綾香は教室を出ると、早速校舎を歩き回ることにした。


 授業中の学校を自由に歩きまわれる機会などそう得られない。貴重な調査の時間にするとしよう、と綾香は気持ちを切り替えた。そうでもなければ、転校数日ですっかりクラスの笑われキャラになってしまった自分の気が滅入るだけだ。


 転校してきたばかりでまだ資料室の場所が分からない、というていで早速資料室とは真逆の方向に足を踏み出した。


 隣の教室を通り過ぎる時、ちらりと視線をやってみた。

 隣は英語をやっているようだ。女性教師が教科書の会話文を読んでみせ、続きを読むよう丁度海一を指名していた。


 海一は見事なまでの“カタカナ発音”で読み始めたが、彼が基本的な英会話だったらスラスラとネイティブのようにこなせることを綾香は知っている。それはやはり彼が受けてきた厳しいエリート教育の賜物なわけだが、こんな田舎の中学校でそんな実力を出してしまえば面倒なことになるのは間違いない。


 こうやって彼がわざと“出来ない”ふりをしていると、本性を知る綾香としては滑稽で笑いがこみ上げてきてしまうのである。


 その笑いをかみ殺しつつ、綾香は正面階段の方に足を進めた。


 開け放たれた廊下の窓から、風が爽やかな空気を運んでくる。生命の芽吹きを感じさせる瑞々しいその香りが、鼻腔を心地よく刺激する。

 窓から覗く景色はほとんどが空と山。マンションなどの高い建物がないので校舎の二階からは住宅が全くないようにさえ見えた。


 一つだけ、空を突くようにそびえる槍のように細い建物がある。

 最初にここの最寄り駅に降り立った時にも少し気になったのでクラスメイトに聞いてみたのだが、あれは数年前に完成するはずだった電波塔、らしい。


 公共事業として建設が行われていたのだが、完成まであと少しというところで事業見直しの声がかかり、もう何年も中途半端な未完成の状態で放置されているそうだ。恐らく完成することはないだろうと地元のみんなが言っているという。重機も置きっぱなしだし、立ち入り禁止の警告はあるものの無人で危ないのでどうにかしてほしいという声も上がっているそうだ。


 そんなことを思い出しながら歩いていると、校舎の外から小さく人の声が聞こえたような気がした。


 綾香はその声を聞き逃さぬよう、足音を殺してそっと階段を下りる。二階と一階をつなぐ踊り場の窓を覗いてみると、四人の男性の頭頂部が見えた。丁度会話の主たちの真上のようだ。


 綾香は身をひそめつつ聞き耳を立ててみる。


「……困る……ここには来ないでくれと……」


「そんなことを言える立場……」


 距離があるし風も吹いているので途切れ途切れにしか聞き取れない。


 それでもなんとなく、一人が迫られ、あとの三人が迫っているのだという構図だけは理解した。そして絡んでいる方が非常に柄が悪いということも。


「返さないほうが悪い……から……」


 綾香は再び真上から覗いてみる。三対一の構図。この間の絡まれている冬間を思い出すようだった。

 ただ今回間違いないのは、迫っている三人組の方は確実に学校関係者ではないということだ。


 頭上からしか見えないので詳しくは分からないが、社会人としては通用しなさそうなレベルで派手なスーツをラフに着崩している。立ち姿や振る舞いもなんとなく威圧感を与えるし、普通の仕事をしている大人には見えなかった。ヤクザ、とまでは言えないがいわゆるチンピラのようなものなのだろうか。


 そして驚くべきことにそこで迫られていたのはなんと、綾香が先程まで理科を教わっていた寺崎だったのだ。

 学校では彼しか着用していない白衣と、キラリと光る眼鏡のつるで分かった。


 綾香は再び身をひそめ、もっとよく聞き耳を立てようとした。

 と、その時。今度は校舎内一階の方から足音が。


 あっちからこっちから一体何なのよもう、と綾香は気になる場面を最後まで見届けられないことを悔しがりつつ、足音をひそめ二階方面へ逃げた。


 足音は階段を上がってくる。ゆっくりこちらに近づいているようだ。


 綾香は左右どちらに逃げようか迷ってから、来る可能性が圧倒的に低い二階の特別教室側に行くことにした。職員室に行くとしても生徒たちの教室に行くとしても反対側、こちらには来る用事はほとんどないだろう。


 理科室を遠目から見ると扉が開け放たれていて、現在授業が行われていないことが分かった。綾香はそこに飛び込んだ。音を立てぬようそっと扉を閉め、その場に「ふう」とへたり込んだ。


 ようやく緊張を解ける、と思った瞬間、足音がまだこちらに迫っているのを察知した。心の中では「ええええ、なんで?!」とちょっとしたパニックになっていた。もしかしたら自分の存在を気取られて追ってきているのかもしれない。


 慌てて室内をキョロキョロと見回すと、理科室の隅にある大きめの棚が目に付いた。

 棚の窓の部分には外からの日光をさえぎるための暗幕がかけられていて、綾香がそれをパラッとめくってみると中には大量のガラス瓶が。どうやら薬品棚のようだ。扉には厳重に鍵がかけられている。


 綾香はその棚の脇に身を隠した。入り口からは死角になる場所だ。


 そこまでしてから綾香はふと気がついた。

 よく考えたら、今は別に身をひそめる必要なんてないんじゃないか、と。


 別に夜中にこっそり忍び込んでやましい潜入調査をしているわけではなく、昼間の学校内を生徒として歩いているだけだ。確かに今は授業中だが、資料を取りに行かされて迷ってしまったという立派な言い訳もあるし、今の自分には隠れなければならないような理由はないはずだ。


 しかしこうして一度理科室に隠れてしまうと、授業中にこんな所で何をしているんだということになってまた一層話がややこしくなる。面倒なことになるのも嫌なので、綾香は仕方なくその場所に隠れたままでいることにした。


 しばらく息をひそめていると、カチャカチャ、カチャカチャ、ガチャ、と遠くから鍵を開けるような音が小さく聞こえてきた。

 しかしそれは理科室の扉のそれではないことがすぐに分かった。なぜなら先程綾香がスムーズに入室できたように、この部屋には鍵がかかっていないからだ。もちろん、綾香が入室した後も鍵などかけていない。


 この近くで鍵がかかっている場所というと、隣の理科準備室だろうか。

 しかし先日の夜に肝試しをした際に確認したが、理科室と理科準備室は部屋同士がつながっていて、そこをつなぐドアは鍵がかけられていないはず。


 今こうやって理科室の鍵自体がかかっていないのに、理科準備室の廊下に面した入り口にだけ鍵をかけているのもなんだか不思議な話だ。理科室から経由すれば鍵などなくても簡単に立ち入れてしまう。


 綾香はその場で、姿の見えない足音の主の正体を考えていた。


 寺崎は学校唯一の理科教師なので、この辺りの鍵の管理を任されるとしたら彼が一番可能性が高いだろう。しかし足音が聞こえてきた時、綾香は階段の踊り場の窓から寺崎の姿を見ていた。だから彼でないことは間違いない。


 綾香が思考をめぐらせていると、理科準備室の方向からドンと小さく音がした。くぐもっていたのでそれは何かが当たった音なのか何かが落ちた音なのかも分からなかった。


 しかしその音がもう一度した時、綾香はこれは確実に人為的に荒っぽいことがなされているのだと理解した。


 ドカドカッ、ドン。


 部屋を隔てているので小さくくぐもっているが、整理整頓をしているようなレベルではない物音がする。


 綾香は自分の鼓動が早くなるのを感じた。とてもじゃないが今さら姿を現すなんてできない。


 得体の知れない相手と物音に恐怖を覚えつつも、それをわずかに上回ったSSとしての自覚で、綾香は理科室から理科準備室へとつながるドアに近づいてみた。


 もし最悪こちらの姿が見つかってしまったとしても、この時間この場所にいることは怒られるかもしれないが、なんらやましいことはない。いざとなったら開き直ってしまおうとすら思っていた。


 だが、意を決してドアの覗き窓から覗き込んだ理科準備室の中には人の姿はなかった。

 狭いので隠れられるようなスペースはないし、何よりドカドカというくぐもった物音はまだ聞こえている。


「どういうこと……?」


 綾香は眉をひそめ、小さく首をかしげた。


 その時。


「かーわーさーきぃー! 川崎ー! お前どこまで行ってんだー!? 迷子かー?! 迷子だったら怒らんから教室戻ってこーい!」


 廊下から担任が呼びかける大声がした。

 綾香は自分を呼ぶ突然の大声にびっくりしたが、それ以上にとても恥ずかしかった。


 授業中にもかかわらず他のクラスの迷惑になるレベルの大声を廊下で張り上げるなんて、まるで地声の校内放送だわ、と綾香は思った。そして自分のクラスだけでなく隣のクラスにも聞こえていると思うと、顔から火が出る思いだった。


 ちなみにこの時隣のクラスの海一は、クラスメイトたちが「あはは」と笑う中、自分の相方のじゃじゃ馬っぷりに一人頭を抱えていた。


 このまま大声で名前を呼ばれ続けるのも嫌だし、下手したら学校中大捜索されてしまう。綾香は仕方なく、足音を消しつつ理科室を後にした。


 去りつつも、その神経のほとんどは謎の物音がしていた方向に注いでいた。しかし、綾香を探す担任の大声が廊下中に響いてからというものその音はぱったりと止み、綾香が廊下に出た時にはどこからの音なのか探すことは不可能だった。


 理科準備室に人の姿はなかった。無論、理科室にも綾香一人しかいなかった。特別教室が並ぶ校舎の左側、二階には理科室と理科準備室以外に入室できる部屋はなかったはず。


 綾香が思案しながら歩いていると、理科準備室の隣の並びの廃教室が目に付いた。肝試しをしに来たときにもちらりと視界に入っていた。

 まさかこの部屋に? とはわずかも思えなかった。なぜならいずれの扉も外から厳重に板が打ち付けられ、とても立ち入れそうにない。一応手で押してみたがびくともしない。


 まあここはないわよね、と諦め、教室へ急ぎ駆け戻った。その時の綾香は資料室で日本地図を取ってくることなどすっかり忘れていた。






 昼休みになると海一は早速、気になっている教頭のことを調べることにした。


 教頭はこの学校の会計資料などのデータを管理し、文科省に提出する会計報告書の最終チェックを行っている。そういえば今朝には不審な車を率先して追い払っていた。


 適当な理由をつけて職員室を訪ねたが、そこに教頭の姿はなかった。

 海一は視界に入った暇そうにコーヒーを飲んでいる男性教師に声をかけてみた。


「先生、教頭先生がどちらにいらっしゃるか分かりますか?」


 その男性教師は見慣れぬ海一の顔を見てすぐ転校生だと気づいたようだ。


「お、転校生のお兄ちゃんの方か。教頭先生に何の用だ?」


「遅れて来る両親のことでちょっと、相談したいことがありまして」


 もちろん嘘である。


「んー、今はやめておいた方がいいと思う。ピリピリしてるだろうからな」


 熱そうにコーヒーを一口すすりながら男性教師が言う。海一は首をかしげてみせた。


「ピリピリ、ですか」


「川崎はまだ教頭先生のことをあまり知らないか。あの人は物凄く厳格な人なんだよ。普段はまだ穏やかなんだけども、ミスがあったりすると烈火のごとく怒るんだ」


 男性教師の言葉に、海一はある日の昼休みに立ち聞きした言葉を思い出していた。浜田と会計の話をしていた教師が、教頭のことを“鬼の教頭”と形容していた。


「今、別室で学生気分が抜けきらない新米の先生を気合入れて説教してる所みたいだから、行ったらもれなく飛び火するぞ」


 生徒にこんな話をしてもいいのだろうかと疑問に思いつつ、教頭がとても厳しく怒ると怖い人物であるとみんなが感じているということがよく分かった。

 海一はまだここに明るくない転校生として、少し突っ込んで失礼なことを尋ねてみた。


「もしかして、教頭先生はあまり好かれていないんですか?」


「ん? いやいや、そんなことはないぞ。実は俺も前に怒られたことがあるんだが、教頭先生が怒るのはまあ自分も悪いだろうなって思うことだし。教育に熱心で職務に真剣だからこそ、色々なことに厳しくなるんだろう」


 教頭を直接観察することはかなわなかったが、この男性教師から聞いた話が教頭の人となりを凝縮しているように海一は思えた。


 海一が職員室をあとにすると、隣の面談室からタイミングよく教頭が出てきた。シワ一つないグレーのスーツに糊の利いたシャツ。鋭い目つきが先程まで人を叱っていた名残を感じさせた。


 目が合ってしまったので、海一は「こんにちは」と挨拶し頭を下げてみた。

 教頭は目つきは険しいままだったが口元にわずかに微笑みをたたえ、「はい、こんにちは」と挨拶を返した。


 どうやら浜田を上回るまじめな教師のようだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る