「ねえっ、お兄さんって前の学校で付き合ってる人とか居た?!」


 また来た。机に片肘をつく綾香は、心の中で本日数十回目の深いため息をついた。


 新しい制服に身を包んだ初日の昼休み。深い紺のプリーツスカートに真っ白なシャツ、シンプルな朱色のリボン。これでもかというほど簡素なデザインの制服は、あらゆる制服の原型を思わせるようだった。


 綾香はその持ち前の気さくさとフレンドリーさで、転入してすぐクラスの輪の中心に入ることができた。

 しかしそのせいで現在非常に面倒で不愉快な思いをさせられている。


「あの顔で彼女居ないのかよ!? 東京って一体どうなってるんだ!」


 都会から来た美形の転校生にみんなテンションが上がり、初対面の綾香に男子のクラスメイトまでたかってくる始末だった。男同士なんだから隣のクラスに行って本人に訊いて来たらいいじゃない、と窓口にさせられる綾香は強く思う。


 いつも傍に居すぎて忘れてしまうが、海一の端整なルックスはあらゆる任務地での反応で折り紙つき。おまけに人前では信じられないくらい普段と性格を変えるので、その評判はとどまることを知らない。


 普段は愛想笑いの一つも浮かべない海一。「任務を円滑にこなすためだ」というのが彼の言い分だったが、綾香は毎度毎度「いつか化けの皮を剥いでやる」と心に誓うのであった。


「川崎さんて、あんまりお兄さんと似てないよね……特に顔とか」


 苦笑しながらそう言ってくるクラスメイトの女子に「当たり前よ!」と怒鳴り散らしてやりたかったが、任務のための設定を自ら壊してどうすると己を叱咤し、思ってもないフォローをどもりながらもするしかない。


「そ、そうかしら? まぁ、見た目はともかく、意外と中身は似たところがあったり……するのよ?」


「そうなのー? どんな所が似てるの?」


 そう問い返されて絶句するしかない綾香。

 とりあえず必死に“自分”の良い所を並べてみた。


「え、えーと……明るくてー、思いやりがあってー、運動神経が良くてー、頭の回転が速い?」


 綾香が眉根を寄せて、自分でも何を言っているんだろうという状態になってきた時。目の前で自分を囲んでいた女子生徒たちが急にニコニコ微笑み出した。


「その明るくて思いやりがあって運動神経が良くて頭の回転が速いお兄さん、来てるよ?」


 そう紹介されて目の前に現れたのはいつも隣にいる無表情なあの男、ではなかった。学校用の完璧な表情を顔に貼り付けた、親切で愛想の良い海一だった。


 ゲッ、と綾香が表情を凍らせる。


 白いシャツに朱色のネクタイを締め、女子のスカートと同じ生地のズボンというこれまたシンプルさをつきつめたような男子制服に身を包んだ海一。先程の綾香の発言には特に何の反応も示していないようなので、ギリギリ聞かれなかったのだろうか。


「えーと……、何の用?」


 綾香は慣れない様子の相棒にいやいやながら尋ねた。いつもの無表情よりもよっぽど彼の考えていることが読めない。


 クラスメイトたちは男女共に、少し遠巻きに“話題の双子の転入生”のやりとりを見つめている。綾香はその視線に何かがばれてしまわないかと少し緊張していたが、海一はさらりと用件を口にした。


「これ。俺のノートを間違えて持っていったろう?」


「えっ、うそ」


 海一が差し出してきたノートの表紙には名前も教科名も記されておらず、綾香が慌てて学生鞄から取り出したそれにも同じく何も記されていなかった。


 パラパラめくってみると最初の数ページのみにだが海一の字で数式が書き込まれていた。恐らく宿題だか予習だかをやっておいたものだったのだろう。朝の登校のバタバタで間違えて持っていってしまったのかもしれない。


 綾香は素直に謝った。


「悪かったわね。自分のノートがなくて大丈夫だった?」


「気づいてすぐに解き直したから。それよりも俺は、お前の間違いだらけのノートを見ていて気絶しそうになったよ」


 妙に演技っぽく肩を落とす海一。ギャラリーたちに聞かせていることは明白だった。


「計算ミスくらいでそんな大げさに言わないでよ」


 恥ずかしさでむっとした綾香の前にドンと開かれたのは、海一により赤ペンで修正の入れられたノート。


「問題文に『bの値を求めよ』と書いてあるのにどうして答えが『x=』で始まるんだ。それから円周率のパイの書き方を間違えてる。これじゃ『π』じゃなくて漢字の『元』だ」


 他にもわずか数ページの間に計算以前の間違いを山ほど直されている。綾香はみんなの前でそんなことを暴露されて顔から火が出る思いだったが、周りのクラスメイトたちは吹き出すように笑い出した。


「か、川崎ぃ~。それはねえよ!」


 アホみたいなミスに腹を抱えて笑うクラスメイトたちは、いつの間にか海一の傍に寄ってそのノートを次々覗き見ている。


「ぎゃーっ! 見ないでよっ! っていうか、見せてんじゃないわよ海一っ!」


 海一がこのクラスに顔を利かせる為に綾香の間抜けなノートが利用されたのは明らかで、綾香はノートをひったくるように取り返すと海一をキッと睨んだ。


 全く悪びれた様子のない彼にいらだちを覚えたが、よく考えたら彼がそんな様子を見せたことなど今まで一度もない。


「二人とも面白いねー。川崎さんも、川崎さんのお兄さんも。これから仲良くしてね」


「うんうん、なんかあったらなんでも俺らに聞けよ」


 クラスメイトたちは口々にそう言ってくれる。

 しかし綾香は海一が自分の“兄”として、“川崎海一”として扱われるこの現状に鳥肌を立てずにはいられなかった。


 任務の都合で双子ということになっているが、どう見たって全く似ていないだろう。


 加えて、確かに自分はうっかり苗字を本名で名乗ってしまいそうだし、海一はそんな初歩的なミスを犯しはしなさそうであるが、どうして彼が兄でなくてはならないのか。綾香は絶対に彼を「お兄ちゃん」だなんて呼ばないと心に決めていた。


「ありがとう。じゃあ、今この西中で何か流行ってることとかってある?」


 海一は学校用スマイルをみんなに向けると、ごく自然に探り出した。


「流行ってること~? 最近そんな面白いことあったかなぁ」


「あれがあるじゃん。こないだの朝礼の時、一年の学年主任が礼したらカツラが落ちたやつ。もう大爆笑で、今の一年授業になってないらしいぜ」


「あれは? PTA会長とバレー部の顧問が不倫してたって噂」


「それはデマですごい怒られたじゃなーい。ていうか噂じゃなくって流行ってることが聞きたいんでしょ?」


「そうそう、ここら辺で唯一栄えてる大型ショッピングセンターがあってね。その中に新しく入ったアイス屋さんがおいしくってさぁ。うちの学校の人たちはみんな何度も食べてるよね?」


「バッカ、あれは東京からこの地方に初出店してきたってやつだろ。東京の奴に東京の食い物薦めてどうすんだよ」


「流行ってるって言ったら、でかいパチンコ屋の隣にあるゲーセンに入ってる音ゲーじゃね? 放課後にプレイしすぎて学校から禁止令出たくらいだぜ」


 どこの学校にでもある取り立てて注目することもないような話題が飛び交ってゆく。それでも二人は全ての話をきちんと聞いていた。学校に異変がある時一番敏感に感じ取るのは生徒たちだ。その噂話はどんな内容であろうと軽視し看過することは出来ない。


 その中でふと、気になる単語を耳にした。


「あっ、肝試しは?」


「肝試し?」


 夏の風物詩には少し時期が早くないかと、綾香は思わず言葉を繰り返した。


「川崎さんオバケとか興味ある?」


「え、うーん……まあ、少しね」


 話の流れで一応肯定したが、綾香は幽霊など全く信じていない。


 最大の幽霊出没スポットである夜の学校に幾度となく潜入してきたが、そんなものには一度もお目にかかったことはないし、居るか居ないか分からない噂の産物よりも確かに存在する人間の方がよほど恐ろしいことを身をもって経験してきている。


「うちらも別にマジで幽霊とか信じてるわけじゃないんだけどさ。夜の学校にコッソリ忍び込むとか、超非日常的じゃない? ドキドキしてテンション上がるじゃん?」


 ニヒヒと笑うお調子者そうな女子生徒に、綾香は「そ、そうね」とぎこちなく微笑み返した。それらは自分たちにとっては超“日常的”出来事であり、夜が深ければ深いほどに翌日の眠気がひどくなるわけでテンションはだだ下がりする。


「その口ぶりだと、みんなは何度か夜の学校で肝試しをしたことがあるのか?」


 海一がそう尋ねると、みんなは当然だとばかりに深くうなずく。


「多分みんなあるぜ。俺も二、三回やってるし」


「そんなに? っていうか、夜の学校って簡単に入れるものなの? セキュリティとかあるんじゃないの?」


 びっくりする綾香にクラスメイトが説明してくれる。


「セキュリティがどこでどうなってんのかとかはよく知らないけど、校門が閉まってようと校舎に鍵がしてあろうと中に入れるルートがあんだよ」


 その話は聞き捨てならないと思い二人はすぐにこう頼んだ。


「俺たちも是非行ってみたいな、その肝試しに」


「ええ。良かったら誰か連れて行ってもらえないかしら?」


 綾香の頼みを、というよりその隣に立つ海一の頼みを、女子生徒たちが断るわけもなく、口々に「いいよ!」「行こう行こう!」と快諾する。そして男子生徒たちも面白そうだと乗ってくる。


 その時、教室のドアからぬっと大きな体を覗かせてきた男性教師がいた。


「おいお前ら、転入生に何か変なこと教えてないだろうな?」


 意思の強そうな瞳にキリリとした太い眉。短く刈り込んだ髪に似合うジャージ姿の色黒な男性教師は、教室内で二人を囲む生徒たちを疑わしげに見つめていた。


「浜田先生ひどいー。うちらが不良みたいな言い方しないでくださぁい」


 非難する女子生徒の言葉を聞いて、綾香と海一は一瞬にして頭の中のデータベースにアクセスする。


 浜田勝利(はまだかつとし)。国語科教師。担任するクラスは持たず、二人の属する二年生を中心に教えている。そもそもこの学校は生徒数が少なく各学年二クラスずつしかないので、生徒のほとんどを教えていると言っても過言ではない。


 二人はこの学校に転入する前に、文科省から送られてきた資料を読み込み頭の中に整理済み。顔を見たり名前を聞いたりすればわずかなヒントから多くの情報を引き出すことが出来る。


 しかし新幹線で半分眠りながら資料を流し読みしていただけの綾香の覚えている情報はここまで。海一はもっと深く記憶していた。

 地元出身でありこの学校に赴任して長い浜田は、ずっとサッカー部の顧問を務めている。二十八歳。


「廊下を歩いてたら『肝試し』とか『幽霊』って言葉が聞こえたぞ。まさかまた夜の学校に忍び込もうとしてるんじゃないだろうな?」


 ギロリと睨みつけてくるその様子は生真面目で堅物な教師そのもので、生徒たちに煙たがられているだろうことはすぐに分かった。


「そんなことしませーん」


「本当だろうな? 過去にお前らのせいで警報が作動して、警備会社や近隣に大迷惑かけたこともあるんだから、もう変なことするんじゃないぞ」


 そう言うともう一度「転入生に変なことを吹き込むなよ」と念を押して教室を去っていった。


 その姿が見えなくなるや否やすぐに生徒たちは声を上げた。それはまるで本人にわざと聞かせたいがごとくだった。


「ハマセンくっそうぜーっ!」


「マジなんだよアイツ。俺たちは警報を作動させたことなんて一度もねえっつーのに俺らのせいにしやがってよ」


「そーだよね、あたしたちそんなヘマしてないしっ。誰か別の人の仕業なのに、うちらのせいだって決め付けてくるんだもん」


 口々に不満が噴出する教室内で、海一と綾香はちらりと視線を合わせた。

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