12

 綾香は自分の相棒がいつからこんなにアクティブなスポーツ男子になったのかと、思わず目をぱちくりさせてしまった。


 今は二年生二クラス合同での体育の授業中。学年全体の人数が少ないので、体育の授業は学年合同で行うのが常らしい。五、六時間目ぶち抜きで行われる今日の体育は、有志が好きなチーム同士でバスケの試合をしまくるというかなり投げやりな内容なのだが。


 どんな心境の変化があったのか知らないが、海一が三試合フル出場している。

 こういう「出たい人だけ出たらいいですよ」的な自由参加型のイベントごとは、出来るだけ目立ったことはせず義務だけ果たすのが彼だと思っていた。


 しかし、今の海一が本気を出して試合に臨んでいることは明らかだったし、それに比例するようにものすごく活躍しているのも分かった。自分の持てる能力を惜しげもなく発揮している。一体彼はどうしてしまったのだろう。


 しかも男子生徒たちはみな尋常でない盛り上がりを見せている。各運動部の花形部員も続々参加し、これは本当に授業中なのかと思える熱気が体育館中に充満していた。


 体育館を半分に仕切り、もう一つのコートで女子も最初は試合をしていたが、途中からは男子の試合を観戦するのみとなっていた。


 綾香は体を動かすのが嫌いではないし、持ち前のずば抜けた身体能力があるのでバスケの試合をするのは結構楽しかったのだが、真横のコートでこれだけ男子生徒たちが白熱していると試合が止まるのも仕方がないことだと思えた。


 綾香はネット際で観戦する女子生徒の一人に訊いてみる。


「ねえ、なんで男子こんなに盛り上がってるの? この学校の伝統とか?」


「なんかね、サッカー部と野球部が校庭の覇権をかけてバスケで勝負してるんだって」


 訳の分からない説明に、綾香の頭には疑問符が一気に十個くらい浮かんだ。


 綾香は海一の姿を目で追った。

 バスケの試合は終始走りっぱなし。しかもそれを前後半×三試合こなしているわけで、流石に海一も疲労の色が濃い。


 そんな彼の様子を見ていると、「なんだかよく知らないけどいい気味だわ」とニヤリとせずにはいられなかった。昨晩往復二時間以上もかけて遠いスーパーに買い物に行かされた恨みはまだ忘れていない。

 綾香が日曜に食材を買い忘れたのがそもそもの元凶だという都合の悪い事実は、もう忘れてしまったのだけれど。


 その時綾香がふと、コートを挟んで向こう側の男子の溜まりの方に目をやると。

 試合に出ない控えの男子生徒たちもみな声を上げて観戦しているというのに、隅の方で一人興味なさげにぼうっとしている冬間の姿があった。


 冬間は海一と同じ隣のクラスなので普段の教室での彼の姿を見ることはほとんどないけれど、きっといつもこんな感じなんだろうと思う。それに体育なんて特に、体を動かすのが好きだったり友達と盛り上がれたりする人でなければつまらないだろう。

 彼の周りに人影はなく、きっと今ここにいる人たちのほとんどは彼がここにいると認識してすらいないだろうと思った。


 なんとなく気になってしまいそちらから視線を離せずに居ると、冬間に近づく人影が現れた。隣のクラスの男子生徒たちだろう。綾香はなんとなく嫌な予感がした。


 男子生徒たちが冬間に何かを話しかける。冬間はいつも通りのぶすっとした表情をしているのに男子生徒たちはニヤニヤしていて、両者の間には明確な温度差が存在していた。遠目からでも彼がからかわれていることが分かった。


 冬間は急に立ち上がったかと思うと、一人体育館を出て行ってしまった。


 みんなが好き勝手盛り上がっているだけとはいえ、今はまだ授業中。誰に断りもなく居なくなってしまうなんて、また彼が周りの人たちに誤解されてしまうかもしれない。


 綾香は心の中で「もう、いちいち面倒な奴!」と腹立たしく思ったがなんとなく放っておけず、足は自然と彼を追って外に向かっていた。


 体育館を出た時、そこに冬間の姿はなかった。綾香はすぐに直感で彼は中庭に居るだろうと思った。


 いつもの昼過ぎの学校ならぽかぽかしていて暖かな日差しが降り注いできそうなものなのだが、今日は生憎の曇り空。綾香はまくっていたジャージの上着の袖を元に戻した。


 人気のない授業中の廊下を、足音を殺しつつ走る。高く一つに結われた髪が仔馬の尻尾のように揺れていた。


 中庭に近づくつれ、ハーフパンツで露になった小さな膝小僧から下が妙にひんやりして感じた。一番最初に中庭に来たときもかなり涼しく感じたが、天気のせいかその時よりも一層肌寒い気がする。


 たどりつくとそこにはやはり冬間の姿があった。何やらまたしゃがみこんで土をいじっているのだが、いつもとは様子が違う。


 それは彼のまとう雰囲気とかではなくて、なんというか土をいじっている時の感じが違うのだ。日曜の正午に穏やかな日差しの中プランターの土を入れ替えていた時の彼の後姿とは全く異なる、近づいてはいけないとさえ感じる空気。


 冬間は今、一体何をしているのだろう。


 綾香が遠くから眺めるままで足を踏み出せずにいると、突然背後から声をかけられて飛び上がるほど驚いた。


「あれっ? 川崎さん。授業中にこんな所でどうしたんですか?」


「わっ! て、寺崎先生ですか……」


 少し前に背後からとても驚かされた経験があるせいか、必要以上にビクッとしてしまった。


 後ろに立っていたのは、この時間には授業がないのであろう寺崎だった。

 授業中に学校をふらふらしていた綾香が目に留まり声をかけたのだろう。予想以上に驚かれて少し困惑しているようだった。


 綾香と寺崎の大きな声で冬間もこちらに気づいたようで、並んで立つ二人を見て目を丸くしていた。


 寺崎は冬間にもフレンドリーに声をかけた。


「おーい、冬間くん! こんな所で何をしてるんだーい?」


 しかし、生徒の多くからなめられている、もとい好かれている寺崎の声かけにも冬間は険しい表情を崩さない。

 冬間は作業していた何かに手早く一区切りをつけ、ツカツカとこちらへ向かってきた。


 寺崎はまた、いつもの微笑みを浮かべ彼に話しかける。


「冬間くんはよくここに居るけど、何をしてるんだい?」


 冬間はわざわざ二人のすぐ傍まで来たというのに、寺崎の顔は一切見ず、わずかに視線を下に逸らしながら答えた。


「……園芸部なので」


 綾香は彼のその態度になんとなく思うところがあった。


 見た目や表情はいつものそれと変わらないけれど、普段の彼がまとっているツンツンした雰囲気ではない。なんだかこう、細かく震えて乱れているような感じがした。


 綾香はわずかな時間で思考を高速回転させる。

 何か二人の間に不自然さを感じる。なぜだろう。


 昨夜海一と話して整理したこと。「寺崎は恐らく滞納している借金があり、借金取りに迫られている」。「その借金取りは冬間のこともマークしている」。「寺崎と冬間には何か深い関係がある?」。


 綾香の頭が何かにたどり着きそうになった瞬間、冬間は綾香の手首をがしっとつかんだ。


 綾香が間抜けに「へっ?」と声を上げたのとほぼ同時に、


「失礼します」


 と冬間は寺崎と目も合わせずそう一言だけ告げ、綾香の腕をぐいぐい引っ張り早足で中庭を去ってしまった。

 綾香は「えっ、えっ、何?!」と混乱していたし、二人を見送る寺崎も目が点になっていた。


 しばらく冬間は何も喋らずに大股で歩き続けていたが、中庭から廊下を過ぎ、渡り廊下を過ぎ、職員棟隅の人気の無い駐輪場までたどりつくとようやく足を止めた。


「ちょっ、冬間、いきなりどうしたのよ……!」


 突然早足に無理矢理ついて行かされて少し息が上がってしまった綾香は、呼吸を整えつつ彼に尋ねる。手首もまだつかまれたままだ。


 くるりと振り返った冬間は、その太縁眼鏡越しにじっと綾香の目を見つめてきて、何か重要な知られざる事実を打ち明けようとしているであろうことはすぐに分かった。


 彼が何かを思い切ろうと真剣な表情をしている。綾香は緊張しながら言葉を待ったが、一瞬動いた彼の唇はすぐに止まり、きゅっと一文字に結ばれた。

 そして代わりに一言、


「今日、一緒に帰らないか?」


 と尋ねられた。


 彼が本当に言いたかったのはこのセリフではない。何かもっと、とても重要なことを言おうとしていたはず。綾香にはそれが分かっていた。深刻で、危険さをはらんだこと。


 そしてこの誘われた帰り道で今度こそ、その思いつめた表情の理由が聞けるであろうことも確信していた。


「ええ。一緒に帰りましょ」






 放課後。


 海一はサッカー部の部室にいた。そこには浜田弟をはじめとして同学年のサッカー部員たちが集まっていて、部活動用ジャージに着替えながら今日の五,六時間目の体育での試合の話に花を咲かせていた。


「あそこで川崎がスリーポイント決めてなかったら絶対負けてたねー」


「いやまさか勝てるとは思ってなかったなぁ。ギッリギリの点差だったけどな!」


 バスケで三試合をフル出場するだなんて、自分でやっておきながら馬鹿なんじゃないか、と海一は体の疲れをひしひしと感じながら思う。明日からの任務に支障をきたさぬよう、今日はしっかり体を休ませねばなるまい。


「それもこれも、川崎に三試合連続出場を納得させた浜田のおかげだなっ」


 サッカー部員の一人がそう陽気に冗談を言うと、周りから口々に「違うだろ!」とつっこみが入る。海一は思う、本当に違うだろ、と。


「でも、どうして川崎はこんなムチャな出場条件をOKしたんだ?」


 来た。


 海一がここまで頑張ったのは交換条件で浜田の情報を得るためである。

 この言葉に浜田弟がもったいぶって話をし始める。


「それはなー。引き換えに俺がすげえトップシークレットな面白ネタを教えるって約束をしたんだなぁ」


「えっ!? あんなに頑張っちゃうくらい知りたくなるネタなのかよ?!」


「まあ、すごく気になったからね」


 海一はそう学校用スマイルで笑ってみせたが内心では、トップシークレットと言う割りに部員たちみんなの前で饒舌に話してしまっている浜田弟に文句を言いたくてしょうがなかった。


 その時、サッカー部員の集合を知らせる、三年生部長が吹くホイッスルの音が聞こえた。


「あ、やべ。じゃあ校庭まで歩きながら話すな」


 結局、二年生のサッカー部員集団でわらわらと移動しながら、その中心で浜田が喋ることになる。

 自分一人が交換条件を飲んであんなに働いたのに、結局みんながその恩恵に与っている現状には、もはや嘆く気すら起きなかった。


「川崎の妹の方がさ、大型スーパーで見たんだって。俺の兄ちゃんと女の人が一緒に居るところを」


「えっ、あのハマセンが女と?!」


 サッカー部員らがさらっとハマセンと呼ぶ様子に、仮にもサッカー部の顧問であり浜田弟にとっては実の兄なんだがな、と海一は思う。


「で、その女の人が誰かって言うと……」


 丁度そこで準備運動を始めろと部長に指示されてしまい、運動しながら小声で話を続けることになった。


「二年二組の冬間ってやつ分かる?」


「ああ、髪ボッサボサの。ダサイ太縁眼鏡のぶすっとしたやつだろ?」


 ここで冬間の名前が出てくるとは。まさかのつながりに海一は緊張を覚えた。そして。


「そうそう。その女の人って、冬間の姉貴なわけ」


「えええええっ!? あの根暗の姉貴と? ハマセンが?! 付き合ってんの?!」


「いいや、付き合ってはないよ。完全な片思いってヤツ。ていうか兄ちゃんは多分、冬間の姉貴にそういう風に見てもらってない」


 部員たちは部長に怒られるくらい声を張り上げて驚いていたが、海一も同じくらい衝撃を受けていた。ここでようやく浜田と冬間の個人的で深いつながりが明らかになった。


「超ビックリだろ? このネタはヤバイっしょ? 俺も学校の奴に話すのはこれが初めてだわ」


 確実に俺が情報源だって分かるからあんまり人に言わないでよ、と一言添えていたが、この情報が秘密にされることは絶対にないと海一は思う。情報通そうな人気者の男子生徒ばかりが集まるサッカー部だ。あらゆるルートを経て明日には学校の半分以上の人が知っていてもおかしくなさそうな気がした。


「しかもさ、兄ちゃんは学校で冬間に結構何度も接触してるみたいなんだけど、可哀想なことにあんまり好かれてないっぽいんだわ」


「アイツ暗くて何考えてっかわかんねえしなぁ」


 “何度も接触している”ということは、先日人気のない駐輪場で冬間と浜田がしていたようなやりとりは、あれが初めてではなく過去にも何回かなされているということなのか。前々から何かの危機を察知し、浜田が冬間にそれを忠告していたということなのだろうか。


 海一が思考をめぐらせているうちにサッカー部の号令がかかり、準備運動を終えた部員たちは、やってきた顧問の浜田の元に集合した。


 先程まであんなにネタにされていた浜田。部員たちはどんな気持ちで、目の前で話す浜田を見ているのだろう。

 などと海一が考えていた時だった。


 突如、ビーッビーッビーッと長く断続的な、サッカーコートの端から端までに響くような大きな電子音がした。それは着信音というよりもはや何かの警告音に近い。


「おい、携帯か? にしても着信音が随分デカいな。携帯は学校に持ってきたらいけないはずだぞ。しかも大事な部活中にジャージに忍ばせておくなんて言語道……えっ?」


 説教タイムをスタートさせようとした浜田が目を丸くしたのは、目の前でサッと携帯電話を取り出したのが誰でもない海一だったからだ。


 海一はビーッの最初の一音で素早く携帯を取り出し、すぐに画面を表示させた。その間周りの人の目を気にしたりするようなそぶりは微塵も無かった。


 更に浜田が驚いたのは、これだけ目の前で声を上げて怒っているというのに、その一切を無視し、海一に携帯をしまおうとする様子が全く見られない点である。


「か、川崎……? 携帯は……」


 成績優秀で割と優等生なキャラの転校生として認識されている海一。注意する浜田もどうしたらいいのか分からず言葉尻が力を失う。


 更にもっと浜田が驚いたのは。


「川崎っ!? どこに行くんだ?! 待ちなさい!!」


 海一がそのまま突然、猛ダッシュでどこかへ行ってしまったことだった。信じられないスピードで校門方面へ走り去り、すぐに姿が見えなくなった。


 あまりのことに、あっという間のことに、部員たちはちょっとした嵐が過ぎ去ったあとのようにポカンと呆気に取られてしまった。


「な、なんだったんだ……?」


 浜田弟は新しい部活仲間の奇行に首をかしげるしかなかった。

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