14

 帰りのショートホームルームが終わり、綾香が帰りの支度を急ぎ中川を張ろうしていた時のことだった。


 ある人物に、深刻そうな顔で声をかけられた。

 放課後になりお喋りに興じるクラスメイトや、数少ない部活動に参加する者たちで賑わっていた教室内にはそぐわない、落ち着いた声だった。


「川崎さん、ちょっとよろしいでしょうか」


 癖っ毛を三つ編みにし丸眼鏡をかけた小笠原だった。

 いつも穏やかな微笑みを浮かべている彼女が、いつになく真剣な顔をしている。

 本当は彼女を撒いて中川のもとへ直行しようと思っていた綾香であったが、その緊張した面持ちに思わず手を止めた。


「どうかいたしました?」


 綾香がそう問い返すと、小笠原は正面で向かい合ったまま「このまま普通に聞いて下さいね」と告げる。

 確かに彼女の表情さえ見えなければ、ただ雑談をしているクラスメイトたちに上手に混ざっている。


「川崎さんに大切なお話しがありますの」


 見たことのない真剣な眼差しを向けてくる小笠原に、綾香は少し緊張しながら首を傾げる。

 何かSSのことがバレたのだろうか、任務でボロを出したのだろうか、とヒヤリとしながら何度も思考した。


「本当は、中等部に入ってからはこのことを誰にもお話しするつもりはなかったのですが……川崎さんだから、言います」


 おっとりとした彼女のしっかりとした口調に、綾香も思わず姿勢を改める。


 そして、


「どうして、わたくしにそんな大切なことを?」


 と訊く。


 小笠原は迷いのない瞳で言いきる。


「先日、私が日直の日。朝に教室までご一緒した時のことです。川崎さんは今泉さんをかばわれました。だからです」


 綾香はいまいち彼女の言っていることが理解出来なかった。腑に落ちない表情のまま彼女を見つめていると、小笠原は意を決して口を開いた。


「この学校の女子生徒たちを本当に仕切っているのは、今泉さんです」


 強い口調でそう断言した。


 小笠原は綾香の表情の変化をうかがっていたが、綾香は僅かに眉をひそめただけであった。もちろん、何も考えていないわけではない、むしろその真逆と言っていい。すさまじい速度でこれまでのことを思い出し、色々な点を照合しているのだ。


 小笠原は言葉を続ける。


「あの日、齋藤さんを責め立てるような言動が見られましたが、あれは矛先が違うんです」


 その言葉に綾香は、昨晩の海一の『齋藤真奈美は被害者の立ち位置にいる』という言葉を思い出す。


 そして先日のあの朝の現場も思い出していた。

 小笠原が『齋藤さんのバックに誰がついていると思ってるんですか!』と大騒ぎして取り乱していた。


 あの“バック”が指す言葉とはもしかして、綾香が予想していたもの、“宇津田明良”のことではないのかもしれない。

 綾香は今になって自分の早とちりの可能性に気付く羽目になった。


「齋藤さんを、今泉さんが操っているんですのね?」


 綾香はそっと言葉を選んで、彼女の前に置いていく。


 小笠原はそのパーツの一つ一つを検品するように丁寧に聞き取り、深くうなずいた。


「はい、その通りですわ」


 綾香は体が脱力していくような感覚を覚えた。

 それもそうだ、と綾香は唇を噛む。


 齋藤の性格が人より少しばかりきついからと言って、金銭主義のこの学園において理事長の娘が、その他家庭の娘より優位に置かれていないはずがない。


「今泉さんは、齋藤さんにいじめを受けているんではなかったんですのね」


 部活動を見て回った日に、理科実験室で偶然目撃してしまった今泉を取り囲むあの光景を思い出しながら言った。


「今泉さんは、自分が動きやすくするために齋藤さんをコマのようにして使っているんです」


 小笠原は少し声を低めて言う。


 あれはいじめの光景なんかではなかったのだ。

 教室の真ん中に座り、今泉が各リーダー格の女子に指示を出していた瞬間だったのだ。


 転入生の綾香という突然の来訪者に場が凍り、齋藤がとっさの判断で綾香を追い出したにすぎない。

 綾香がずっと勘違いをしていただけだったのだ。


 そしてあの日の朝も、今泉が具体的に何かされたり言われたりしているといった様子は別になかった。

 ただ、今までのことから勝手に情報を照合して、今泉と齋藤のいじめの構図を勝手に作り上げてしまっていただけ。


 唇を噛む綾香が虚空を睨んでいると、小笠原は言葉を足した。


「腕のお怪我やお身体の傷のこと、本当に大変だったと思いますわ……。だから、どうか今後は、今泉さんには関わらないことを強く勧めます」


 バットで襲撃された傷が、妙に痛む感覚がした。


 そしてその日のことも思いだして、ハッとした表情を小笠原に向ける。


「まさか、私に怪我をさせるよう指示をしたのも……」


 小笠原はコクンと頷いた。


 齋藤が綾香と同じクラスだったため彼女が行動したに過ぎないが、指示をしたのはあくまで黒幕の今泉だったのだ。


 軽くパニックになる思考。

 今頃齋藤を追跡しているであろう海一のことを考えた。

 それが意味のないことだということを早く伝えなくてはならないという気持ちと、今すぐ今泉をマークしなくてはという思いが綾香の中を一瞬で駆け巡った。


 気づけば教室は二人を残して誰も居らず、廊下からわずかに声が漏れてくる程度だった。


「ねえ、小笠原さん」


 綾香はふと気になることがあって、彼女をじっと見つめながら問った。


「どうしてあなたはそんな大事なことを深くまでご存知ですの? 大抵の生徒は、齋藤さんが女子を仕切っていると考えているようですけれど」


 小笠原は軽く顔を伏せていたために、眼鏡が光を反射してどこを見ているか分からなかった。


「小笠原さんが、初等部からこの学校にいるからでして?」


 綾香の質問に小笠原はまず眼鏡を外して、次に両の長い三つ編みをほどいた。


 するとシャンプーの芳香と共に、美しい艶やかなウエーブの髪が広がる。

 顔をあげた小笠原は、普段の丸眼鏡で隠されていたその美貌を明らかにした。


 作りの細かな二重の瞳にはロウソクの灯のような、淡く優しい光が宿り、波打つ髪は色素が薄く、神話に出てくる女神を彷彿とさせた。

 そういえば転入してすぐの頃に、彼女はフランスの血が入ったクオーターなのだと言っていたのを思い出す。


「私はこの容姿のせいで、今泉さんにいじめられたことがあるんです……。初等部の時に。それ以来、学校でこの眼鏡と三つあみを外したことはありません」


 確かに普段の三つ編み丸眼鏡の小笠原と今の小笠原では全くの別人のように見える。

 そして何より思ったことが、儚げで美しいという印象を抱いた今泉よりも、余程美しいということだ。


「誰も味方をして下さいませんでした。当然です、みんな今泉さんが怖いんですから。今泉さんは理事長の娘という地位を利用して人を脅し、自分の思うように行動させようとします。それでも言うことを聞かなければ、自分の手は汚さないままに、暴力の影をちらつかせます」


 伏し目がちにしていた瞳を再び真っすぐ綾香に向ける。彼女の睫毛が頬に影を落としていた。


「でも、川崎さんは違った。あれだけ恐ろしく演出されていた齋藤さんに立ち向かっていって、人を助けようとした」


 彼女の心からの言葉に、綾香は思わず口をつぐんだまま何も言えなくなってしまう。


「だから私も、そんな人の助けになりたいと思ったんです。正しい事をしようとしている人が被害を受けるのは、もう沢山です。でも、私には立ち向かう勇気がありません……。だからせめて、川崎さんを止めたかったんです。せめて、止めることで、守りたかったんです」


 そう言って唇を結ぶ小笠原は、やはり美しかった。






 齋藤は迎えに来た車で去ってしまった宇津田を恨めしそうに見送ると、学校指定の革バックから携帯電話を取り出す。


 メールか何かを読んでいるのかしばらく動きが止まったあとで、重い足取りで駐車場を後にする。


 海一はあと少しというところで気付かれそうになりながらも何とかかわし、再び彼女の後をつけた。


 彼女が地下一階でエレベーターに乗ったのを確認すると、階数の表示が十階で止まったのを確認した。同じようにエレベーターを呼び出し、九階に向かう。


 放課後のエレベーターは他の階で止まることなく九階まで着くことが出来た。生徒たちはほとんど学校に残っていないのだろう。


 エレベーターを降りた直後に齋藤と鉢合わせてしまう可能性を危惧し、九階から十階へは階段で上がる。

 十階に着くと海一は一部屋一部屋まわり、足音を忍ばせて聞き耳を立てる。


 理科実験室の入り口から、漏れて来るわずかな声が聞こえた。

 海一が盗聴の態勢に入ろうとした時のこと、


「海一」


 と背後からなるべくひそめた声が聞こえた。

 それは今泉を探し急いで階段を上ってきたらしい綾香だった。


 中川をつけているはずの彼女が何故ここに、と海一は疑問符を頭に浮かべたが、耳に入り込んできた怒鳴り声で、二人の意識はそちらに強制的に集中させられた。

 綾香も急いで盗聴態勢に入る。


「いつまでもたもたしてんのよ!」


「もうやめて!」


 無口でいつもうつむいている今泉の声を二人はほとんど聞いたことがなかったが、これまでの推理からしてこの恫喝する声は今泉のもの。


 そして悲鳴にも似た声を発したのは齋藤だった。

 齋藤がこんなに弱気で、泣きそうな声を出しているのを聞くのは綾香は初めてだった。


「麗ちゃん言ったじゃない。私が理事長先生への高額献金をさせる手伝いをすれば、私の家の献金は見逃してくれるって」


 泣き出しそうな齋藤の声。呼び方からして、相当昔からの付き合いなんだろう。口調もどことなく、普段のお嬢様言葉より砕かれているように感じる。


「バッカじゃないの。わたくしにそんな権限があるはずないでしょう。他の者は全て献金し終わったんだから、あんたんちが献金すれば完了なの。平和な学園生活の為にそのくらい親に泣きつけばいいのに! あんたにメソメソされるとヘドが出ますわ。ああ、気色悪い」


 本当に今すぐにでも唾を吐きだしそうな様子の今泉に、綾香はザワッと全身に鳥肌が立った。


 自分が守ろうとした人物がこの人。自分を襲撃させた人もこの人。

 左腕の骨のヒビがきしむような感覚がした。思わず目をつぶったまま回想してしまう。自分はなんて誤解を起こしてしまっていたのだろう。


 海一に『齋藤真奈美は被害者』と言われても、心の深いところではどこか信じることが出来ていなかった自分の思考の凝り固まりが憎らしかった。


「献金って、そう簡単に言うけど、あんな大金頼めるはずないじゃない……。お父様とお母様が困りますわ」


 齋藤の今にも折れてしまいそうなか細い声をなんとか耳で拾う。

 最後に付け足された一言に今泉が舌打ちをしたのを、海一は聞き逃さなかった。


「あんたの家庭の事情なんてわたくしの知ったことじゃないわ。学校に通えなくなるのとどっちがいいかよく考えるのね」


 聴覚を室内に向けたまま動かない海一は、脳内では思考をフル回転させていた。


 やはり齋藤真奈美は被害者側の人間であったのだ。七人の献金候補者のうちの最後の一人。

 そして今泉麗、理事長側の人間から強い圧力を受けている。


 それから、宇津田はやはりこの献金騒ぎにはノータッチなのだ。


 理事長を父に持つ今泉に対抗できる唯一の人間である、父親が学園長の宇津田。斉藤が彼に助けを求めるも冷血なまでに一切対応しようとはしない。

 宇津田にはきっとそれほど、親に関わるのが嫌な理由があるに違いないと海一は踏んだ。


「あんたの恋人もどきに泣きついてもどうせ無駄ですわよ。あんたは初等部の頃から私の盾になってきた女、そんな性悪女の味方なんて誰もしてくれませんわ」


 追い打ちをかける今泉の言葉に、綾香は思わず、握る拳に力がこもる。


 怒りと失望に震える綾香の気配を敏感に察知して、海一はそっとその肩に手を添えた。無言の「落ち着け」というメッセージだった。


 言葉はなくとも、綾香は海一の行動の意図をすぐに理解することが出来た。

 そして仕事上のパートナーである私たちがこのくらい簡単に以心伝心することができるのにと、齋藤と宇津田の悲しい関係を想った。


 綾香は十三歳。まだ誰かと付き合ったりしたことはない。告白したこともされたこともない。漫画やドラマの世界の知識しかないけれど、恋愛関係というのはそんなに冷たくはなかったはずだ。


「いいですこと、何があっても明後日までに入金するのよ」


 今泉の高圧的な足音が迫ってくるのを察知した海一と綾香は、それぞれ素早く扉の死角に隠れた。


 今泉はキョロキョロと辺りを入念に見回して、去って行った。

 扉を出た瞬間からいつものうつむきがちな少女に戻り、トコトコと。


 しばらくすると目を赤くした齋藤がとぼとぼと現れ、フラフラと去って行った。


 二人を見送ってしばらくして、海一と綾香は注意深く理科実験室に侵入した。


「まあ、こういうことだったんだな」


 海一が話の口火を切る。


 綾香はまだショックを受けた表情をごまかしきれないまま、ゆっくりうなずいた。


「やはり理事長サイドの真の脅迫者は今泉麗だったか。彼女が齋藤真奈美を背後で操っていたのだから、学園長側だと思われていた齋藤は“理事長側の人間”ということになる。学園長サイドで脅迫を行う女教師中川に加え、全く無関心の宇津田……これは何かあるな」


 海一の能弁ぶりとは対象的に黙り込む綾香。


 その様子を見て海一は小さく息を吐いてから、なるべく優しく聞こえるような声で「元気を出せ」と言った。


「だって!」


 綾香の震える二つの瞳はじっと海一を見つめる。

 海一は彼女のまっすぐさ、純粋さはこうして傷つけられていくのだろうと思った。


 海一はあの病院の屋上で必死に言葉を並べた夕暮れを思い出して、口を開いた。


「ショックなことはショックなこととして受け止めるしかない。裏切られたような気持ちや自分の落ち度を嘆く感情はあるだろう。しかし、今注目すべきことはそこではない」


 妙に真摯で優しげな海一の言葉に、綾香は小首を傾げる。


「この献金対決の構図を作った一番の黒幕を探し出すのが俺たちの任務だ。そいつにたっぷり怒りをぶつけてくれればいい。言ってしまえば他の者たちは踊らされているに過ぎない」


 海一を見上げる綾香の瞳に光が灯る。口角をキュッとあげて、


「そうね」


 と微笑んだ。


「俺の言葉は届いたか?」


「バッチリよ」


 海一の無表情だが怪訝な口ぶりの言葉に、綾香は一つのウインクで応えた。


「よっし、これから何をすべきか整理しましょう!」


「ああ、徹夜で会議だな」


 海一の返答に一瞬遅れて、綾香が「おー!」と負傷していない方の腕の拳を天に突き上げた。そして内心で、また徹夜かぁ、と涙を流すのであった。

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