週明けの月曜日、海一は一人で朝の通学路を歩いていた。


 本当なら隣を歩いているはずの同居人は、今朝盛大に寝坊した。


 ここに来て数日が経ちそろそろ気が抜けてくる頃だろうとは思っていたが、驚くくらい予想通りだった。


 互いにベッドは二階のそれぞれの自室にある。海一は隣の部屋に扉越しに何度か声をかけたが、「うーん」「ふぁーい」「いまおきるー」「うるさぁい、ちゃんとおきてるからぁー」と、ちゃんと起きている人からは到底発せられないセリフが返ってきた。


 “互いの部屋には立ち入らない”という決め事があるし、海一はもう見捨てることにした。


 朝食を終えいざ出かけようという頃に、二階から「ぎゃあああああ!!」という悲鳴が聞こえて、彼女の起床を知った。朝から目覚まし時計のように騒がしい奴だな、と思いつつ海一は一人先に家を出た。


 今頃彼女は自己新記録の速さで身支度をしていることだろう。


 一人歩く通学路は相変わらず景色に変化が少ない。顔を上げると視界を占めるは山の緑。その圧倒的な大きさを前にすると、ただ真っすぐ続くだけの田んぼ道は余計に距離感がつかめなくなる。


 学校の校門が見えてくる頃になると、生徒の姿もちらほらと見え出す。遠方から通うため自転車で登校している生徒も多い。


 ふとその時、海一の目に飛び込んできたものがあった。


 校門沿いの塀の脇にひっそりと、それでも確かな違和感を持ってとまっている黒いセダン。


 普段あんな場所に車がとまっているのを見たことはないし、それになんだか雰囲気が一般的なそれと異なって感じる。

 人が乗っているようだが、光の加減と窓のスモークでよく見えない。朝の学校の傍にこれだけスモークがしっかり効いた車がとまっているのもなんだか物騒な感じがする。


 職員や来客者のものならば学校の駐車場にとめるだろうし、こんな所でまるで何かを観察するかのように、隠れているようで姿を見せているような謎の不審さがあった。

 他の生徒たちもチラチラと気にしている様子がうかがえる。


 海一がそちらに近づいてみようと足を踏み出した時、背後から声をかけられた。


「おい」


 聞いたことのない男の声。


 振り返るとそこには、ぼさっとした柔らかそうな髪に、野暮ったい太縁眼鏡をかけた男子生徒がいた。やる気なく見えるぼったりしたまぶたから覗く、何も信じていないようなとがった眼光。敵意というより、他人を突き放すことで全てを拒絶しているように見えた。


 海一は綾香から聞いた話と照合し、この男子生徒が例の冬間翔だということがすぐに分かった。目立たずあまり教室には居ないが確かに自分のクラスメイトだ。


 自分とは特に今まで関わりはなかったはずだし、いきなり何の用だろうと疑問に思っていると、冬間は睨みつけるようにしてこう言ってきた。


「お前、二年一組の川崎の兄貴なんだろ」


「そうだけど?」


 できるだけ反感を持たれぬよう、学校用の態度を用い柔らかい口調で聞き返したつもりだったのだが、冬間はわずかに眉根を寄せた。海一は自分があまり好意的に思われていないことをすぐに察知した。


 そして冬間は少し声のトーンを落としてこう言う。


「親が居ないんだったら、妹のこと、今はお前がちゃんと見ておけよ」


 直接的でなく、少しぼやかすような表現。その言葉の真意はなんとなく察したが、海一はわざとこう聞き返した。


「何の話?」


「だから、夜とかだよ。あいつはちゃんと家に居るのかとか、気にしておけよ」


 少し突いただけで、ほとんどのことを話してしまった。いらだった口調。要するに一昨日の深夜に学校で綾香と出会ったことを指しているのだろう。

 あの時、海一は冬間に姿を見られていない。冬間は綾香が一人で深夜の学校に居たと思っているのだろう。


「ちょっとは気にかけろ、家族なんだろ」


 そう吐き捨てるよう言われて、海一はまた何も分からないふりをして尋ねてみた。


「どうしてそんなことを?」


「うるさい。そんなことはどうだっていい。俺は確かに言ったからな」


 冬間はそう言葉を残すと、海一の疑問には一切答えず早足で行ってしまった。


 海一は内心で「なんだあれは」と会話を成立させる気がまるで感じられない冬間の態度に呆れていた。

 同時に、初日の夜に綾香があれだけ怒っていた理由が分かった気がした。あれは彼女が腹を立てるタイプの対応をする奴だ、と。ギャアギャアやかましく言い返す彼女の姿がありありと頭に浮かんでくるようだった。


 しかし、海一はどうも彼に対して何か既視感のようなものを感じてならなかった。彼の見た目などではなく、雰囲気だとか態度だとか。何かに似ているような、どこかで見たことがあるような。


 ふと海一が車のエンジン音を耳にして顔を上げると、先程停まっていた車がのっそりと移動し始めていた。


 不審なその車を追い払ったであろう主がそこに立っていて、見覚えのあるその姿はこの学校の教頭だった。

 年齢にそぐわぬ恰幅の良い体にグレーのスーツをまとい、ピシッと伸びた背筋で車の姿が見えなくなるまでそちらをじっと見つめていた。生徒に言われたか職員が気づいたか、教頭がいの一番で飛び出してきたようだ。


 海一は去り行く車に目をこらし、辛うじて確認できたナンバーを記憶して校門へ急いだ。






 綾香は始業を告げるチャイムの最後の一音が反響しているギリギリの時に教室に飛び込んだ。バンッとドアを強く開け放つ大きな音が廊下中に響き渡る。


「セーフですよね!?」


 肩で息をしながら、彼女のあまりの勢いにびっくりしている担任に問う。背の高い男性教師は何度かまばたきをしてから、咳払いをし、


「いや、今のはギリギリアウト」


 と無慈悲な判定を下した。


「なんで?! なんでですか! まだチャイムの音がほのかに残ってたでしょ?!」


「いや、先生は最後の一音が鳴ったらもう終わりだと思うな」


「先生っ、音楽はその余韻をも楽しむものなんですよ?! そう考えたら、鳴り終ってから数秒くらいは余裕でその音楽の一部と言えるわけです!」


「ていうかそもそもチャイムって音楽なのか? ゴチャゴチャ言ってないで早く席につきなさい、遅刻者」


「イヤーッ!」


 綾香の断末魔に教室中が笑いに包まれたが、笑っているのは綾香のクラスの生徒たちだけではなかった。

 この一連の大声のやり取りは当然のごとく隣のクラスにも聞こえていて、


「……川崎、可哀想だから朝はちゃんと妹を起こしてやれ」


 と、隣のクラスで海一が教師に哀れそうにそう声をかけられる始末だった。


 海一は学校用スマイルを引きつらせながら「は、はい」と答えるしかなかった。


 隣のクラスの生徒たちもみな笑っていたが、同じく全て聞こえていたはずなのに冬間だけはぶすっとした表情を崩さず、ただ窓の外の景色を興味なさげに睨んでいた。


 この学校では体調不良や止むを得ない用事などでなく無断で遅刻をした場合、A4サイズの用紙にみっちり反省文を書かされることになっている。綾香はこれが嫌だったから絶対に遅刻になりたくなかったのだ。


 しかし遅刻判定をされてしまったものはもうどうしようもない。諦めてその面倒な課題に取り組んでいた。

 綾香がシャーペンを走らせる。だが、今は実は授業中だ。


 教室の最後列の窓際一番端という最高の転校生席ポジションを活用し、先生の目を盗んで作業を続けていた。

 こっそり作業するなんてお手の物。綾香は授業やクラスメイトたちの声をラジオのように聞いていた。


 一時間目。浜田の担当する国語。


「お前ら、もう夜の学校に忍び込む計画とか立ててないだろうな?」


「立ててませんー」


「どうだか、信用ならないな。怒られるからやらない、じゃなくて、いけないことだというのをちゃんと分からないと……」


 生徒たちにあまり好かれていない浜田の説教は、全ての生徒たちの耳を右から左へ通り過ぎる。


 浜田のこの生徒たちに対して決め付けてかかる感じは、まさに頭の固い教師そのものだわと綾香は思った。生徒たちを心配しているからこそというのは、少しみんなより距離を持って見ている綾香には分かるのだけれど、生徒たちにはうまく伝わっていないだろう。


 綾香は前から回ってきた浜田の読みづらい手書きのプリントを見て、古いタイプの人なんだろうなと心の中で小さくため息をこぼした。


 二時間目。寺崎の担当する理科。


「ねえセンセ! 理科準備室でオバケみたことある?」


「オバケかぁ。僕はまだ見たことないけど、一昨年までいた霊感が強いっていう先生が、『理科室には近寄れない、何か感じる』とかなんとか言ってたなぁ」


「えーっ、マジで!? なんか他にもねえの? 俺、あの人体模型って廃校から勝手に持ってきたヤバいやつって聞いたことあるぜ」


「うーん、それはどうなのかなぁ。確かにあれ、ちょっと傷だらけだけどねぇ」


「っていうか先生、また白衣のすそ汚れてるよ。袖も。ウケるんだけど、毎日泥でもつけてんのぉ?」


「ええっ、うそ、また汚れてる? どこどこ……」


 寺崎は浜田と比べたら生徒には好かれていると思うが、やはりなめられている感じが否めない。大人からしたら下らないであろう幽霊の話にも乗ってくれる気さくな所は好感を持たれているのだろう。しかし、生徒たちの態度は少しフレンドリー過ぎる気がした。


 まあ、普通の公立中学校の二年生はこんなものか、と綾香は感覚を合わせようと思った。綾香は今まで色々な学校に潜入してきたが、宮殿のように豪華な私立学校では女子生徒全員がお嬢様言葉で喋っているなんていうところもあった。


 でも正直綾香からすると、仮にも教師という立場の人間が、あるかどうかも分からない学校の怪談話を積極的に話すというのはどうかと思う。


 三時間目。自分のクラス担任が担当する社会。


「えー、我が県の特産物は地元消費が二十%、あとのほとんどは高級食材として他県で消費されていて……」


 寝坊したからといって沢山寝られたというわけでは全くなく、三時間目という気のゆるみと窓から降り注ぐ暖かな日差しに、綾香は自然と船を漕がされていた。

 遠くから子守唄のように担任の声が聞こえる。


 綾香としては眠ってしまうつもりなど全然なかったので、手元のシャーペンはこそこそと反省文を書き続けていたはずなのだけれど。


「……おい、川崎」


「ふあっ」


 突如はっきり真横から聞こえてきた声に、綾香は姿勢を正した。


 上をうかがうと、不機嫌な中に呆れをにじませた表情をした担任が。

 綾香は「あ、あはは」とぎこちない作り笑いをしてみせるが何も効果はなかった。


「はあ……。川崎には言いたいことが山ほどあるけども、とりあえず『反省文書きながらまた反省文書かされるようなことをするな』とだけ言っておくぞ」


 怒っているというより呆れている様子。担任はため息混じりに言葉を続けた。


「とにかくだ、罰を兼ねて眠気覚ましに資料室からアレ取ってこい。先生さっき忘れたって言ったやつ」


 綾香はうーんと視線を宙に泳がせてから、再びぎこちない笑顔を作って尋ねた。


「えーと、なんでしたっけ?」


「日本地図。そこからもう寝てたのか」


 肩を落とす担任にこれ以上叱られぬよう、綾香は苦笑いを浮かべつつ「行ってきまぁす」とそそくさ教室を出た。

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