抜けられるだろうか。

 綾香はせめて一人であってくれと祈っていた。


 しかし無情にも、姿を現したのは二人。


 一人は見覚えがある。昨日冬間を待ち伏せしていた、派手なスーツをラフに着崩した柄の悪い男だ。前回も思ったが目付きが非常に悪い。


 もう一人は見覚えがないが、ルックスが似通っているので恐らく同じような立場の者だろう。こちらは目付きの悪い男よりもっと背が高く、のっそりとして見えた。


 背後で冬間がわずかに身をすくめたのが分かった。

 こんな状況、普通の中学生がそう遭遇する場面ではない。


「……お嬢さん、そこをどいてもらえるかな? お兄さんたちは後ろの僕に話があるんだ」


 目付きの悪い男がわざとらしいまでの猫撫で声を出す。凶悪そうな顔で無理に優しく微笑もうとして、余計に邪悪さが増した。


「彼に何の用ですか」


 綾香は疑問文を強い口調で言い放った。目はしっかりと二人を見据えて、神経のほとんどをそちらに向けている。


「お話があるだけだよ、強気なお嬢さん」


 場の空気がより一層緊張感をまとう。


「話があるならそこからして下さい」


 綾香の鋭い眼光が、目付きの悪い男のそれと火花を散らす。


 背後から冬間が自分の名を呼ぶのが聞こえる。綾香は視線を前に向けたまま、小声で「大丈夫よ」とだけ返した。


 目付きの悪い男はやれやれと大げさに肩をすくめてみせた。


「君、俺たちが怖くないの? 子供の無鉄砲な正義感って逆に恐ろしいねェ」


 綾香は何も言葉を返さなかった。


 すると今度は背の高い男の方がしびれを切らし口を開いた。


「なぁ、もうこんなまどろっこしいのやめようぜ。めんどくせぇ。予定外の女のガキ一人程度、強引に追っ払っちまえばいい」


「でもなぁ。いくらこんな仕事してても、女の子に手荒な手段に出るのは気が引けるんだよなァ」


 自分一人だったらダッシュすれば逃れられる。スーツ姿かつ体も重そうなおじさんたちに足の速さとスタミナで負けるつもりはない。


 だが、背後の冬間は違うだろう。自分と同じくらい速く走れるとは思えない。

 そうなると、戦う道を選ぶしかない。


 綾香はなるべく時間稼ぎをして誰か人が通るのを待っているのだが、流石は人口の少ない地方の田舎町、待てど暮らせど人っ子一人現れない。


「追っ払うのが気が引けるなら、無理矢理一緒に連れてっちまえばいいだろっ!!」


 頭を回転させまくっていた綾香に、背の高い男が迫ってくる。


「下がって冬間!」


 綾香は大声で背後にそう叫んで冬間を突き飛ばした。肩にかかった学生鞄を脇に投げ、わずかに腰を落として身構える。

 迫ってきた男の腕を右に払い、SS本部特製超小型携帯を強く握って拳に強度を増させ、ガラ空きになった男の腹を一突きした。


 背の高い男がバランスを崩して視界から消えてゆくと、今度は視界奥から迫る目付きの悪い男の姿が。

 綾香は体を大きく右にひるがえしてその男の拳を避け、左足を大きく蹴り上げた。綾香の革靴は市販のそれと見た目は同じだが、これもSS本部支給の特別製。つま先とかかとが特殊な素材で強化コーティングされている。


 予想外の蹴りの衝撃に男の上半身は派手によろめく。

 綾香は瞬時に距離を詰めた。男の襟元と袖を引っつかんで地面に叩きつける。


 しかし後ろからまた背の高い男の手が迫る。


「川崎っ!」


 冬間が自分に背後の危機を知らせる声がする。


 綾香は素早くしゃがみ、後ろから羽交い絞めにしようとする男の手をすんでのところでかわした。

 転がるように避けて脇に飛び跳ね、体勢を立て直し背の高い男に向かい合う。


 だが、その時まさかの方向から何かが飛んでくるのを察知した。

 視界の端にギリギリでとらえたそれは、もう一人の男が投げた植木鉢だった。


 綾香はとっさに右腕でそれをガードしたが、当たり所が悪かったのかもろい植木鉢は割れ、土が綾香の目の前を煙幕のように覆ってしまった。


 目が開けない。


 そう思った時にはもう、背の高い男は綾香の両手首を大きな片手できつく押さえつけていて、そのまま背後の自動販売機に強く体を押し付けられた。ドンッと体の背面に衝撃が広がる。


 右足の上に強くかかとを乗せられ身動きが取れない。

 綾香は男を睨み上げた。


 絶対に怯えて見せたりなんてしない、卑劣な暴力に屈するなんて悔しいもの。

 そう思いながらも緊張と恐怖で口は渇き、心臓がバクバクと音を立てていた。


 それでも綾香は諦めず声を張り上げた。


「冬間ッ! 走って逃げて!」


 綾香の大声を止めようと、男の手が首元に迫った。そして。


「……ッく!」


 細い首筋は男の大きな片手にいとも簡単につかまれる。強い力で圧迫され、次第に息が出来なくなってくる。唾もうまく飲み込めず、顔が熱くなっていくのを感じた。


「あ……ッ」


 いけない、意識が遠のく。


 絶対に手放してなるものかと踏ん張るほどに、視界は暗くなっていく。

 目の前の背の高い男の腕越しに見える、冬間に迫るもう一人の男。


 どうしよう、冬間が連れ去られてしまう。


 自分が正しいと思える行動を取れる人でありたいのに、その行動を取れるだけの力が足りない。


 私は、一人ではこんなにも無力だ。


 フェードアウトしていく視界の中、声の発せられない唇をわずかに動かして、綾香は最後にある人の名前をなぞった。


 その時。


 目の前をおおう背の高い男の姿が、急に視界からなくなった。強くつかまれていた手首と首筋が解放され、綾香は反動でふらりと前方に膝から倒れこんだ。


 ケホケホと地面に向かって強くむせ込む。激しい咳の勢いで涙ぐんだ視界。

 しかし隙だらけの自分に迫ってくる手はない。


 喉を押さえながら見上げた先には、やはり、彼の後姿があった。


「かいい、ち……」


 凄まじい速さで急いでやってきたであろう海一は大きく肩で息をしていて、その足元で踏みつけているのは先程まで綾香を押さえつけていた背の高い男。

 走って来たそのままの勢いで飛び蹴りを決められ、地面に倒されたのだろう。


 海一が見据える視線の先には、もう一人の目付きの悪い男。

 まさかの援軍に男が逃走しようとした瞬間、海一は素早く足元の男の胸にかかとでとどめの一撃を落として、逃すものかと眼前の男に迫った。


 瞬時に懐に入り込み、男の襟元と袖を引っつかんでそのまま大きく背負って投げた。男の足が宙で逆さまに弧を描く。

 海一はそのまま男の体を上から押さえ込んだ。膝で胸に乗り、襟首と太股の服をつかんで地面に押し付ける。


 険しい眼差しは男に向けたまま、海一が口を開く。


「綾香、無事か」


「なんとか……。来るのが遅いわ」


 綾香はまだわずかに咳き込みながらも体勢を立て直し、気絶する男の傍で彼に注意を向けていた。


「やはり自転車は早めに用意するべきだったな。日本陸上界が震撼するような最短タイムを出してしまった」


 海一が受け取った綾香からのSOSの合図。SS本部支給品の特別製携帯電話には、ボタン一つで自分のパートナーにピンチを知らせ位置情報を伝える機能がある。綾香は男たちと対峙しながらこっそりとそのボタンを押していたのだ。


 海一が自分の真下に居る男にこう尋ねる。


「目的はなんだ」


 男は目を背け、何も喋らない。


 もう少し尋問してもいいと思ったのだが、冬間が見ている手前、SSとしてあまり踏み込んだことをするのはためらわれた。


 海一は男を地面に完全に押さえつけたまま、綾香にちらりと視線を送った。

 綾香はうなずいて自分の携帯電話を取り出す。


「話すも話さないも好きにしたらいい。今から警察を呼ぶ」


 そう海一が告げた時だった。


「待ってくれ、川崎!」


 制止の声を上げたのは、なんと冬間だった。

 綾香は驚いて彼を見つめた。こちらを見つめ返さない冬間は、足元に視線を落として拳を握っている。


 突然の大声で隙ができたと思ったのか、海一に組み敷かれた男は一瞬体を大きくよじらせたが、しっかり押さえ込まれていてびくともしなかった。

 海一は足元の男に再び冷たい視線をやる。すると男は薄く笑いながらこう言った。


「警察はやめた方がいいぜ。俺たちのためにじゃない。あの坊やのために、な」


 海一は眉をひそめた。

 綾香が冬間に小さく声をかける。


「冬間……?」


 しかし、冬間は目を合わせてはくれず、絞り出すように一言こう言った。


「警察は、呼ばないでくれ。……頼む」


 そう口にする冬間は悔しそうに見えるのだけれど、誰かにそう指示されたり脅されたりしているわけではなく、自分の意思でそう頼んでいるのが綾香には分かった。


 綾香は口を結んだ。


 そして。


「……海一」


 少し思案する間を置いてから、綾香は静かに呼びかけた。


 言葉はなくとも海一は彼女の意図を理解した。海一にも思うところはあるが、彼女はそれ以上に思い悩み下した決断に違いない。彼女の判断を受け入れることにした。


 海一は男を押さえつけていた体を少しずつゆっくりと離し、警戒しながら距離を取った。


 体の自由を取り戻した男は不愉快そうに海一を睨んで舌打ちした後、少し体を慣らしてから、綾香の傍で気絶する背の高い男を引きずり起こして、傍にとまった黒い車にその身を押し込んだ。


 そして去り際に一言、意味深長な言葉を残した。


「正義の味方気取りもいいけどよ、“見誤る”なよ」


 捨て台詞には反応を示さず、二人は走り去る車の背をただ見つめていた。


 そしてエンジン音が聞こえなくなると、綾香はその場に膝を折った。

 ふう、と息をつく。


「大丈夫か?」


 傍に寄って腰を落とし、海一が綾香の顔を覗き込む。


「ええ、私は」


 緊張の余韻と疲労でわずかに声が震える。そして綾香は顔を上げた。


「冬間。大丈夫だった?」


 見上げる冬間は、綾香には理由の分からない悲しみに震える瞳をしていた。

 二人の間にポツリポツリと雨粒がこぼれ、大地に染みを作っていく。


 どちらも言葉を継げないでいると、海一が口を開いた。


「冬間。今の男たちが何者か知っているのか?」


 眼鏡越しの海一の双眸が、何かを見極めるように細められる。口調や態度は学校用のそれではなく素の彼のもので、普段との差から表現しがたい威圧感をかもし出していた。


 遠慮がちに降っていた雨が勢いを増してくる。


 冬間は海一からも綾香からも目を逸らし、


「……知らない、分からない」


 と、まるで自分に言い聞かせるように言った。

 二人がSSでなくたって分かる。彼が嘘をついていること、何かを隠していること。


 雨に打たれる冬間は握る拳に力をこめた。


「俺は何も知らない、知らないんだ。だから、頼むから放っておいてくれ!」


 ぬかるんだ道で泥を撥ねさせながら、冬間は走り去ってしまった。


 雨脚は強まり、綾香の髪の先を雫が伝い落ちる。海一は眼鏡を外し、ジャージで軽く水滴を拭った。


 嵐の始まりを告げる雨。

 奔流する思考に、二人はしばらくその場を動けずにいた。

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