食後、綾香は宣言通り洗い物をしていた。


 流石にその前に制服から部屋着に替えた。寝巻きも兼ねるこの薄桃色の部屋着は、もこもことした肌触りが気持ちよく綾香のお気に入りだ。ショートパンツとパーカーのセットで、中には適当な肌着を合わせている。


 そんな綾香が流行の曲を適当に口ずさみながら、食器や鍋を次々片付けていく。

 海一はその間同じくシンプルな部屋着姿で、リビングにてノートパソコンに向かっていた。


 綾香からすると、二階にそれぞれある自室でやったらいいのに、と思う。


 綾香はくつろぐ時は大体ソファでゴロゴロしながらテレビを見るのだが、この家のテレビはリビングにしかない。作業している人の傍でダラダラしたり大きな音でバラエティ番組を流すなんて、いくらなんでも気が引ける。


 今、この静かなリビングには、綾香の鼻歌と洗い物をする音、海一がキーボードを打つ音だけが響いていた。


 するとその時一瞬、リビングの明かりが少しだけ暗くなった気がした。


「あら?」


「ん?」


 仕事上普段から気配に敏感な二人は、すぐ同時に頭上を見上げた。


「蛍光灯はここに来た時に換えたばかりなんだがな」


 海一は椅子から腰を上げると、「一応ブレーカーを見てくる」と部屋着のシャツの上にパーカーをはおった。


 綾香がきょとんとしていると、


「この家は外にある作りなんだ」


 と簡単に説明した。

 海一は綾香より一足早くこの地を訪れ住居の準備などをしていたため、この家のことは綾香より分かっているようだった。


 綾香は「ふーん」と返事にもならないような返事をすると、そのまま洗い物に戻った。


 リビングを出て行った海一の足音が小さくなり、ガタンと裏口のドアが閉じられた音がする。

 そうするとこの広いリビングには綾香がスポンジを皿にこすらせる音が響くだけとなった。


 静けさで耳がキンとなるような気がした。静寂が深くて冷蔵庫が呼吸する音がやけに大きく聞こえたり、普段は聞こえもしない自分の息遣いが妙に気になりだす。


 綾香は落ち着かなくて、一度手から泡を流し、リビングにあるテレビのもとにパタパタと急いだ。テレビの主電源を入れるとすぐに華やかな世界が広がって、賑やかな番組を盛り上げる人々の歓声や笑い声が部屋に響き出す。

 ようやく耳や心の違和感は楽になって、綾香はホッとして流し台の前に戻った。


 しばらくすると海一が戻ってきた。海一はいつの間にかつけられていた騒がしいテレビを一瞥したが、特に文句を言うつもりはないようだった。

 分電盤に異常はなかったが、庭の植木の枝がかかっていたり汚れが溜まっていたりしたので次の日曜にでも裏口を掃除する、と簡潔に報告した。


 そしてパーカーを脱ぎ、そのままリビングのテーブルについて再びノートパソコンで作業をし始めた。

 その姿を見て綾香は尋ねた。


「ねえ、別にイヤってわけじゃないんだけど、なんでここでパソコンやるの? 二階の自分の部屋でやった方が静かだし効率よくない?」


 言い方によっては「どっか別の部屋へ行け」と言っているようにとらえられかねない内容だったので、綾香はオブラートに包むようにして柔らかく訊いた。


「田舎はネット回線が遅いし電波状況も悪い所が多い。まともな電波がここしか届かないんだ」


 画面から一切顔を上げずに淡々とそう言い切った海一。


 綾香は電波だとかネット回線の速さだとかそういうことは詳しくないので、そう言われてしまうと口を閉じるしかなかった。








 翌朝二人は少し早めに登校した。朝のうちに校舎を色々と見回っておこうという計画のためだ。


 山々に囲まれた自然豊かな通学路は空気が澄み、思わず何度も深呼吸したくなるほど。静かな水辺にはちらほらトンボの姿も見受けられ、聞いたことのない鳥の鳴き声がした。田に張られた水は空に浮かぶ大きな雲を鏡のように映し、畑に植えられた農作物たちはその葉を気持ち良さそうに風に揺らしている。茂った緑と目が痛くなるくらい青い空のコントラスト。二人を包む朝の空気は爽やかでありつつも甘く暖かかった。


 学校に着くと、人の姿がまだまばらにしかない早朝の昇降口には朝の強い日光が差し込んでいて、下駄箱付近の埃をありありと浮かび上がらせていた。早朝の静寂が校庭で朝練を行う生徒たちの声をここまで響かせてくる。


 二人はお互いの下駄箱で革靴と上履きを履き替えると、昇降口より続く正面階段を上ろうとした。

 すると綾香が突然、海一のシャツの袖を引いた。


「あっ、海一。あの男子よっ」


 小さな声でそう言われて海一がそちらに視線を向けるも、ぼさっとした頭に野暮ったい太縁眼鏡をかけた男子生徒は、中庭につながる廊下方面から歩いてきたかと思うとすぐに方向転換をして姿を消してしまい、顔を確認することはできなかった。


「はぁ、昨晩言っていた男子生徒か」


 俺に個人的怨恨の話をされてもな、といつにも増して興味なさげな海一。

 隣の綾香は昨日のことを思い出してまだぷりぷりと腹を立てている。


「おはよう、転校生さん」


 声をかけられて二人が振り返ると、そこには白衣姿の男性教師が立っていた。


 線が細く頼りなさげな体格だがその表情はにこりと優しげで、あまり厳しくなさそうな先生という印象を与えさせる。背は綾香より少し大きいくらいで海一よりは低く、髪は社会人男性にしてはほんの少し長め。ノンフレームの眼鏡をかけていて、その風貌は理系の学者を思わせた。


「あ、僕と話すのは二人とも初めてだったよね? はじめまして、理科の寺崎です。全学年教えてるから、そのうち授業で会うんじゃないかな」


 穏やかな物腰で丁寧に自己紹介をしてくれた寺崎に、二人は「よろしくお願いします」と小さく頭を下げてみせた。


 そうしながら二人の頭は脳内のデータベースにアクセスする。寺崎進(てらさきすすむ)。二十八歳。学校唯一の理科教師で、全学年を指導している。担任のクラスは持たず、部活動の顧問も務めていない。


「確か二人の家はまだご両親がいらしてないんだって聞いたけど、生活で困ったこととかはないかい? 学校に通いながら二人だけで暮らすのは色々大変でしょう?」


 初日に海一が綾香に説明した通り、双子と偽って転入してきた二人は様々な設定の齟齬に説明をつける手段の一つとして、両親は仕事の都合で遅れてやってくるということにしていた。

 どうやらそれらはきちんと職員側にそう伝わっているようだ。


「ご心配ありがとうございます。なんとかやれています」


 海一が学校用スマイルで愛想良くそう言うと、寺崎は「そんなにかしこまらなくていいよ」と笑いながら前置きして、


「良かった。東京に比べたら何もない田舎かもしれないけど、人もみんな優しいし、のんびりしてていい所だからゆっくりここに馴染んで行ってね」


 と言った。

 話しやすそうな寺崎の様子に、綾香はこう尋ねてみた。


「ここで今話題の場所とか物とかって、何かありませんか?」


「話題の? もしかしてもう退屈しちゃってるのかな?」


 驚いたのか目を見開く寺崎。綾香は「いえ、そんなことはないんですけど」と苦笑しながらフォローの言葉を挟んだ。


「うーん。僕はあんまり若い人の遊びとか分からないからなぁ。生徒たちからは何か聞いた?」


 そういう彼もそんなに年がいっているようには思えないが、教師に妙に若ぶられても面倒なだけだ。気さくにやりとりが出来る様子から、恐らく昨日のジャージ姿の大柄な国語教師・浜田よりも生徒たちからの人気はありそうだった。


「一応聞いてはみたんですけど……」


 言葉を濁す綾香に、寺崎は少し苦笑しながら「もしかして」とこう訊いてきた、


「『幽霊』とか『肝試し』とか言われた?」


 教師自らがこの話題を振ってくることに少し面食らいつつ、一応肯定する。


「前から生徒たちが盛り上がってるからねぇ。幽霊が本当にいるなら僕も見てみたいから肝試しには興味はあるんだけど、残念ながら僕はビックリさせられるのとか苦手なんだよね」


 そう困ったように笑いながら言ってみせる寺崎の傍を、朝練途中と思われるジャージ姿の女子生徒たちが通り過ぎる。


「あ、寺崎センセおっはよー!」


「白衣のすそ、汚れてるから洗ったほうがいいよ?」


 生徒たちはすっかりタメ語で、フレンドリーに絡まれている。やはり生徒たちから人気があるようだった。

 寺崎は上半身をひねらせ慌てて白衣を確認する。


「えっ、ほんと? また洗わないとなぁ」


「あははっ、ウケる。そんなんだから奥さんもらえないんだよっ」


 人気があるというより、ちょっと抜けているのでなめられているだけなのかもしれない。綾香と海一は同時にそう思った。

 ダサイだのなんだの笑いながら、嵐のように女子生徒たちが去っていく。


「はは。まあこんなんだから僕にはそんなにかしこまらなくて大丈夫だよ。で、なんだったっけ、肝試しの話だっけ?」


 二人に向き直った寺崎が話を再開させようとした時、そこにまた闖入者が。


「寺崎先生! 生徒になんて話をしてるんですか!」


 野太い声で割って入って来たのは、ジャージ姿の大柄な男性教師・浜田だった。恐らく自分の担当するサッカー部の朝練を監督していたのだろう、首から笛を下げ、両腕は大きく腕まくりされている。


「転校生の川崎兄弟じゃないか」


 綾香と海一の姿を認めると、浜田は語気を強めて寺崎に詰め寄った。


「寺崎先生困りますよ。転校生にまで変なこと教えないでください! 次また生徒たちに夜の学校に無断で入り込まれたりしたら、今度こそ大問題になります!」


「は、はぁ、すみません……」


 迫力に押されながら困ったように後頭部を掻く寺崎。力関係は完全に浜田が上のようだ。


「本当、しっかりしてくださいよ!」


 そう神経質そうに言い残し浜田はその場を後にした。

 その後、寺崎も「じゃあそろそろ」と立ち去ってしまうと、綾香と海一はお互いほんの少しだけ肩をすくめた。








 その日の昼休み。

 深夜の潜入前に平時の職員室の様子や間取りを見ておきたいと、二人は適当に用事を作って職員室を訪ねることにした。


 海一は職員室近くの人気のない廊下で綾香を待っていた。昼飯なんてとっとと済ませて早く来い、と念を押しておいたのだが、待てど暮らせど彼女の姿は現れない。


 本当なら昼飯を食べていようとクラスメイトにつかまっていようと、自分が彼女の教室に行って適当に理由をつけて連れ出して来たら良いのだが、綾香が「あまりこちらの教室に来るな」と言うのだ。


 その時述べられた彼女の理由をそのまま抜粋するとこうだ。


「も~~アンタを私の“兄”として扱われるのが最高に最低に気持ち悪いの! 『川崎さんのお兄ちゃん』とか『川崎の妹』って言われるのよ!? 第一私は元々妹がいたお姉ちゃん側であって、海一だって宮乃さんていうお姉さんがいる弟側じゃない! しかもアンタが私の苗字で“川崎海一”って名乗るのがホントにホントに鳥肌立つの! 先生に呼ばれるときとか、プリントの記名とかっ! それから……」


 後半はほとんど聞き流していたのでよく覚えていないが、大体こうだ。


 全てのことに反論しようと思えばできるが、しても仕方がない。

 それよりも現に今こうやって遅刻しているのだから、次からは彼女が嫌がろうと拒否しようと容赦なく教室に迎えに行ってやると海一は心に決めたのだった。


 職員室よりわずかに離れた廊下は人通りがほとんどなく、遠くのほうから生徒たちの騒ぐ声が反響して聞こえてくる。職員用トイレや教材置き場、何のために使われているのか分からない寂れた部屋。そんな利用頻度の低そうな部屋ばかりがひっそりと並ぶこの場所は、廊下や階段もなんだか涼しげな感じがした。


 待ちくたびれた海一が自分の腕時計を何度目かに確認した時、廊下近くから生徒のものではない声がした。大人の男性の低い声だ。


「先生、会計報告資料ってどのくらいできてます?」


「実はあまり進捗してなくてまずいんですよ……。恥ずかしながら私、こういう数字とか機械とか昔から苦手でして」


 教師たちが会計に関する話をしている。そう気づいた海一は即座に声のする方向から身を死角に隠した。


 こちらに向かってくる足音の数からして二人。くぐもっていて分かりづらいが、一人は誰であるか声から察しがついていた。


「浜田先生は国語の先生ですもんね。部活だってサッカー部ですし」


「そうなんですよ。いやぁ弱りました。こんなんではまた教頭先生に叱られてしまう。生徒たちが夜に警報を作動させてしまった事件で、ただでさえピリピリしているのに……」


「最後に会計報告をチェックするのがあの“鬼の教頭”ですからねぇ」


 声の主の一人は、朝に昇降口で会ったばかりの浜田だった。やりとりからするとどうやら彼が会計を取りまとめる実務的なことを担っているようだ。もう一人の声は聞いたことがないが、恐らく他学年を担当している教師だろう。


「自分はその件についてあまり詳しくないんですが、あれって本当に生徒たちの仕業だったんですか?」


「ええ、間違いないです。その時丁度夜遅くまで学校に居ましてね、私が学校を閉めて出てすぐに警報が鳴ったので慌てて戻ったんですよ。そこで鉢合わせた肝試し中の生徒たちを全員私が捕まえたんです」


「へぇ~、そんなことがあったんですね。職員会議ではそんなに詳しく説明されてなかったんで、何があったのか気になってたんですよ。でも、全員逃がさなかったなんて流石サッカー部の顧問ですね」


 海一の潜む場所を二人が通り過ぎるとだんだん声は聞こえづらくなり、聞き取るのはここまでが限界だった。


 人気がなくなったのを確認して、海一はその場で小さく息をついた。


 昨日も聞いた、警報を作動させてしまったという話。今の浜田の話だけ聞くと筋は通っているのだが、生徒たちの反応を考えるとどうも腑に落ちない。俺たちは警報を作動させたりしてない、誰か別の人の仕業のはずだと口々に言っていた。


 海一は眉をひそめ、自分の感じる違和感の正体について考えていた。

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