背後で扉が閉まりきる音がすると、互いの姿は全く見えなくなった。


 渡された懐中電灯を軽く左右に振って、光を遮断する暗幕が窓の全てに下りていることを確認すると、二人は各々の腕時計の文字盤の縁をカチリと動かした。

 すると文字盤全体から強い光が放たれ、広範囲を照らすライトになった。もちろんこれはSS本部からの支給品のひとつ。


「ザルな学校ねー」


 綾香は半ば呆れながらそう言い、ずんずん奥へ進んでいく。各実験台や椅子などにおかしな点がないかざっと確認する。


「破れたフェンスといい壊れたままの窓といい都合が良すぎる。何か作為的なものを感じるな」


 綾香とは別方向に足を進めた海一は、淡々と会話しながら教卓や黒板などを確認する。先程の愛想の余韻を微塵も感じさせない。


 二人の会話だけ聞くと、とても夜の暗闇の理科室内で肝試し中になされているそれとは思えない。まるで自宅でくつろぐ時の余裕のテンションだった。


 四人がけの黒い実験台が二つ合わさった間に、理科室ならではの変わった形の水道が設置されている。蛇口より伸びるホースから水滴が伝っていた。座りやすさを一切考えられていない、角材をくっつけただけのような背もたれのない椅子が周りに置かれている。


 特に他の学校の理科室と変わった所はない。


「んー、特にこの理科室がおかしいってことはないわね。隣の理科準備室に行きましょ」


 理科室内から理科準備室へ続くドアには鍵がかかっていなかった。一応取っ手に鍵穴はあるので施錠できる仕組みにはなっているようだが、普段から鍵をかけていないようだ。


 理科準備室は理科室の半分程度の広さしかないにもかかわらず、理科室にある荷物の倍以上が押し込まれているようだった。室内に入った瞬間に埃っぽさとかび臭さを感じた。


 二人は詰まれた物を蹴ってしまわぬようゆっくりと足を進めた。


「きったないわねぇ……。この部屋管理してんの一体誰よ」


「お前ならこの汚い部屋の管理者と気が合いそうだが、俺は多分気が合いそうにないな」


「何言ってんのよ。アンタがその本性をいつも出してたら誰とも気が合うことなんてないでしょ」


 そんなことを言い合っていると、海一は先程言われていた人体模型を見つけた。確かに暗闇で見ると不気味さが増すものだ。


 近寄ってみるとわずかに模型の肩が動いたように見えた。しかしどうもタイミングが良かったのが不思議で、もう一度下がってみる。するとギシリと足元で音がして、手前の床を踏むことにより丁度模型の下の床が連動して模型を揺らしているということが分かった。


 タネが分かってしまうと大したことではない。


 綾香はホルマリン漬けにされた生物たちが並ぶ気味の悪い棚を見ていた。確かに一つだけ、頭部が光って見えるようなものがある。何の生き物か分からないが、両手を万歳して足を大きく開いている。見ようによっては目が光っているように見えるのかもしれない。


 気持ち悪いながらももう少しちゃんと見てみると、その光はそれ自体が発光しているものではなく、外部から照らされているものだと気がついた。周囲で光源を探すと、よく目的の分からない場所に置かれている小さな手鏡があった。その手鏡は暗幕がほんの少し開いた隙間から外の明かりを取り込み、真っ暗な棚の中に反射させているようだった。


 このわずかな反射光のみでこれだけ光るのもおかしな話なので、発光しやすい塗料か何かが塗られているのかもしれないなと綾香は思った。


 その後も何か情報はないかと二人が部屋を探っていると、他にも色々と仕掛けのようなものが次々明らかになった。それらは仕掛けというにはあまりに幼稚でお粗末なレベルだったが、肝試しに来た生徒たちを盛り上げるくらいの力は十分にありそうだった。


「何ここ、やっすいオバケ屋敷?」


 綾香が不機嫌そうにそう言うと、海一も肩をすくめた。


 そして海一が見つけておいたペットボトルを回収し、二人は外に出た。


「こ、怖かったぁ~」


 綾香はさっきの女子たちのテンションを見習って、一生懸命身をすくめてみせた。仮にも肝試しを行ってきた人間が、冷めた顔で淡々と出てきたらおかしいだろう。


 だが一方、海一はというと。


「川崎くんはどうだった?」


 出てきたところを女子生徒たちにそう尋ねられて、困ったように笑ってみせると、


「いや、俺もかなり怖かったんだけど、それ以上に妹が怖がって『お兄ちゃん私もう帰りたい』なんてグズグズ言うものだから……」


 と、とんでもない嘘をすらすらと並べ立て出した。


「かいっ」


 綾香が反射的に大声で食って掛かりそうになったが、海一は後ろから瞬時に彼女の口を片手で押さえ込んで「静かにしないと」と愛想よくなだめてきた。


「ふぁいいいー、ふぁふふぇふぉふぉへえははいほぉ……!」


 口を塞がれたまま、綾香は「海一、後で覚えてなさいよ……!」と背後の彼をきつく睨み上げる。


「へぇー。川崎さんってクラスじゃキリッとしてる感じなのに、そんなかわいい一面もあるんだねっ」


「お兄ちゃんの前だと意外と甘えん坊なのかな」


 ニコニコ笑う女子生徒たちの言葉を聞きながら、綾香は白目を剥きそうになる寸前だった。


 これらの仕打ちが全て、先程理科準備室で言い合っていた時の仕返しだということは明らかで、綾香は海一があの時最後に言い返してこなかったことをもっと疑問に思うべきだったと強く後悔した。






 一同は無事に肝試しを終えると、行きほど気配を消すことを忘れ、割とわいわいしながら校舎をあとにし、何事もなく学校からも出て行った。


 もうすぐ深夜〇時になろうかというところだったので、みんなは「また来週の月曜に学校で!」と手を振り合ってそのまま解散した。

 家が近所の者同士は途中まで一緒に帰り、さっきの恐怖を語り合ったりしてその余韻を楽しんだ。


 しかし、綾香と海一は違った。


 家が同じ方向だという女子生徒と別れると、方向転換をし、再び学校方面に向かった。

 そして先程と同じように寂れた公園に足を踏み入れる。


「海一、アンタいい加減にしないと名誉毀損とか侮辱罪とかなんでもいいから訴えるわよ?」


「お前に訴えられても負けるつもりは全くないが、万一俺が有罪になったらその間は一人で任務をこなしてもらうことになるぞ」


 やはり口では海一に勝てそうにない。

 綾香はため息をこぼすと、ぐいと伸びをして気持ちを入れ替える。


「さて、行きますか。学校潜入調査、深夜の部。素人とプロの差を見せてあげなくっちゃね」


 綾香はそう言いながらフェンスをつかみ、何度か押したり引いたりしてその強度を確かめると、片足の先を掛けトントンとツーステップでフェンスをのぼり、ふわりと身を跳躍させ三メートル弱ほどあるフェンスを一気に飛び越えた。


 着地音はほとんど響かず、綾香の身体能力の高さを物語るようだった。

 海一も同じように飛び越えると、二人は校舎内に急いだ。


 先程のルートを借りることにし、再び校舎の裏に回り窓を開け、踏み台など用意せず体一つでそのまま中に入り込む。ここまでで先程の肝試しの時にかかった時間の三分の一も要していない。

 二人はそこから職員棟に急いだ。


 さっきあれだけ騒いでいても何もなかったのだからここまで気配を消す必要はないのかもしれないけれど、二人にとってこれはプライドを持ってやっている仕事。ピアニストがどんなステージでも適当に弾くことができないように、スポーツ選手がいかなる試合でも気を抜いてプレイしないように、どんな場所でも集中して任務を遂行する。


 特別教室の並ぶ廊下を抜け、正面階段を臨む昇降口を過ぎ、生徒たちの教室が並ぶ廊下を後にする。そこからつながる渡り廊下を抜けると、階を一つ上がる。


 どこの照明も完全に落ちているとはいえ、万が一のことがあるので油断は出来ない。人気がない中を物陰に身をひそめつつ、気配や物音を確認しながら進む。


 綾香は昼間に職員室を見ておくことが出来なかったので、海一が先に進んだ。


 職員室のドアには鍵がかかっていたが、先程と同じように鉄の棒で固定した部分に錠前がつけられているだけの簡素なもの。ここには警報のセンサーなど設置されていないことは明白だった。


 綾香は腕時計の明かりの強さを調整して鍵を照らし、海一はその前に腰を落としてカチャカチャと鍵をいじりだした。手にしているのはSS本部からの支給品。簡単な作りの鍵なら大抵開けられてしまう便利な代物で、SSの研修で何度も練習させられる技術の一つだ。


 一応綾香もできるのだが、速さと正確さが海一の方が圧倒的に上なので、毎回自然とフォローする側に回ることになる。


 鍵はカチャリと小さな音を立てすぐに開いた。スライド式の古い扉はガラガラと音を立ててしまうため、極力静かに少しずつ動かす。


 職員室内は当然無人で、二人は会話なくすぐにそれぞれの仕事に取りかかった。

 海一は教頭の席にある一番大きなパソコンを起動させ、綾香はその引き出しをあさった。


 昼間に海一が聞いた情報によると、浜田が会計をまとめて報告書類を制作し、最終チェックを教頭がしているという。


 教頭の机は二つ並んでおり、そのうちのいくつかの引き出しは施錠されていた。

 まず片方の机の引き出しの鍵の解錠を綾香が試みる。片腕で手元を照らしつつ、片手で鍵穴と格闘する。海一もパソコンを起動している間はそれを手伝い、もう片方の机の鍵を全て開けておいてやった。


 綾香は重要そうな資料をあさり、SS本部の支給品である特製超小型カメラで撮影していく。これは真っ暗な中で撮影しても昼間に撮ったものと同じくらい明るく写るという優れものである。そして海一は教頭のパソコンからデータを引き出しコピーしていく。

 綾香は教頭の机の前を早々に切り上げると、次は浜田の机を探った。


 職員室は広く、ドアから最奥に位置する教頭の机とドア手前にある浜田の机はかなりの距離があった。


 だからか綾香が敏感に感じ取ったほんのわずかな気配に、海一はまだ気づいていないようだった。綾香が急に立ち上がり身動きを止めたのを見て、海一も異変を察知した。


 ごく小さな音なので、ただ木々が窓に当たっただけかもしれない。何か積んであった物が崩れただとか、溜まっていた水がこぼれただとか。

 それでも、感じた違和感を軽視して放置することはできない。


 綾香は海一にそのまま作業を続けるよう掌を向けて示し、様子を見てくることにした。


 廊下に出てみるが、先程の物音は聞こえない。綾香は渡り廊下方面にもう少し足を進めてみた。するとやはり何か気配を感じた。規則的な音。人為的なもの。


 キュ、キュ、と聞こえるのは靴の音だろう。くぐもっていて聞き取りづらいが恐らく一人分。音の大きさと速さからするに成人男性だろうか。

 その足音はだんだんこちらに近づいてきているものだということが分かった。


 時刻は深夜一時過ぎ。普通はこんな時間に学校で残業をしている職員はいない。それにどこの部屋も電気が消えていたことは確認済み。だからなおのこと、今から現れるであろう人物がかなり疑わしい人物であることは間違いない。


 階段をのぼってくる音がする。この場所は職員室からは少し距離がある。

 先に海一に何者かの存在が現れたことを伝えに戻るべきか。しかし相手が職員室に来るとは限らないし、その姿をしっかり確認してから戻るべきか。綾香は素早く思考した。


 そしてこの不審な相手の姿を確認することを優先することに決めた。ここより近づくようなことがあれば、自分が慌てて伝えに行かずとも海一だって気配に気づくだろう。


 階段の死角の壁に身を寄せて、今か今かと相手を待つ。緊張で乾く口、高鳴る鼓動。全神経をそちらに注ぐ。そしていよいよ姿が見えそうだという時。


 綾香は背後からいきなり片手で口を塞がれ、もう片方の腕で掻き抱くように動きを封じられた。背後にぐいと引き寄せられ、死角の奥に引き込まれる。

 思わず声を上げそうになってしまったが、なんとかこらえた。


 爆発しそうな心臓をなんとか鎮め、きっと背後にいるのは海一なんだろうと察した。誰かが来たことに気づき職員室を出、綾香が迫り来る気配に気づいていないのだと思い、声を出して気取られてしまわぬよう押さえ込んだのだと。


 しかし、その腕や手が海一のそれではないことを、綾香はすぐに理解した。


 さっき肝試しの際に後ろから口を塞がれた時と、腕の高さが違う。背後に感じる頭の位置が違う。口元を押さえつける手の感じも体の自由を奪う腕の強さも、確実に別人のものであると分かった。


 緊張と恐怖で一気に強張る体。頭が真っ白になりそうになる。


 一体、誰。


 体術を駆使しているわけでなくただ力任せに押さえつけられているだけなので、無理に振り返ったり強引に振りほどこうとすればそれもできた。しかし階段の下からは正体の知れぬ誰かが迫っている。今騒げば、死角に居ようと確実にそちらに見つかってしまう。


 自分を押さえつけている者の目的はなんなのか。もしや背後から自分に何かしようとしているのか。


 迫り来る気配と恐怖。危機を感じて怯える体。綾香は震える息を殺し、ぎゅっと強く目をつぶった。


 足音が近づく。キュ、キュと規則的な音。物音を立ててはいけない、と思いながらも背後からのプレッシャーで自分の体をうまく律することができない。体が強張る。


 そして足音の主の姿は見えぬまま通り過ぎ、その音は小さくなっていく。足音の消えていく方向からして海一のいる職員室に行ったのではないと分かり、ほんの少しだけほっとしたが、自分の今置かれている状況では海一の心配をしている場合ではない。


 足音が去った次は、いよいよ背後の恐怖と向き合うことになる。

 綾香は心臓をバクバクさせながら相手の出方をうかがっていたが、しばらくするとこう声をかけられた。


「絶対に大声を出すなよ」


 耳元でささやかれる男の声。手の大きさや腕のごつさ、背中に感じる平らな胸板で男性だろうとは思っていたが、自分と同じくらいの身長だったためここでようやく相手の性別に確信を持った。


 綾香は警戒心を強めたが、予想に反し自分を締め付ける腕はゆっくり離され、口元をおおう手もそっと外された。


 自分の周りの気配が離れ切ってから、綾香は意を決し素早く振り返った。


 するとそこに居たのは、綾香が放課後に暴言を吐かれた相手。綾香が昼休みに助けた相手。

 名前も学年も知らない、ぼさっとした柔らかな髪に野暮ったい太縁眼鏡をかけたあの男子生徒だった。


 声を上げてしまうかわりに、綾香は強く息を飲んだ。

 眉根を寄せ、目を見開き、信じられないという顔で彼を凝視してしまう。


 なぜここに、なぜこんなことを。訊きたいことは沢山あったけれど、それ以上に自分が今どうしてここにいるのか、何をしているのかを説明する術がなかった。


 男子生徒は薄暗い中、眼鏡越しにただ黙って綾香を見つめていた。張りのない目つきなのに、その瞳はとても多くを語っているように思えた。


 綾香はなんとか、声をひそめつつ急ごしらえの理由を並べようとする。


「あ……わ、私、みんなと肝試ししてて、落し物しちゃって、それで……」


「別に嘘をつかなくていい」


 綾香のセリフをスパッと切り、男子生徒は感情のこもっていない声でこう言った。


「嘘をつかなくていいし、理由も言わなくていい。俺は誰にも言わないし、あんたに何も訊かない」


 氷のように冷たい眼差し。綾香はつばをゆっくり飲み込んだ。


「だから、あんたも俺に何も訊くな。そしてとっとと帰れ」


 それだけ言い切ると男子生徒は廊下を職員室と反対方向に進み、暗闇の中に姿を消した。


 綾香は事態が整理できなくて、しばらくその場で呆然としてしまった。

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