16
翌朝、齋藤真奈美は学校に来ていなかった。今泉の恐喝が相当効いたのだろう。
昨晩の海一との話し合いで、綾香は今泉を張り、海一は中川を張ることになった。
綾香が撮ってきた中川の写真を見て、海一が考えた結果そうなった。
中川には何か裏がある、どちら側の人間なのかもはっきりさせたい。海一が自ら張ることを申し出た。今まで中川を追跡していたのは綾香だったが交代することにした。
かわりに綾香が追うのは齋藤ではなく、本当の黒幕・今泉 麗だ。
今泉は海一と同じ五組なので、本当なら海一が追跡する方が効率はいいのだが、授業中は特に動きもないということでこの形を取ることになった。
宇津田も調査対象にしたくはあった。親への異様なまでの反発からくる無関心、それには何かあると二人は確信していたからだ。
しかしお互い体は一つずつしかない。今日は中川と今泉の動きを追うことに専念した。
そして今日は、今泉が提示した献金締め切り日の前日であった。
「皆さん、はじめまして。今日はこのクラスを担当する英語の先生が急なお休みのため、初等部で英語を担当している私・中川が授業を担当させていただきますね」
一限の授業ににこやかに現れた中川に海一は心底驚いた。
出勤してから職員室へ向かうまでをつけていた海一からしたら先程ぶりの感覚だが、他の生徒たちは小声で「綺麗な先生ね」「結構若いんじゃない?」と口々に初対面の中川の感想を話していた。
この授業は二クラス合同の授業である。海一と今泉の属する五組と、宇津田の属する六組が合同で、それをレベル別に三つに分けてある。
実力テストでトップを争う今泉と宇津田は勿論一番上のクラス、そして何かと堅実な海一も、目立たないように実力を隠しながら一番上のクラスに振り分けられていた。
いつもこの授業の度に宇津田に何かと嫌がらせを受けるのだが、不思議と今日の授業の彼は大人しかった。
嫌がらせをしないだけでなく、クラスを盛り上げるようなあのリーダー的存在としての宇津田のキャラクターが一切消失していたのだ。
ただ黙々と授業を受け、ほとんど顔も上げず教科書に向き合っている。指されれば答えをさらりと言い、余計なことは一切しなかった。
今泉は相変わらず顔をうつむかせ、物静かな少女を気取っている。
本性を知ってしまった今となっては、彼女のこんな普通の様子でさえ何を考えているのか恐ろしいのだが。
海一はふと、昨晩の潜入調査を思い出す。
そういえば理事長と中川は良い仲になっているようだった。今泉はそれを知っているのだろうか。
前回潜入調査をした際には、彼女は理事長から叱咤されていた。理事長の夫婦仲もあまり良くないことも分かった。
「はい、ではここ、神無月くん」
宇津田と今泉を後ろの席から見つめながら深く考え込んでいると、急に中川に指名された。
それでも慌てることなく、海一は立ちあがって例文を読み、その次の問題の答え完璧に述べてみせる。
海一はこういったとっさの反応が悪くないところにも綾香との大きな差があったが、今回は少し上手くやりすぎたようだ。
まるでネイティブのように英語をすらすらと発音してしまったために、クラス全体が少しざわついた。
やってしまった、と考え事に夢中になっていて力をセーブし忘れた海一は心の中で悔いた。
「神無月くんは発音が上手なのね」
中川がにこにこと話しかけてくる。
完全に一生徒から抜け出て顔を覚えられてしまっているだろうなと、海一は舌打ちをしたい気持ちだった。
「いえ、まあ」
曖昧な返事を返すことであまり会話に乗り気でないところを見せたつもりだったが、中川はぐいぐいと迫ってくる。
「ご両親どちらか外国の方なのかしら。それとも帰国子女? 海外に住んでいたのかしら?」
海一の英語の発音が良いのは、幼い頃からずっと強制的に英会話を習わされていたからだった。
押し付けられた愛人の子とはいえ世話をせざるをえなかった海一の父は、神無月の姓を名乗るのであれば賢くなければならないというモットーのもと、海一にスパルタとさえ言える厳しさであらゆる英才教育を施していた。
結局中学生になりSSとなって家を離れていくことになる海一であったが、幼少期から教え込まれたあらゆることは変わることなく完璧だった。
海一の切れる頭脳はここに起因しているといっても過言ではないだろう。皮肉ではあるが。
「いえ、少し英会話を」
問題のない程度にお茶を濁して、その会話を強引に終結させる。
中川を張る身としてはあまり顔を覚えられたくはない。
「そう、頑張っているのね。じゃあ次のページの会話文も読んでもらおうかしら。皆さんもよく聞いて下さいね」
屈託のない中川の笑み。
こんなえこひいきにも、宇津田は何の反応も示さない。いつもなら何か野次を飛ばしてきそうなものなのだが、と海一は訝しんだ。
海一は次のページもすらすらと読みあげ、すぐに席についた。中川の褒める声と、女子生徒らの黄色い声がわずかに聞こえてくる。
転入してから間もない時期にあった、体育館での宇津田の挑発。シュートをわざとミスして見せた海一の株は女子の間で大暴落したようだったが、最近になってその冷静なたたずまいが再評価されていいるようだ。
無論、海一はそんなことには毛ほども興味など示さなかったが。
席について再び今泉の様子を観察する。
すると彼女は一瞬だけであったが、凄まじい形相、目つきで中川を睨んでいた。その後は何事もなかったかのように教科書に目を落とし、黙々と授業を受けていたが。
この授業は訳が分からないことばかりだな、と小さく肩をすくめた。
一方綾香は、休み時間の度に今泉と海一の居る5組の教室に行かざるを得ないため、取り立てて仲が良いわけでもない顔見知り程度の女子生徒にわざわざ教科書を借りに行っては長々と雑談をしたり、様々な努力をしながら今泉を見張っていた。彼女がトイレに行こうものなら、綾香もさりげなさを装ってトイレに行く。
以前、小笠原と早朝登校した際に齋藤にいじめられていると勘違いして今泉かばい、話しかけた経験がある故、あまり接近しないように心がけていた。
綾香が彼女を一日つけていてまず思ったことは、齋藤が居ないと驚くほどにいじめの構図がなくなっていることだった。
今泉は齋藤に自分をいじめさせているように仕向け、被害者のふりをして実は彼女を操っている。
齋藤が筆頭に立たないと、誰も彼女をいじめようとは思わないようだ。そんな齋藤は今日は学校に居ない。
だから今泉は、一人きりでいることは普段と変わりないが、いじめられっ子には見えないのだ。
同じクラスの小笠原は、あの告白から少し綾香と距離を置いているように感じられた。自分の秘密をすっかり話してしまったので、何かと気まずいのだろう。
それでも綾香は小笠原の告白に感謝していた。そしてそのくらい自分を信用してくれていることにも。
そしてまた綾香も、自分のクラスで齋藤が居ないと嫌がらせを全く受けないことを実感していた。
行動を起こすこと全てにおいての主犯格は齋藤なのだ。
今泉へのいじめも、綾香への嫌がらせも。
そして齋藤に裏で全ての命令をしているのは今泉。綾香は唇を噛んだ。
五組へ行く度、職員室へ急ぐ海一とすれ違う。お互い視線も合わせないが、彼も中川を順調につけているようだった。
そして綾香は放課後、衝撃的な現場に居合わせることになった。
放課後になり、今泉は相変わらず一人きりで廊下を歩いている。
早めに帰り支度を済ませた綾香はそんな彼女をつけていたが、今泉は不思議な行動を起こした。
帰る方向とは逆にエレベーターで上に進んでいるのだ。表示を確認した綾香は何かの間違いかと疑ったが、十階で階数の表示板がとまっているのを確認して階段で十階まで急いだ。
十階には理科準備室がある。
綾香が最初に齋藤と今泉に遭遇した場所だ。先日今泉が斉藤を怒鳴りつけていた場所でもある。
足音を忍ばせ十階にたどり着いた綾香は、どこに今泉が居るのか分からず気配を探った。
この時間のこの階には全く人気がないというのに、元々存在感が薄い今泉の気配はなかなか読みとれない。今泉は部活動をやっているという情報もないし、声も聞こえないしと困りあぐねているところに、下の階から足音が近づいていることを察知した。
確実にこの階に近づいてきている。足音の軽さから恐らく生徒二名の足音だと思われる。走っているでもなく、ゆっくりと近づいてくる。
何かを会話しているようだったが、遠すぎて会話を聞きとることが出来なかった。
綾香は周りを見回し、近くのトイレに隠れることにした。
幸いトイレの中に今泉や他生徒の姿はなく、トイレの小窓から隠れて階段を観察することが出来た。
そして耳を澄ますと聴こえてくる、二人の会話。男女のようだ。
「本当に、これでいいのかしら……」
「やるしかねえだろ。もうこうするしかないんだ」
「お父様を頼ればいいのに……」
「あんな奴、頼りたくもない!」
綾香は二人が近づくにつれ、声と会話内容が鮮明になるつれ、その正体に確信を持った。齋藤と宇津田だ。
何かが起こる嫌な予感がした。
今、海一は中川をつけていて、この場をどうにかできるのは自分だけ。
その自覚を改めて持ち、唾を飲む。
覗き窓から、十階に着いた二人の姿を確認した。
学校を休んでいたはずの齋藤が制服を着て、不安そうな表情で宇津田に身を寄せている。
対して宇津田は、何かを決意したような鋭い目つきと強張った顔で立っている。バスケで鍛えられた体、その手の先に持つ物は。
刃物だった。
その鈍い光を見て綾香は言葉を失った。心臓が止まるかと思ったくらいだ。
「真奈美を守るためにはこうするしかないんだ」
まるで自分に言い聞かせるように、宇津田が言う。
敷き詰められた赤い絨毯に不似合いな鈍色の光が、宇津田の手元で息をひそめている。
「いいんですわよね、これであたくし、もう脅迫されなくなるんですのよね?」
すがりつくような声で、何度も二人の正しさを確認をする齋藤。
海一の話によると二人の仲は冷めきっていて、齋藤のために宇津田は何もしてやっていない様子だと聞いていたのに。よりによってどうしてこんな行動を。
齋藤の言葉に綾香は思った。いいわけがない、と。
「父さんなんかに頼らなくたって、どうにかしてみせるさ」
宇津田は刃物の力で逆に今泉を脅し返し、齋藤を守るつもりなのだ。
そんなことをしたって、何の解決にもならないのに。
歩みを進めた宇津田。
綾香は衝動的にトイレから飛び出た。
宇津田が綾香の姿を認めるより速く、刃物を持つ宇津田の手を背後から押さえこんでひねりあげる。
片手を吊ったままの綾香であったが、自分より背が高く力のある男子生徒の体の自由をいとも簡単に奪ってしまった。
宇津田は海一とほぼ同じくらいの身長・体格だったが、SSとして一般生徒よりはるかに戦闘能力の高い綾香だ。相手が海一と同じくらいの能力を持っているなら話は別だが、女子だから、片腕しか使えないからと言って全く引けはとらない。
あまりにあっという間の出来事に何も声を上げられないでいた宇津田の代わりに、齋藤がその名を叫んだ。
「川崎綾香!」
綾香は刃物を持つ彼の手に手刀を食らわせ、それを床に落とさせる。宇津田は完全に綾香に固められ動けずにいた。
そして体をひねり、綾香を睨みつけている。
「こ、こんなところで何を……」
あまりに驚いて断片的にしか言葉が出てこない齋藤に、綾香はハッキリと言いきった。
「何をするんだか知らないけれど、手段としてコレは間違っているわ」
綾香は演技の為のお嬢様言葉も使わず、断言した。チラリと向けた視線の先には刃物をとらえていた。
「何も分かってねえ奴が口挟んで来るんじゃねえよ!」
と怒鳴り、暴れようとする宇津田をガッチリ固める綾香。自分より背も高く体格の良い男相手とはいえ、同じような体格の海一本人を押さえ込むことを考えたらはるかに簡単なことだ。
綾香は齋藤に真剣な眼差しを向ける。
「齋藤さん。私はあなたを誤解していた。ごめんなさい」
少し唇を噛んでから、齋藤は綾香をじっと見つめ返す。
「齋藤さんは今泉さんに、ずっと辛い目に遭わされてきたのよね」
どうしてそれを、とばかりに目を大きく見開く齋藤。
代わりにその言葉は、体の自由を奪われたままの宇津田が言った。
「どうしてお前がそんなことを知ってんだよ。つーか、知ってるからって何様なんだよ」
「私は何様でも無いわ」
宇津田に言葉を返して、再び齋藤に向かって言う。
「齋藤さんのその苦しみや辛さを、私は一緒に解決すると約束する。だからこんなもので事態を良くしようなんて思わないで」
綾香は顎先で床に転がる刃物を示して、齋藤に熱い視線を向けた。
脱力したようにそれを見つめたまま膝を床につく齋藤。
その様子を見て、宇津田の体が少し動いた。相変わらず背後から綾香がしっかりと固めたままだったが、齋藤を心配して反射的に動いてしまったのだろう。
「間違ってることなんて、分かっていましたわ……ずっと前から」
そのまますすり泣く彼女を前に、宇津田の体からはどんどん力が抜けていった。
「宇津田くん、この刃物を拾わないと約束してくれる?」
綾香の問いかけに、宇津田は力なく「ああ」と返事をした。
体の自由を返してやると宇津田も膝をつき、齋藤の肩に手を乗せていた。
絵に描いたように途方に暮れた二人の脇に、一人立つ綾香。
海一に何も言わず大分派手な単独行動を取ってしまったが、海一も同じ状況だったらきっとこうするだろう、と綾香は確信していた。
宇津田が顔をあげ、綾香に問う。
「お前は、一体何者なんだ?」
裏の情報に精通し、自分より体格の良い男子の自由を片腕で拘束出来るだけの能力を持った少女。
宇津田はその双眸で不思議そうに綾香を見つめてくる。
「私は一組の川崎綾香。……それだけよ」
宇津田はその答えに納得がいかないようだったが、しばらくじっと見つめてから小さく言葉を口にした。
「問題を解決出来るって、本当なんだろうな」
綾香はうなずいてみせる。
「あなたたちの力になれると思う」
そして、泣き崩れた齋藤と刃物を綾香に奪われた宇津田を連れ、綾香は人の寄り付かない空き教室へと向かった。
二人から全ての事情を聞き出すために。
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