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放課後になり、綾香にはまず最初にこなさなければならない任務があった。
それはあらゆる部活動に体験入部することである。部活で他クラスや他学年に知り合いを増やし色々な情報を得られるようにしたり、部活ごとの人間関係・勢力図を把握したり、顧問を務める教師に接近しやすくしたりするためなど様々な目的がある。
「女子テニス部、女子バスケ部、陸上部……今日はここまでで限界ね」
指を折って三つの部活を数えた綾香は、真新しいジャージとハーフパンツ姿で膝に手をついた。
陸上部で五十メートルを何本か走り終え、綾香はもうヘトヘトだった。この前には女子バスケ部でドリブルやシュート練習をしていたし、更にその前には女子テニス部で走りこみと練習試合をこなしていた。
この学校に転入したのは任務のため。問題の早期解決を目指し、一日一部活だけを体験入部していくなど悠長なことはしていられない。無理を言って時間ごとで区切り一日で複数部活に参加させてもらっていた。
綾香は生まれつき身体能力に優れていて、特に足の速さはまともに学生生活を送っていたら大きな大会に出場できるであろうレベル。そこらの男子生徒の記録など目ではない。
そのため綾香の走りを見た陸上部顧問は彼女の入部を強く勧めたし、その前の二つの部活でも熱烈に勧誘された。
綾香はいつか海一が言っていた、「まず目立たないようにするのが鉄則だ」という言葉の意味を身にしみて理解した。
そして今綾香は何をしているかというと、陸上部顧問の誘いをなんとかかわし、新しくできた友達に教えられた水飲み場を探していた。それは中庭にあり、日陰にあるため比較的水が冷たいらしい。
校庭の水飲み場はまだ夏でもないというのに、その日当たりの良すぎる立地のせいで水というより最早ぬるま湯で、飲むと余計に喉が渇くような感覚がするのだ。
一応校舎の全図は転入前に文科省からの資料で見ているものの、それだけで学校中を自在に動き回れるわけもなく。綾香はキョロキョロ周囲を見回しながら、ひんやりした空気の中庭を歩いていた。
中庭は校舎を挟んで校庭の真逆に位置し、さほど狭いというわけでもないが全く人気がなかった。校庭の端と端にそれぞれ正門と裏門があるため、生徒たちはここを通る理由がほとんどないのだろう。
そしてここは一日のうちの日照時間があまり長くないようで、妙に涼しかった。風の通りもよく、綾香の汗ばんだ肌を冷やしていく。
日陰を形成する校舎の作りにより、場所によってはポカポカした日差しが降り注いでいるところが点々とあって、差し込む光はそのわずかな空間を幻想的に演出していた。
それらを遠目に見つめながら綾香がうろうろしていると、突然誰かから声をかけられた。
「邪魔だから早くどこか行けよ」
敵意にあふれたトゲのある言葉、男の声。
声のする方向、まさかの足元に注視した綾香の目の前に居たのは、しゃがみ姿勢でいる一人の男子生徒。
「……なんか被害者ヅラしてるけど、俺が声かけなきゃこっちはぶつかられてたんだからな。こんな所でフラフラしてるなよ」
なんでアンタにそんなことを言われなきゃならないのよ、と普段の綾香なら脊髄反射の速さで食って掛かりそうだったが、誰も居ないと思っていた空間でいきなり話しかけられた驚きでただまばたきを繰り返してしまった。
その男子生徒のぶすっとした顔は表情に乏しく、綾香を見上げてくる双眸は半開きと言い飾って良いくらいやる気が感じられなかった。ぼさっとした柔らかそうな髪からは見た目を整えることへの無関心さがうかがえた。
それでもどこか静電気のように、触るとビリリとしそうな敵意みたいなものを彼はまとっていた。いらつきのような感情を心の根底に常に抱いていそうな眼差し。
また彼は太めのフレームの野暮ったい眼鏡をかけており、その無愛想さといい特徴は海一と近いはずなのに、印象は全く重ならなかった。具体的には表現できないけれど何かが決定的に違うと、綾香はそう思った。
「……ぶつかりそうだったことは謝るけど、初対面の相手に向かってその言い方はないんじゃない?」
ようやく再起動した綾香は、両手を腰にあてがい口をへの字に曲げた。
「そんなこと俺は知らない。いいから早くここから居なくなれよ」
それが人を傷つけたり腹立たしくさせる攻撃的な言葉だと分かっているのかいないのか、足元の男子生徒は淡々と続ける。綾香個人に対して敵意があるというよりも、他人なんてどうでもいいと思っているからこそこういうことが言えるのだろう。
綾香はともすれば額に血管を浮き上がらせそうな所だったが、ぐっと押さえ込んで気になったことを尋ねてみた。
「アンタはここで何をしてるの? 部活でもサボってんの?」
「うるさい。関係ない」
会話が成り立たない。
綾香は常時自分の考えを否定・却下してくる冷淡な相棒のせいでこういう対応には多少免疫ができていると思っていたが、やはり無理だと改めて自覚した。
「あっそ。じゃあね」
綾香はそう言い捨てると足早にその場を立ち去ろうと踵を返す。その間男子生徒は全く綾香に視線を向けず、下を向いて何か作業をしているようだった。
だがその時、ふと綾香は何者かの強い視線を感じた気がして動きを止め、振り返った。
しかし誰の姿もない。
綾香が急に機敏に動いたことに驚いたのか、足元にいた男子生徒が「なんだよ」とがんを飛ばしてくる。
綾香は「なんでもないわよ」と強気に言い放つと、今度こそ早足で中庭から引き返した。
去り際に綾香は視界の端に水飲み場を認めたが、つっけんどんな態度をとった手前すぐに足を止めることはためらわれ、結局校庭の水飲み場の生暖かい水で喉をうるおす羽目になった。
「ただいまぁー」
なんだかんだで家に帰れたのは夜八時過ぎで、日が長いとはいえ流石に辺りは真っ暗になっていた。
学校から家への道はそんなに遠いというわけではないのだが、景色にあまり変化がないのでぼうっと歩くには非常に退屈だった。任務が長引くようなら経費で自転車を用意してもらわないとと思いつつ、燃えるような夕焼けや明るすぎる月光をその身に受けながら帰宅した。
帰宅を告げる声に返される言葉はない。
家の電気がついているから海一が先に帰っていると思ったんだけど、と綾香が玄関から続くリビングへの扉を押し開けた時。
「……アンタ、何やってんの?」
綾香は目の前の光景に、思わずあんぐり口を開いて呆然としてしまった。
「夕飯の支度以外の何に見える」
リビングとつながるダイニングキッチンから漂うおいしそうな香りが、疲れきって空っぽの胃袋を刺激する。
およそ一年以上は一緒に居るが、綾香は海一が料理をしている所を初めて見た。今まで打ち合わせや会議を兼ねて共に食事をとる時は、お互い大体コンビニ弁当や惣菜パンなどを適当に食べていた。
海一は手際よくフライパンのものを大皿に移すと、綾香に白米の量を尋ねてくる。
「どのくらい食うんだ」
「えっ、あ、お腹空いてるから超たくさん!」
慌てて返された知性の感じられない答えに、海一はため息をこぼした。
「超たくさんってお前、力士一人前くらい食うのか?」
「常識的な範囲での話よ!」
立ち尽くしたままだった綾香は後ろ手に扉を閉めると、肩にかかる学生鞄をリビングのソファの脇に置いた。
「驚いたわ。海一が料理してるなんて」
「一人だったら出来合いの物で済ませた方が楽だが、二人なら自炊した方が経済的だ。それに近所を見たら分かるだろう、こんな夜にやっているような便利で品揃えのいい店は近くにはない」
「そういう意味じゃなくって、アンタ料理できたのねってことよ」
「大概のことは出来るようにされてる」
綾香の言葉に海一はさらりと事実を述べた。
生まれはどうあれ海一は名門である神無月家の人間であり、その一族の強いエリート意識と厳しい教育方針から幼少期よりあらゆることをスパルタ方式で叩き込まれてきた。
それは知っていたけれどまさかこんな所まで徹底されているとは、と綾香は驚きを通り越して感心してしまう。
海一の場合は特に早くから“一人で生きていく”ことを見越した教育をされていたのかなと、綾香は少しだけ切なく思った。
綾香は制服姿の上にそのまま部屋着用のパーカーをはおると、海一に言われて食卓を準備するのを手伝った。
一応夕飯時の住宅街だと言うのに、屋外からは人の話す声どころか車の通る音さえ聞こえない。人口も少ないし家同士も十分な距離があるからだろう。
そんな食器の触れ合う音が響くくらい静かな部屋で向き合って食べ始めた夕飯は、なんとなく落ち着かなかったけれど、料理は驚くくらいおいしかった。
「うまっ! 何これ! アンタの料理で育ったわけでもないのにすっごい“おふくろの味”感がするわ! 仮にも男子中学生の得意料理が煮魚と野菜のおひたしって正直かなりどうかと思うけど、意外に料理上手なのねぇ」
「俺を褒めたいのかけなしたいのかどっちなんだ」
目を輝かせる綾香にちらりとも視線をやらず、海一は淡々と食事をする。
「初日に伝えた通り家事は一日交代。明日はお前の番だぞ」
「えっ、ホントに私がやるの……? 本気で言ってる?」
「本気で言ってる。俺だけが毎日家事の全てをこなすのはおかしいだろう。自炊する自信がないのなら早い時間にどこかで買ってくるでもいいから食べられる物を用意したらいい」
そう言う海一もすぐに代替案を出すあたり、今までの付き合いから綾香の家事能力が低いことは予想済みだったようだ。
綾香は「はぁ」とため息をついた。こんな小姑のように口うるさい男とこれからしばらく同じ家で暮らさなくてはならないだなんて、一人で暮らす何倍も疲れる。
SSになってからずっと一人暮らしをしてきた。食事は好きな時に適当なもので済ませていたし、気が向かなければ家事なんてやらなくたって誰も文句は言わない。
「見るからに嫌そうな顔をするな。俺が好きでお前と一緒に暮らしてると思うか?」
自分以上に深くため息をつかれた後に真顔でそう尋ねられて、綾香は「そうね」と表情を引きつらせながら首肯した。
雑談がひと段落すると、海一は早速今日得た情報に関して口を開いた。
「『肝試し』なんて言葉、今時聞くとは思わなかったな」
「私もビックリしたわ。田舎は娯楽が少ないっていうし、小さな話題でも火がつきやすくて持続しやすいのかもしれないわね」
「女子生徒の一人が言っていたように、肝試しというより『夜の学校に忍び込むこと』自体が楽しみになっている様子はあるな」
「ていうか、一般の生徒たちが普通に何度も忍び込める学校って一体どうなってるの? 私はそれに一番驚いたわよ」
「しかし途中で入ってきた国語教師・浜田の話を聞く限り、セキュリティが導入されていないというわけでもなさそうだったぞ。過去に警報が作動してしまったことがあると」
海一の言葉に、綾香は野菜のおひたしを咀嚼しながら「うーん」と思考した。
「『校門が閉まってようと校舎に鍵がしてあろうと中に入れるルートがある』と男子生徒の一人が言っていた。あの口ぶりからすると生徒の内でもかなり多くがそれを知っている感じだったな」
「もし本当にそんな知られたルートがあるんだとしたら、関係者・部外者問わずみーんな夜の学校に入り放題よね?」
「大問題だな」
味噌汁を口にしてから、海一は小さく肩をすくめた。
「とりあえず明日の夜にでも連れてってもらえるようクラスメイトたちに頼んでおいたわ。実際にどんな風になってるのか確認してみないとなんとも言えないわよねぇ」
「そうか。じゃあ明日はついでに夜中にもう一度学校に行って、職員室に潜入してデータを引き出して来よう」
丁度いいだろう、と煮魚を口に運びながらそう決定した海一。
しかし綾香としては、そうなるときっと明日の晩はろくに睡眠時間が確保できないであろうことが安易に推測でき、自然とうなだれてしまうのだった。
そしてその瞬間にふと思い出す。
「あっ、ねえ聞いてよ! 部活の調査中に中庭ですごくムカつく男子に会ったの」
「お前がムカつかせるようなことをしたんじゃないのか?」
任務には関係の無さそうな綾香の感情的な口ぶりに、海一は普段通り真っ先に綾香の失態の方を疑ってかかる。
「失礼ね、そこまでのことはしてないわよ。なんていうのかなぁ……。『邪魔だ』『ここから居なくなれ』とか初対面の私に向かってズバズバ言ってきて、私が何を言っても『うるさい』って取り合わないのよ」
思い出すだけで腹が立つ、と綾香は口をとがらせた。
「その話を聞くだけではなんとも言えないが、俺もお前がうるさいと思うことはよくあるぞ。口に出さないだけで」
そう言って丁度食事を終えた海一は、自分の食器を手に席を立った。
海一に愚痴をこぼした自分が馬鹿だったと、綾香はお椀を片手にわざとらしく大きな声で嫌味を言ってやる。
「あーあ、眼鏡かけてる男ってみんなろくな奴が居ないのねぇー!」
綾香の口撃にも全く動じず、海一はキッチンで食器を水に浸けながらこう返す。
「明るくて思いやりがあって運動神経が良くて頭の回転が速い兄に向かってその言い草はなんだ」
その言葉を聞いて、綾香は一気に赤面してしまう。
「なぁ……っ! アンタやっぱりそれ聞いてたのね?! 黙ってるなんて陰湿だわ! 下劣だわ!」
「あんなデカい声で会話してたら廊下に居たって聞こえてくるぞ。あの場で何か反応を示した方が良かったのか?」
それはそれで死にたくなる思いがするのでやめてほしいと思いつつ、綾香はキッチンに立つ海一に探るようにちらりと視線をやった。
「まあ、お前が俺にそんなことを思っているわけがないから大方『自分自身の良いと思う所』でも並べたんだろうが、“頭の回転が速い”だけは外しておけ。絶対に違うと三歳児でも明言できる。ちなみに“思いやり”の件は要審議だ」
洗い物をしながらズバズバ続ける海一に、綾香の精神は瀕死状態だった。
「……今日の洗い物私が代わるから、もうこの話はしないでちょうだい」
「風呂掃除とゴミ捨てもするなら考えてやってもいい」
どうして私はいつもこの男に口で敵わないのだろうと嘆きつつ、綾香は「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
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